※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:やられたらやり返すという考え方はそんなに悪いか?)
やられたらやり返す?考え方は悪いのか
このQ&Aのポイント
結婚式のご祝儀や付き合いにおいて、やられたらやり返すという考え方に賛否が分かれている。
一部の人は、自分が受けた待遇や金額に応じて同じように返すべきだと主張している。
一方で、被害者が我慢することや大人の対応をすることが美徳とされることに疑問を呈する声もある。
先日、本サイトで結婚式のご祝儀に関して質問をしました。
私は友人、知人の結婚式におけるご祝儀は、持ちつ持たれつという
持論を持っています。
なので、ご祝儀を3万包まれたなら3万。
周りが全員3万でも、本人からのご祝儀が2万だったなら、
私は2万で包む。
参列においても、自分の式に参列しなかった人に関しては、
参列はしない。
そこに見えてこない個人の祝う気持ちは同等ではないかもしれませんが、
目に見える形としては同等にして返すべきという考え方です。
なぜなら、結婚式や葬儀関係の付き合いは、
友人当人だけでなく、その配偶者、親、子供等が関わってきます。
結婚式に特化するなら、配偶者はもしかしたら家族ぐるみの付き合いに
なるかもしれません。
私、又は友人の人柄を知らないお互いの配偶者は、
まずはそういう公式な場での立ち振る舞いを見ると思います。
そういう時に対応や金額に差異があって、
非常識のレッテルを貼られたり、先入観をもたれたくない、
友人の家族に対してそういう感情を持たれて友人に恥をかかせたくない、
という気持ちからで、私も同様にそういう恥をかきたくありません。
これに対して回答者の皆さんからは、
「やられたらやり返すのようだ」「幼稚だ」「心が狭い」「大人になれ」等、
数多くの批判を受けました。
そして、逆に、
じゃあ仮に自分の式に何らかの理由で欠席した友人10人が、
全員式に招待してきたら、何も思わず参列するのか?という話です。
仮に相場を3万とすれば、30万です。
「大人の対応」という見栄の為にそんな大金喜んで出すのか?
という話です。
前置きが長くなりましたが、
確かに私の考え方は「やられたらやり返す」かもしれません。
もちろん、それはネガティブな事に特化した表現であり、
「やってくれた事は最低限やって返そう」というポジティブな側面も
あると思います。
じゃあ、何故「やられたらやり返す」というのがダメなのかわかりません。
犯罪者に対しても同じではないか?と思う事が多々あります。
人を殴った者は同じ様に殴られればいい。
人を殺した者は同じ様に殺されればいい。
まぁ感情論ですが、世に起きる事件では、
何故被害者や遺族が辛い思いをして、
加害者は何年かの刑期を終えれば、家族の元に戻り、
または新たに家族を作る者すらいます。
何故、加害者がのうのうと暮らしているのか理解が出来ません。
例えばもし、若い息子を同年代の若者に殺害された両親が、
ある日道端で、刑期を終えたとはいえ、家族と手を繋ぎ、
幸せそうに歩いている犯人に会った時、
どういう感情になるのでしょうか?
刑期は済んだから仕方が無い、となるものでしょうか?
「何故、被害を受けた者が我慢するのが世の常なのか。
何故、我慢をするという行為が美徳とされるのか」
全くもって理解が出来ません。
ご祝儀の話に戻っても同じです。
確かに、祝いの席なので金、金というべきではありませんが、
自分の結婚式の時に仕事があるからと欠席し、
祝いの品を郵送程度で終わらせた友人に対し、
正装して、時間を割き、交通費をかけ、ご祝儀3万を支払う事が、
「大人の対応」と曖昧な表現で常識とされているのか?
であれば、同等の行為、お返しこそが、
常識ではないのか?
何故、我慢する事が「大人」なのか?
全く理解が出来ません。
日本にはそういう風潮が多すぎる気がします。
例えば、「騙された方が悪い」こんな言葉も飛び交ってますが、
どう考えても騙した方が悪いに決まってます。
何故、騙された被害者が責められるのか?
同じく、騙された人に対しても「正直者はバカを見る」、
そんな言葉が存在する自体おかしい。
何故、そんな2つの言葉があるのか?
被害者が大人しくしてるかではないのでしょうか?
やり返せばいいのではないでしょうか?
確かに、やられたらやり返すでは収拾がつかないかもしれない。
それに強姦や痴漢、児童に関する犯罪のように、
やられたらやり返すが成立しない事案もありますが、
今よりは抑止力があるのではないか?
と、考えますが、皆さんはどう思われますでしょうか?
異論、反論は歓迎いたしますが、
気に入らないなら海外に住め、イヤなら自分が制度を変えろ等の
元も子もない回答や、考え方に対する誹謗中傷はお断りします。
お礼
再回答ありがとうございます。 誤解を生んでいたようなのでここで訂正させて頂きます。 >社会的な賛否を見てみると必ずしも「殺人」が同じ犯罪行為として捕らえられているわけではありません これに関してはあなたと同じ意見です。 中には殺されるべくして殺された被害者もいます。 それを「殺人」という結果だけに基いて、 加害者の殺害を許可する制度を設けるべき、と唱えてる訳では ありません。 昔のあだ討ちや、報復がどういう基準で行なわれていたのかは 分かりませんが、 今は、「殺人事件」という問題に至るまでの、 被害者、加害者の背景を調べる能力、機関が昔より格段に 進化しています。 そこに至るまでは私は現状のままでいいと思います。 正直、あなたの例示した5件の事件。 私の理論が当て嵌まるのは私の中でも上の2件だけです。 確かに下の3件に関しては殺人を殺人で返すのは問題があると 思います。 3番目はともかくとして4,5番目に関しては、 無罪でもいいのではないかとすら思えます。 あなたと同じ様に「加害者が絶対悪ではない」という理論を 回答してくれた方々があなたと同じ理論からその結論を 出しているのならば、反論を取下げます。 もちろん、あなたの様に説明して頂きたかったのは言うまでも ありませんが笑 >報復が可能だとしても報復できる人とできない人がいる、ということです 報復が可能として回答しますが、 これは確かに私人間で勝手に報復しなさいというなら 確かに難しいです。 ですが、私が言っているのは公機関をもっての報復ですから、 そこまで難しい事ではないと思います。 相手が共犯殺人ならどうすればいいか? →全員逮捕して、全員を殺せる状況に置けばいい。 報復の意味がない、と被害者が感じるなら、 現行どおりの刑罰を執行すればいい。 つまり、現行法は被害者の選択肢が少なすぎる事が問題だと 思っています。 極論ですが、死刑囚が死刑を執行されるなら、 被害者遺族に執行を待つか、自らの手で執行するか、 くらいの選択肢はあってもいいのではないか?という事です。 そうなると、当然に裁判によって被告は裁かれており、 事実、「死刑」の宣告を受けている訳ですから、 加害者側家族の被害者意識が生まれる可能性は低いと感じます。 少し、当初の質問内容と論点がズレていますが、 あなたの回答によって、私の考え方が少し変わった部分が ありますので、あなたに限り、少し理論を変える事を ご了承ください。 最後の部分に関しては、私の理解が足りないのか、 違和感を感じます。 前半部分、社会と個人に関しては理解できますが、 自動車の例との繋がりが見えません。 確かに自動車は社会にとって有益ですが、 それは凶器を使った殺人事件にはほぼどれも適用されませんか? 包丁だって同じです。 ・刺殺しようと思って刺した。 ・正当防衛で刺した。 ・料理中に呼ばれて、うっかり包丁を持ったまま振り返ったときに刺した。 まぁ3つ目は多少無理はありますが、 あなたの例と同様で、3件の刑罰が違うのは、 凶器が車だから、という訳でなく、そこに至るまでの経緯、動機ですよね? つまり、やはり犯罪に関しては個に還るという事ではないですか? 私からすれば自動車の例でも、車どうこうではなく、 全て個人の責任です。 轢き殺そうとしてのは当然加害者の責任で、重罪。 飲酒運転に関しても犯罪と承知で行なった加害者の責任。 うっかり轢いてしまった人も全く責任がないとは言わないが、 上記2件とはやや罪は軽くなる。 これは、自動車どうこうではなく、 あくまで個人の問題ですよね? そう考えると、満足のいく刑罰の量という議論において、 本件は全く関係のないように思えますが?