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「ワケアリの彼氏」になってしまうけれど・・・
もしも,あなたの「パートナー」が,何かしらの「ワケアリの要素」があったとき,あなたはどのようにして,彼,あるいは,彼女に接しますか? すぐに別れますか? それとも,パートナーとしての関係は保ちつつ,応援したり,フォローしていきますか? あるいは,恋人→友達,というように,関係のレベルを変えますか? これまでに,さまざまな「アドバイス」をしてくださった方,ほんとうにありがとうございます。 これまで,さまざまな恋愛にかんする「やりとり」がありました。 恋愛にかんする「言説」のみならず,これからそれを「経験」する人々への,何かしらの「ヘルプ」になると考え,わたし自身のことについても触れながら,まとめてみました。 わたし自身が,恋愛関係において,あまり,わたし自身から「アクション」をとることがなかった「理由」として,わたし自身の「複雑さ」が挙げられます。ひとりひとりが,複雑な面を持っていますが,そのなかでも,わたし自身は,「語れない辛さ」,「耐えられないもの」が,いろいろとあります。マイナスなイメージがつくものではありますが,「ワケアリ」の彼氏になってしまうのかもしれません。 1.親が「ガイジン」 参考(http://okwave.jp/qa/q7949289.html) 仮にでも,わたし自身が誰かと交際しているとします。そして,わたし自身の「出自」を理由に,結婚を断られた,あるいは,今後の交際を断られた,という「事態」は,考えられるものです。 わたし自身の「キャラクター」が嫌だから・・・,などという「理由」は,理解のできるものでしょう。しかしながら,もしも,「出自」を理由に,「別れ話」を持ちこまれたときには,その「ショック」は,大変大きいものです。避けたいくらいのものです。 わたし自身,「出自」,「民族的バックグラウンド」を理由に,「いじめ」を受けた「過去」がありました。<別れる>こと,<拒絶される>こと,これらは,多くの人々が使う「別れる」,「拒絶される」という言葉とは,大きく意味が異なります。「社会的な文脈」が含まれるのです。そして,わたし自身にとっては,それは「社会から拒絶された経験」になります。 単なる「別れ」を恐れるということよりも,<拒絶>の<恐ろしさ>があるからこそ,そういった「過去」を繰りかえしたくないという「気持ち」があるのです。 *このようなことを,気にする人は,あまりいないのかもしれません。しかしながら,いまだに「世間体」があることから,多くの人々は,「タテマエ」では,「ガイジンでもOK」といいながら,その「ホンネ」とは,「親戚づきあいのこともあるから・・・」というものがあって,「ガイジンは嫌だ」というものです。 2.体に隠された<バクダン> 参考(http://okwave.jp/qa/q7950999.html) わたし自身,現在も,いわゆる「聴覚過敏症」に悩まされるときがあります。 たとえば,家の近くで体育祭をやっているとか,花火大会があるとか,そういうときには,外出を控えるようにしています。どんなことがあっても,外に出ないようにしています。 いまでも,クラッカーを持っている人,風船を持っている人には,近づきたくありません。言葉では表現しにくいものですが,ある種の「恐怖症」を,わたしは持っています。 わたし自身は,自分自身が「嫌い」というわけではありません。しかしながら,いろいろと「とんでもないクセ」があるので,そういうところが「露呈」されることによって,他人から「悪い評価」を受けるのではないかと,そのことを恐れるときがあります。 好きで,望んで,ピストルの音が怖くなったわけではありません。小さいときから,ほんとうに,怖かったのです。昔は,いまのように,イヤーマフなんてありませんでした。どれだけ,「みっともない思い」をしたのでしょうか,数えられないほどです。 しかしながら,「負の要素」はありますが,「正の要素」もあります。 参考(http://okwave.jp/qa/q7947491.html) わたし自身,「さまざまなこと」と向きあう必要があります。ですから,その点においては,ほかの多くの人々とは,違った面があると,わたしは思います。 「勉強」ばっかり,「理論武装」ばかり,そうであっても,「心の内」では,「弱点だらけ」であることは確かです。それらと真摯に向きあいつつ,恋愛についても考えています。
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- Daniel5013
- ベストアンサー率14% (3/21)
『武装を解け』とは、攻撃のための「危険な凶器をおろせ」という意味ではなく、身を護る「重たい鎧やカブトを外してもっと楽になったらどうか」というつもりでした。 他の質問回答で僕が乱暴な言葉を選んだために、あなたを傷つけてしまいました。 申し訳ありませんでした。 さらに、質問と無関係の書き込みをしたことを重ねておわびします。 ごめんなさい。
- toumeipapa
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「出自」や「血」についてのトピも拝見しました。 何度も読み返しましたが言葉として出てこなかったので回答には至りませんでしたが…。 色々な国が自分の国を守ろうとするのは、いつの時代も同じような気がします。 そうですか…私のような人間はこれから少なくなるのですね…。 私の分身である子供の行く末が心配になります。 「ハーフ」「クォーター」等は差別用語になるのですか?そうだとしたら、ごめんなさい…。何と言えば良いか教えて下さると嬉しいです。 (2)に対しての回答です。 何も問題じゃないですよ。 ちゃんと最初から話をしておけば良いのです。 「僕は耳が悪いから、こういう事は苦手で駄目なんだ」と…。 ちなみに…私は飛行機が恐くて乗れません。 1度、沖縄に行った時にエアポケットが酷く…それ依頼乗っていません。 人それぞれ、出来る事、出来ない事ってあると思います。その中のひとつとして考える事はどうでしょうか?
お礼
回答ありがとうございます。 わたし自身,日本の歴史などを学んでいますが,そういったものをとおして,わたし自身の「出自」とか,「アイデンティティ」について向きあうようになりました。 こういった「話題」は,その「話し方」によっては,「波風」を立てているようなものであると「誤解」される場合があります。 あとは,今後も「ミックスの日本人」が増える傾向にあるとは思いますが,だからといって,いわゆる「マジョリティの日本人」が少数派になることは,ほとんどないでしょう。なぜならば,国際結婚の件数が増加傾向にあるとはいえ,いまだにその件数は,マジョリティのカップルの件数よりも,少ないからです。 つい先日まで,「ハーフ」という「言葉」が使われましたが,わたし自身,そのような「言葉」が使われることを望みません。何かしら,「ひっかかるもの」があります。それに,まるで,「見下されている」ような気持ちにもなります。ですから,「ミックス」という言葉をつかってくだされば,それでいいと思います。 あとは,わたし自身の「ハンディキャップ」についてですが,これについては,回答者さんが考える以上に,日本社会においては,「ハンディキャップ」そのものを「隠す」,「悪習慣のようなもの」が根付いています。いわゆる,「障碍者」であっても,人格を持つ尊い存在です。回答者さんは,このことをしっかりと理解しているものと思いますが,回答者さんのような「ものの見方」をする日本人は,あまりいません。 誰かしら,「ひっかかるもの」を持っていますが,「いたわる」ということを,しっかりと実践できるようにしたいものです。
- toumeipapa
- ベストアンサー率23% (88/382)
こんばんわ (^-^)/ (1)についてですが外人であると言う事だけで反対する世の中じゃなくなっているのではないでしょうか? 確かに、私の子供の頃には朝鮮学校の子と交流がありませんでしたし(これはお互い交流持たなかっただけかもしれませんが)避けていた感もありました。(確か学校で注意を受けた記憶があります) この歳になり思うと現在では、普通にハーフの子が学校にいますし、英語の先生もアメリカ人です。 私の子供の英語教室の先生もアメリカ人でした。 ただやはり文化の違いから、一緒に生活するには相当努力しないと、大変でしょう。 周りから見るのと違い、毎日の生活に密着する事なので、それが出来るかどうかって事が互いに求められます。 外人だから駄目というものとはまた違うので、 ここは、最初にお互い理解する必要があると思います。 (2)ですが、それが問題になるとすれば、どういう時であるかがわからないので答えるのは辞めようと思います。 この2つの問題は、同じ日本人同士でも起こる事です。 例えば (1)は 宗教の違いから 家の格差問題等 (2)日本人にも障害を持った人がいます 実際今の世の中にストレスを感じ通院してる方々もいる中… これらの事が特別だと思わないのですが… いかがでしょうか?
お礼
回答ありがとうございます。 わたし自身,ここ最近になって,日本社会のなかで排外主義の風潮が高まっていることから,みずからの「出自」を気にすることが多くなりました。わたしの親,そして,ご先祖様は台湾の人々です。つい最近まで,台湾にたいするイメージは,「多額の義援金を送ってくれた」というものでしたが,ここ最近は「尖閣諸島の領有権問題」や,「台湾企業による日本企業買収問題」などで,その「イメージ」が「悪化」しつつあります。そのことを「危惧」していました。 回答者さんのように,人物本位で他者をみる人々は,これからの日本社会においては少なくなるだろうと,わたしは考えます。人物本位よりも,「出自」や「門地」が強調されることは,わたし自身にとっては,気持ちの良いことではありません。使いたくない言葉ですけれども,「ハーフ」という言葉がありますが,「ハーフ」であることの「窮屈さ」というものが,あります。日本語ができても,日本社会のルールを守っても,どこかしら,「理解できない」,「超えられない」,あるいは,「超えられない」ものがつくられてしまうのではないかと,危惧しています。回答者さんのような方に出会うことができれば,それがベストです。 あとは,わたし自身の「心の悩み」なのですが, たとえば,このようなケースです。 ケース1: パートナー: 花火大会があるから行きましょう。 わたし: 嫌です。 パ: なんで? わたし: 大きい音が苦手だから? パ: 臆病者? ケース2: (近隣の学校で体育祭をやっている) わたし: ちょっと遠回りしよう。 パ: なんで わたし: なんでも(理由が言えない,大きな音が怖いとは,口が裂けても言えない) パ: 変な人? ケース3: (とつぜん,破裂音がした) わたし: (反射的に耳をふさぐ) パ: 何してるの? わたし: 話しかけないで!(また,破裂音がするのではないか,注意深くなる) パ: あんなくらいで耳をふさぐの? こんなことになるのではと,わたしは「悩み」ときがあります。 たしかに,「障がい」を持つ人々は,多くいます。それが,わたし自身の場合,「可視化されにくいもの」だということが,「悩み」でもあります。姿かたちは,いわゆる健常者そのものですが,近くで誰かが花火をやっている,爆竹に火をつけた,パラシュートに火をつけた,体育祭をやっている・・・,こういったものがあるだけで,非常に気分が悪くなってしまいます。また,こういうことが原因となって(さらには,いわゆる「ハーフ」ということもあって),さまざまな,「ネガティブな経験」をしてきました。そういったものを,一度にたくさん「思いだしてしまう」ことが,すごく怖いのです。 おそらくは,わたし自身,ほかの男性と比較をすると,いろいろと「注意事項」が多いこと,さらには,それらとは死ぬまで「向きあわねばならない」ために,気苦労のようなものをしてしまいます。
お礼
回答ありがとうございます。 インターネットを通したコミュニケーションにおいては,「みずからの個人情報を,みずからの責任において守る」ことをしつつ,「分かちあいたい情報を分かちあう」という,「難しいバランス」を迫られることがあります。そのため,「理解の食い違い」があることは,多々あります。それは,フェイス・トゥ・フェイスのコミュニケーションにおいても,起こりうるものです。 回答者さんのみならず,多くの人々がわたしの書いたことを読んだことと思います。わたし自身も,なるべく,「書きたいことはすべて書く」,「伝えたいことはすべて書く」ようにはしていますが,「わかりにくいところ」がいくつもあったかと思います。わたし自身の「説明不足」の点も,いくつかあったことでしょう。ですから,「さらに説明する必要」があると,わたしは思います。 わたしが考えているこは,「話せばわかる!」ということです。決して,「問答無用!」といって「実力行使」をしたり,「ヘイト」を態度にすることは,ないようにしています。 たとえば,わたし自身の「出自」については,わたし自身の「個人の経験」による「影響」がいくつかあります。そういった「経験」をふまえて,わたし自身の「視点」による「日本社会にたいする感想」は,ほかの多くの人々が「期待するような内容」とは,多少異なることでしょう。わたし自身,回答文なり質問文を書いたあとに,「改善すべき表現」を見つけたりしますが,それらを次の質問や,回答者さんへのフィードバックに活かせるようにしています。わたし自身の考えていること,わたし自身の思う「日本社会像」とは,ほかの多くの人々の日本社会像とは,異なるところがいくつかあるとおもいます。しかしながら,どこかに,「共通しうる点」があると,わたしは考えています。そういったところを,おたがいに「見つけあう」ことが大切であると,わたしは考えています。 また,恋愛観については,わたし自身にとって,「出自」がかかわりますので,どうしても,そういった,「努力では変わることができない部分」と向きあう必要があります。「理論武装」しているように思われますが,そういうときもあります。それは,「出自」のことと恋愛観とを,どのように向きあえばよいのか,どのように向きあうべきなのか,そのことが大変気になるからです。「別れるのが怖い」とか,「メンタルな部分が弱い」ということではありません。ひとりの,「外国につながりを持つ」日本人として,「メンタルな部分が弱い」ということは,特殊な「出自」と向きあいながら日本社会のなかで活きるうえで,大変な「ハンディキャップ」となります。しかしながら,わたし自身は,わたし自身のことが好きですし,いろいろと「クセ」はあるものの,自分自身に「自信」を持っています。ただし,それらが「勉強」によってつくられたものであることから,それが「ほんとうの自信」なのか,疑ってしまうときがあるのです。 自分自身が「何者」なのか,このことを究明することは,なにもわたし自身のような,「多様性」というバックグラウンドをもった人々のみならず,ほかの,多くの人々にも当てはまることだと,わたしは考えます。そうすることによって,「他者を理解するためのヒント」を得ることができます。