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人が多い場所ほど孤独に感じるのです
長い文ですが読んでください。お願いします 問1 私は一人カラオケが趣味です。カラオケの方が安くて長い時間楽しめるので カラオケの方によく行ってました。 昨日、私は一人で久しぶりにゲーセンへ行きました。人がたくさんいました。 しかし、ゲーム機同士は密接に隣接しているのに客同士は自分も含め全然打ち解けてません。 他人同士なので当然と言えば当然なのですがその事に気づいた私はすごく孤独感を感じました。 周りに人がたくさんいるがために孤独を感じるのです。カラオケは個室なので部屋以外には自分しかいないのが当たり前の環境なので孤独は感じません。むしろ開放感さえ感じます。 人が多い場所ほど孤独に感じる方いませんか? 問2 私はこんなゲームを考えました。 「戦場の絆」がモデルです http://www.gundam-kizuna.jp/aboutkizuna/index.php コックピットを再現する所までは戦場の絆と同じです。 コックピット内部の定員が一人ではなく二人以上で「共に協力しあいながら共通の敵(ゲーム側が設定した)と戦い進めていく」ということに重点を置いたゲームです。 友人と二人で来た場合を除き、知らない人同士が一緒になってゲームを進めるというわけです。 ゲーム機の前に係員がいて客を並ばせて誘導するというシステムです。 ゲームの最中もしくは終わった後に仲良くなったり 打ち解けたりできるかもしれないというメリットがあるわけです。 例えば、ゲームが開始される前にお互いに「よろしくお願いします」といって挨拶を交わしあいます。プレイ中に敵を撃破して一緒に手を合わせあったり一緒に「やったー!」と言ったり、終了後に打ち解けメアドを交換し合ったり。 さらには、コックピット内にカメラを内蔵して終了後に撮影されて人数分プリントアウトなんていう機能を付けるのも面白いかと思います。撮影前にはちゃんとカウントしみんなでピースしたり。遊園地でもそういうのありますよね。絶叫マシンでもありますよね。 ゲーセンに圧倒的に多いのは「知らない人と勝負して勝敗を競うゲーム」です 「知らない人と一緒に協力し合い共に戦う」内容のゲームは少ないです 確かにシューティングでは二人で協力して敵と倒す設定のゲームはありますが、 あくまでも友人や知り合い同士と来た場合のみですよね。 赤の他人となると「一緒にしましょう」とは声をかけづらいですよね。 なので上のような体感型のゲームを考えたのです。 どうでしょうか?発想はいいと思うのですが? 問3 その場限りの出会いかもしれませんが一緒に同じ時間を 共有し共感するというは素敵だと思いませんか? 追伸 問1、問2、問3とすべての質問に回答お願いします
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1、そういうものでしょう。 なので、普段群がっている人のほうが、孤独感を感じるものです。 あなたのようにひとりで動いているほうが寂しがらないものです。 2、いいんじゃないですか。 ぼく、ゲーセンやりませんけど。 何事も自分でモノを考えるのは大切なことです。 3、 まぁ、ステキだと、あなたが感じるならそれでいいじゃないですか。 ぼくですか? 相手が気の合う人なら、ステキですけど。 気が合わなきゃ、イヤです。 単純な好き嫌いの発想です。
>問1 他人を気にするからでしょうね。一人でいるときは、他人が関わって来るかどうかは判断不能です。他人が大勢いるときは、誰も話しかけてこないという事実を確認できます。私個人としては、見ず知らずの他人がみだりに話しかけて来るのは好みません。 >問2 おそらく、見ず知らず同士ですと、うまくいきません。一度しか会わないという前提の場合、自分の利益を最大化する傾向があることが知られています。逆に固定メンバーで何度も取引するような場合ですと、将来の利得を予想でき、協調的な態度になりやすくなります。 そのゲームがクリアできない、少なくとも二人とも満足できるほどの結果でない場合、その責任が相手にあるように感じやすいでしょう。ゲームがきっかけで仲良くなるより、互いに反感を抱きやすくなるということは考えておくべきです。 互いに敵となるゲームですと、そういうことは発生しにくくなります。負けて悔しいということは起りますが、こちらも自分の利益の最大化を図った結果ですから、ある程度はそれを認めることができます。 勝敗が決まるゲームでは、プレーヤ同士が競うものが多いのは、そうした事情があります。そうした点をクリアできない限り、協力が決め手となるゲームの設計は慎重を期すべきです。 >問3 素敵とは思いません。私は原則として一人でいるのが好きです。自分を曲げることはもちろん、何かを譲ってまで理解や共感を求めることはしたくありませんし、そういう理解や共感は欲しくもありません。そういう態度でいることにより生ずる反感は。至極当然のこととして受け入れます。人と関わるのが嫌いということではありませんが。