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平和を望むなら国という概念を捨てるべきではないか
平和を望むなら国という概念を捨てるべきではないかと思いますがどうでしょうか。 自分を日本人と呼ぶなら自分を中国人、韓国人、アメリカ人と呼ぶ人たちとトラブルになるのは必然じゃないでしょうか。 同様に自分を神奈川県民と呼ぶ人たちが福島のがれきを受け入れないというのも同じ理屈ですよね。 わざわざ両者を分けておいて一生懸命その間に橋を架けようと努力するのはバカらしくないですか?
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ま、自分が「日本人だから」と言う理由だけで、中国や韓国よりも上、と思っている人は多いよね。 ここでの質問や回答でもよく見られる。 じゃー、一歩「日本人と言う枠」の中に入ればどうなるのか?を考えれば、またそこでも勝ち組だの負け組みだの、都会だの田舎だのと細分化しているんだよね(笑 この間も違う質問者に言われたばっかだし。 「俺は東京だけど、あんたは秋田なのかw田舎もんがw」って(笑 結局、「自分が上にいる」と言う確信出来るような理由をつけたくて仕方ないんだろ。 確かに君の言う通り、橋を架けようとするのは馬鹿らしいって思う事もあるけど、でも、まぁ好きでやってるんだから、それでも仕方ないよね(笑 何が正しくて、何が間違ってるかなんて、そもそもからして答えは出ないものなんだ。 だから「争い」は起こるんだろ? どんなに日本人だの中国人だの韓国人だのって騒いだって、欧米から見れば誰が何人なのかなんて区別などつかんよ(笑 概念はブランドじゃないんだ。 君の言う通り、国と言うブランドと「一体化」した概念を持ちたいのであれば、その前に国や人種に関係ない「自分自身の責任」を自覚すべきなんだ。 回答になってなかったかもしれないけど、参考程度まで。
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- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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こんなことが今更どんなに難しく、空理空論かということはshift-2007先生が一番知っているでしょう。 私は、趣味や文学その他のことで、国境を越えるようにして行くことから始まらないかと思っています。
お礼
ご回答ありがとうございます。 私たちは一生懸命その方法を探しています。 TPPもその一環でしょう。 しかしその方法はない、それは政治の問題ではない、文化の問題ではない、システムの問題ではない、他人の問題ではないということに気づけば私は私の世界を変えられると思います。 私は60億分の1の人間を徹底的に平和に幸福にしたいと思います。 もちろんそれは私自身です。 各人がそれを追及するそれが世界を変える唯一の方法ではないでしょうか。
補足
このカテは反応がいいですよ。 しばらくここで遊ばせてもらいます。
- Streseman
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平和という概念次第でしょ 平和という概念を思慮するにおいて、主権国家同士の紛争がない状態を平和と定義すれば、それは正しいだろう しかし、平和を破壊する要素は、主権国家やそれに従属する概念の産物だけではないでしょ? 主権国家に関係ない私的団体(=テロも含む)に由来する紛争は現代社会には存在しているしね・・・ソマリア海賊は典型例 むしろ、平和は『無能が無能であることが許される怠惰な時代』としか思えないし、そんな時代は人類通史において存在した時期はありえないとは思うがね 可能な限り、平和を目指すのは同意するが、平和を達成した時に人類はダメになるとは思うがね 平和の定義次第だね
お礼
ご回答ありがとうございます。 平和が実現して人類がダメになるならそれでいいんじゃないでしょうか。 せっかく金持ちになったのに会社勤めをしなくなったせいで運動不足になったことを悲観する必要はないんじゃないでしょうか。
- hekiyu
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”平和を望むなら国という概念を捨てるべきではないかと思いますがどうでしょうか” ↑ 国家というものが無くなれば、戦争も無くなるから 平和になる、という、そういうことですね。 確かに、戦争は無くなるでしょうが、実現困難なのはさておいて その方法や、国家を無くすことによる副作用も沢山あります。 1,その方法 世界中が、同時に国家を無くさないとだめです。 一つでも国家が残ったら、その国家が世界を席巻 することになるでしょう。 2,副作用 (1)文化の多様性が失われる。 例えば、現在主流を占めている欧米文化が行き詰まったら それはそのまま人類の行き詰まりになってしまいます。 多様性があれば、他の文化が受け皿になれます。 (2)国家間の競争原理が働かなくなり、人類が堕落、衰退する。 原始以来、人は常に競い合い、凌ぎ合い、いのちを賭けて戦ってきました。 そのため多くの血が流れました。 しかし、 その闘争本能と生存本能のせめぎあいの中で、人は知能を磨き 力を養い、心と体を鍛え、一面で道徳律を築き上げたのです。 その結果、文明が築かれ文化が創られました。 現在、人類が地に溢れるほど繁栄しているのは、競争のお陰です。 戦争はともかく、国家間で競争原理を働かせ、切磋琢磨するという 現代のシステムは人類の為には、有用だと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 メリットとデメリットがあるのはこの世界の原則ですから今更言うまでもないでしょう。 人類の歴史はこの2者間のせめぎあいだったのですから。 デメリットがあるということはメリットもあるということです。 そういう意味では私の提言が現実となっても今と何も変わらないじゃないですか。
- golgol13---
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じゃあ今一番平和を欲しているパレスチナで「国という概念を捨てるべきではないか 」とやってみてきてくれ。 そうすれば答えはすぐわかる。
お礼
国をほしがっている彼らに言っても無理でしょう。 ご回答ありがとうございました。
1。猿山のてっぺんに座っていたい人たちがいっぱいいますので無理では。 2。福島は国じゃないですよ。 3。同じ理屈で、あなたの小遣いを、私のものにしてもよいの?
お礼
1・猿山のてっぺんの人たちとはある意味無関係です。 2・理屈は同じでしょう。 3・概念との一体化問題と所有権は別じゃないでしょうか。 ご回答ありがとうございました。
- uniquepro
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何を基準に平和と考えるかに依ると思います。 純粋に人類みんな仲良く戦争のない世界を平和というなら、確かに国家の概念はなくてもいいものです。 ただし、実際問題そんなことを叶えることは不可能ですし、現在も次期総選挙を前に戦争のない世界だの平和が第一だの声高に街宣している団体を見ると、正直言うは易行うは難しそのものだと思います。 一方でお互いに相手を攻撃可能な軍事力を持ち合うことで、結果的にその均衡を保った状態で戦争状態を回避するという考え方もあります。かつての冷戦は最たるものです。米ソの核サイトが全てお互いの国土を向いていたとされる時代、それでも戦争は起こりませんでしたし、この期間も二国間の間では「平和」だったと言えるのではないかと考えます。 何より、国家の概念がない民が我らある意味恵まれた民から見ても、あまりにも平和とはかけ離れた惨状を見せているのも原因ではないでしょうか。国という拠り所がなくなれば民がどれほど疲弊するか。コソボ紛争にしてもクルド人の独立闘争にしても、それこそお互いの国どころか民族的存在さえ認めず現在も衝突と繰り返しているイスラエルとパレスチナにしても。 世界の話から現代日本の話に戻せば、今回の震災ガレキの受け入れを日本各地が拒否している問題もです。 心情的に何が何でも受け入れたくないと考える人間は、震災ガレキだろうが隣の家から飛んできたゴミだろうが全て拒否するでしょう。でも現在震災ガレキを拒否する地域の住民全てがそんな心情であるはずはないと信じたいわけです。心情的にはどこか他方に受け入れてもらいたい。でも自分のところは断る。これもまた間違いとは言いにくいわけです。これもまた、原発事故直後からひたすら放射線の数値などを報道し続けて視聴者に変な意識を刷り込んだマスコミの悪行の1つとも言えるのですが。パブロフの犬ではありませんが、あれだけ繰り返し(記憶で最も覚えやすいのは数字です)数値ばかりを流されれば、途中で実際問題同数値の放射線を浴びた際に健康被害がない・限りなく少ないという情報を流したとしても、放射能=悪と刷り込まれた視聴者がその(本来必要であるべき)情報を受け入れるはずはありませんよね。 震災直後、東日本、特に東北の被害を日本国民全てで分かち合おう、そんなスローガンのようなものを声高に叫んでいた人々がいました。もちろん、次期総選挙で政権陥落確実なあの政党ですが。しかし現実は質問者の文章の通りです。結局反対する人々にとって自分の守るべき場所はどこかと言えば、当然自分たちの住む都道府県であり、市町村であり、極端に言えば自分の住まう家・部屋単独なのです。そこにわずかなりとも危険を伴うもの(今回は震災ガレキ)が来ることは何が何でも避けたい、そう考える心情も当然理解出来るものです。 何より震災ガレキ受け入れを決めた現政権の構成者が、誰一人として実際に地元でガレキ受け入れをしていないというのも、市民国民全体のガレキ・それを排出する被災地域への猜疑心、それに対する被災地側の他県住民に対する不信感につながっているのではと懸念しているわけです。 質問の趣旨とは異なる回答になったかもしれませんがご了承下さい。
お礼
ご回答ありがとうございます。 こんな質問を立ち上げておいてなんですが、政治家や日本国民全員にそれができるとは思っていません。 というかシステムの問題ではないと思っています。 重要なのはそれに気づいた一人一人が自分自身を変革することではないかと思います。 他人や政府の変革を期待するのはそれに対する依存心の表れでしょう。 ですから天皇陛下がきょうから日本国を解体しますと宣言しても意味がないです。 国というシステムを維持しながら私たちは国を超えることができると思うのです。
- sync-mag
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現在の世界で見られる「民族」というまとまりは、近代にあって国民国家を形成するにあたって必要とされた概念にすぎません。もちろん、それにはそれなりの歴史的根拠が求められますが、どこの国でも太古の昔から運命的に定められていた「民族」があるという理屈は、多分に創作と言うべきでしょう。 しかしそのうえで、わたしは「日本人」という民族の実在と、それに基づいた「日本国」という国家を支持します。なにより日本の歴史と文化と、ここに住んでいる人たちとその社会が好きだからであり、現実にこのまとまりを私たちは必要としているからです。 にもかかわらず、質問者様の「概念と自分自身を一体化させるのはやめよう」との問題意識に賛成です。なんというか、度がすぎていると感じることが多いからです。 日本人であることを根拠に他国を下品に罵っても許されるらしい昨今の風潮は、実に嘆かわしいかぎりです。わたしは、日本は「いい国」だと思いますが、だからといって他国を蔑むその人の人品を保障するものではないでしょう。この手の人ほど「日本は」「日本人は」と語りたがるものですが、いつから日本は彼らのものになったのでしょうか。 日本はいい国、素晴らしい国だから日本が好きだ。だから日本を守りたいと思う。だから隣国との関係を良好なものにしよう。という論理展開に、みじんも矛盾はありません。日本人と中国人、韓国人、アメリカ人は違う。だからといって、彼らといさかいを起こさなければならない理由にはならないと思うのです。 「日本の国がすべて、日本だけが素晴らしいという考えは、思い上がった自国愛にすぎません。ただの排外主義です。愛国とはもっとも遠いものです」という鈴木邦男さんの言に大納得です。 付言しておきますが、わたしは隣国とのあいだに問題がないと言っているわけではありませんし、隣国自体が問題をかかえていないと思っているわけでもありません。現実の問題は問題として立ち向かっていかなければなりません。そのために中国を「シナ」と呼ぶことはかけらも役に立たないと思うのです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 ネット右翼のような連中は論外として、度合いの調整というのはいつも難しいと思います。 いいものは残し、悪い部分はなるべく捨てようとするのは通常のやり方としてはいいとは思います。 ただ、その方法もいつかは破たんするとは思うのです。 次の次元への飛躍ができると提言したいと思います。
- 23567
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人類 皆 兄弟と言う事を世界中で教育出来たら平和になると思いますが?
お礼
ご回答ありがとうございました。
- 居眠り一等空佐(@km0710)
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国だとか地域で 判断しようとするから貴方の様な考え方が発生するのかも…。集団社会の最小単位である家族まで下げて 貴方の理屈が通用するだろうか? 家族と言う概念を棄てられる?普通の人間なら先ず何より優先的に考えるのは 自分の親であり、妻や夫、子供じゃないかな? それらを他人のそれとは同一に考える事など出来る訳ないのが正常な考え方だし、国・地域レベルでも同じと思うね。 だいたい 低レベルにしろ汚染されたものを全国に拡散させる考え方が異常政策、原爆落とされた広島や長崎が汚染瓦礫を他県に運び込んだかね?そんな金が有るなら その分を被災者に回す方が良いでしょう。 もし貴方の考え方が実現する時が 来るとしたら、地球レベルで外敵の脅威に晒された時でしょう、地球侵略を目論む宇宙人との宇宙大戦争…地球連邦が誕生、だがしかし、その時に貴方の様な考え方の未来人が地球とか銀河系の概念を…と言うかもね
お礼
ご回答ありがとうございます。 >家族と言う概念を棄てられる?普通の人間なら先ず何より優先的に考えるのは 自分の親であり、 >妻や夫、子供じゃないかな? 家族を養う責任と概念との一体化による甘え、依存は別のことだと思います。 >だいたい 低レベルにしろ汚染されたものを全国に拡散させる考え方が異常政策、 ならなぜ福島県民が東京都民のために・・・というふうになるでしょう。 集団のレベルを小さくしすぎればそれこそ原始時代に逆戻りですよ。
- kurikuricyan
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一人、一人の人間が集まって「国」が出来たのではなく、 「日本という国」に私達は生まれたのであるから、 個人を優先して、国を蔑ろにしたら、 人間としての誇りもなにも持てなくなるのでは? 国>個人 なんですから。
お礼
ご回答ありがとうございます。 国を蔑にしましょうということではないのです。 国という実体はなく国とは単に概念なのですから。 ですから概念と自分自身を一体化することはトラブルのもとだと思います。 恐らくその行為自体が未熟なことだとは思われないでしょうか。 >人間としての誇りもなにも持てなくなるのでは? 概念との一体化が必要ならその程度の物だと私は思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 おっしゃる通り、自分自身への自信のなさが概念との一体化の要因でしょうね。