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感動と勇気を与えたい言い方
- スポーツ試合で選手が「皆さんに感動と勇気を与えたい」という言葉を使うが、受け手が感じるものであり、送り手が発する言葉ではないのではないかと疑問を感じる。
- また、「与えたい」の表現が上から目線のように感じられ、喜びを共有しようという程度の表現ができないのかとも考える。
- このフレーズは東日本大震災後に増えた気がするが、この言葉を発すると応援していた選手に対して引かれてしまうこともある。
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何と言うか マスメディアが「如何にも他人事の様に」 「感動を貰った」(「(自分が,自発的に)感動した」ではなく) 「勇気を貰った」(「(自分の中に,自然と)勇気が湧いてきた」ではなく) 「感動を与える演技を見せて欲しいものです」 「…の人達に勇気を与えられる様,全力を尽くして貰いたいです」 という表現を使い始め,それを真似て(語彙・表現力の貧困さから?) 送り手側よりも先に受け手側が 「○○の演技に感動を貰った」 「××のゴールに勇気を貰った」 を多用する様になった気がします。 送り手側は,こんな表現使いたくないと思いますよ。 でも,マスメディアや「受け手側」が要求するのです。 寧ろ,マスメディアや受け手側で 「感動を貰った」 「勇気を貰った」 という表現を使う人達の方にこそ『上から目線』だと思いますし 「感動も勇気も,自発的なものだ!!自らの心に生じるものだ!!」 「本当は,感動してもいないし,勇気も湧いていないから, 『貰った(自分は別に欲しくないけど)』 という表現をするんだろ!?」 と思ってしまいます。
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- mojitto
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無駄にプライドの高い人、多いんだなぁと思います。 その発言自体が“上から目線”だとは思えませんが、仮に“上から目線”だとしても、(もちろん持って生まれた才能もありますが)世界レベルで張り合える実力を身につけるための努力は、まさに血がにじむほどで、それは一般人には及びもつかないのは言うまでもなく、それほどの人なら上から目線だって許されるでしょう。 そうじゃなきゃ、どのレベルなら上から目線が許されるんですか? ご自分以外はすべて下々の者ですか? 批判する人はどんだけ偉いんでしょうね。 一生かけても国の代表になれないくせにね。 一流のスポーツ選手は誰かしらあこがれの選手がいて、その人から感動や勇気、そのスポーツに打ち込むキッカケを“もらっている”ことがあります。 自分も将来、そんな選手になりたいと願っていれば、それは“感動や勇気を与える選手”であって、決して的外れではないと思います。 そもそも「くれてやる」わけではないので、それが不快なら丁重に辞退すればいいだけのことです。 仮に上から目線であっても、大概の人には批判する資格などないと思います。 僕はそういう人を見ると、引いてしまいますし、「黙ってろ」と思います。
補足
>そうじゃなきゃ、どのレベルなら上から目線が許されるんですか? 日本国なら、天皇陛下だけでしょう。
- satori1016
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まったく同感です。 〉なぜ、皆さんと喜びを分かち合いたい」程度のことが言えない? 本当に私もそう思います。
- hunaskin
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だいたい同感ですが そもそも喋るのが仕事では無いアマチュアのスポーツ選手にそういった言葉使いのニュアンスを要求するのは酷だと思います。 決まり文句以外の事を言うと文句いうひといますからねえ。 プロだったら「ひと時の慰みにでもしてもらえれば」くらい言えよ、と思ったりはします。 まあ、その時々はやりの言い回しというのはありますが、そういうものを迷いなく使えるひとの言葉についての感性というのは信用できませんね。 いい加減「上から目線」「引く」なんて雑な言い方やめた方がいいんじゃないの、と思ったりする次第です。
100%同感。私もあの表現大嫌い。「感動」だって「勇気」だって「お前から与えてもらうもんじゃないよ!」と、耳にするたびに思っています。
お礼
新しい視点をくださったwvnvwさんの回答を、ベストアンサーと させていただきます。確かに、マスコミ側の(不自然な)言い回し にも、端を発しているように思います。 言葉がもたらす印象を考えずに発言をする、ということ自体が 幼いと同時に、親を含め周囲の教育が適切に行われていない のだなあと痛感します。