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主治医がおっしゃったことについて

実は、今日(8月1日)精神科に診察に行ってきました。(月1通院しています) そこで、主治医の先生に僕が質問して答えを得たのですが、どうも納得しません。 なので『メンタルヘルス』カテゴリに質問しようと思い、質問をすることにしました。 主治医の先生に今まで以下のようなことを伝えたら、‘作為体験である’という答えを返してきたのです。 《α》「制止がonになった、offになったというふうに言う報告例は知らない。“止められた”・“動かされた”人はいる。操られたという報告例は知らない。 ―――について。制止がon・offになったというのはどういう意味か。これは具体的に書くと以下のような感覚である。 《β》僕は喫茶店(障害者向けの作業所)で働いていると、何らかの動作が滞ったり停止したりして、体が自分の思うように動かなかったり、体が固まったりしたことがあったのが、意思に反して洗い物をしていると手を使って洗い物を洗う・すすぐ・拭く動きが速くなっていたことがありました。 ―――これはつまり、制止がonになったのが制止offに切り替わったという意味だと思う。  つまり自分の思い通りに動作ができず、動きが速くなったことは辛さを感じたのです。 ―――これは制止offになって動きが速くなったことを述べたものである。  最近は仕事の時間を普通より短くしていますが、仕事を終えて控え室で休憩をしている間でも家に帰ってからも、自分の意思で体の動きを止められなかったことがあったことが今まで何度かありました。 ―――これも制止がoffになって、意思に反して体の動きが止められなかったということを意味している。  あと今月起きた出来事で、自分の意思で耳鳴りと幻聴が我慢できなくなり始めた時刻を記すために、電子時計を振り返って見たすぐさま向き直り、耳鳴りと幻聴が我慢できなくなり始めた時刻を自己観察ノートに書こうとした、およびテレビ画面を見てすぐさま自分の意思でテレビ画面から目をはなそうとしたが、これらの一連の動作が困難だったりしたこともありました。(=困難だっただけでなく、動作が停止・緩慢になったこともあった)  またテレビ画面から目をはなしたのが束の間で、再びテレビ画面のほうに視線が行ってしまうこともありました。  洗濯物を干している最中でも、風呂場に干してあった洗濯物を外してリビングの床に置こうとしたが意思に反して床に置いて洗濯干しに戻るまでの一連の動作が滞ったり緩慢になったりしたこともありました。 ―――このことに関しては、制止offとは逆の制止がonになったことを意味している。 《γ》先月の診察で先生に以下のことを質問した。  ★「操った者はいないと思う。自分自身を操る力を失っていただけだと思う」と聞いたのですが、こういうのは統合失調症の症状だと言えますか?  で、★印の質問に対し、先生から以下の答えを受けました。  ☆統合失調症の症状だと先生は思う。自分自身を操る力を失っていたのも統合失調症の症状だと言える。自分で自分の力がわからなくなる。邪魔される感じがすることも。  統合失調症の症状だと言えるという答えを受けたのですが、どうも納得しません。  自分は‘操った者はいないと思う。自分自身を操る力を失っていた’出来事だけでなく、‘何らか(=他者など)によって操られる感覚を失った感じ’の出来事も同時に起きていたと思ったり感じたりした。つまり、邪魔される感じも失った感覚もあったと思う。  ここで質問ですが、こういう実例を先生がご存知かどうかを詳しく教えて下さい。 ―――に対し主治医は“大きく言えば作為体験だと言えるが、あなたの通りのケースは知らなく、聞いたのはあなたが初めて”と答えを返してきた。 ★インターネットで「作為体験」「統合失調症 作為体験」など検索して調べてみたのです。 コトバンクによると、こう書かれていました。  <世界大百科事典 第2版によると、> われわれの心的過程には知覚であれ思考であれ,つねに〈私がしている〉〈私のもの〉という意識がともなっているが,この自我の能動性意識ないしは自我所属感が消失して,〈外から作為される〉というように他人の所為として体験されるもの。〈させられ体験〉ともいう。〈作為(させられ)思考gemachter Gedanke〉はそれが思考の面にあらわれたもので,〈思考干渉Gedankenbeeinflussung〉(考えが干渉される),〈思考吹入Gedankeneingebung〉(考えを吹き入れられる),〈思考奪取Gedankenentzug〉(考えを引き抜かれる)などがある。・・・  <デジタル大辞泉によると、> 自分の考えや行動が、他人に操られていると感ずる体験。統合失調症に特有の症状。させられ体験。  <大辞林 第三版によると、> 〘心〙 自分の考えや行為が,他人によってさせられていると感じる病的な体験。統合失調症に特有の症状。させられ体験。 : ここまでのことについて《γ》についてさらに具体的に言うと、自分自身が自分を操る感覚も他人によって操られている(=させられている)と言う感覚もわからなくなることも当てはまると思うのです。 今までも、受身表現(=「~られた」「~された」など)を使った言葉で主治医の先生に伝えたことが何度かありますが、“あなたが書いてきたことはすべて作為体験です”と主治医から聞いた記憶があります。 それと、操られた感じがしなくても操られたと思わなくても、自分の意思どおりにできなかった・動けなかったことを作為体験という場合もあると主治医から聞きました。 ここで質問です。 主治医がおっしゃった事柄の意味をもう少し詳しく知りたいし、自分はここまでの事柄について妥当なのかどうか気になったことがありましたので回答を下さい。 最後に僕は抽象的な言葉、観念的な表現、比喩、皮肉などの難しい言葉を理解することが苦手なので抽象的ではない、具体的な表現であるわかりやすい言葉での回答を下さると嬉しいです。 ●以上のことでわからない箇所があったら、どこがどういうふうにわからないのかも回答下さい。

みんなの回答

  • okei49
  • ベストアンサー率48% (72/147)
回答No.3

度々失礼します。 大きく言えば…については、細かく分類した時は当てはまらないということだと、私なら解釈します。 Aのご質問。 体験し(私には寛解してますが統合失調症の病歴があります)、心理学面から書物を調べた程度です。 Bのご質問。 自我の脳動性意識ないしは自我所属感が消失することから始まるので、自分が何かをしているか?という意味でも無意識と言えると思います。 私は『無意識』ということを、心理学をかじった時に学びました。 詳しくお知りになりたい場合は、フロイトの無意識や心理学の無意識などでネット検索してみるといいと思います。

noname#181272
質問者

お礼

再度回答ありがとうございます。 >大きく言えば…については、細かく分類した時は当てはまらないということだと : 【A】――について具体的に回答下さい。 主治医の先生は、「頭痛は例えば人それぞれいろいろな症状があって、それらを総合して頭痛と呼ぶのだと思う。統合失調症も同じことで人それぞれ違うが、大きく作為体験とまとめられる」とおっしゃいました。 >自我の脳動性意識ないしは自我所属感が消失することから始まるので、自分が何かをしているか?という意味でも無意識と言えると思います。 : そうですか。でも質問文に書いた意思に反して何かのきっかけで体の動きが止められないおよび止まってしまったり遅くなったりするのは無意識に起きたと感じたこともあれば習慣性の症状だと感じたこともあります。 回答者さんも、統合失調症の病歴があるのですね。 【B】どういう症状があったか、全部具体的に述べることができるのなら、教えてもらいたい気持ちが出たので、教えて下さい。 自分の何かのきっかけで動作が止まるのは主体性を保てないだとか、統合失調症にかかった方がおっしゃる「制限がかかる」感じだと言えるのです。 >私は『無意識』ということを、心理学をかじった時に学びました。 >詳しくお知りになりたい場合は、フロイトの無意識や心理学の無意識などでネット検索してみるといいと思います。 : そうですか。「フロイト 無意識 統合失調症」「無意識 統合失調症」などでも検索して調べると良いかもと思いました。 再度回答下さい。

noname#181272
質問者

補足

おはようございます。 #3のお礼に対する回答をくれない理由はなぜですか?

  • okei49
  • ベストアンサー率48% (72/147)
回答No.2

『大きくいえば作為体験と言える』のが質問者さんの状態だというのが全てではないでしょうか。 作為体験について詳しく説明されていますが、医師の見解は『大きくいえば』です。 まるっとそのまま質問者さんの状態が当てはまる事項ではないのです。 そもそも、オンオフに関わらず『制止』という考え自体が健常者には無いと思います。 洗い物の動作が速くなっていた、という事項は、慣れによる自然な動作だったのではないでしょうか。 ちなみに、ご質問からは外れますが… ご自身の行動をある程度観察するのは大切だと思いますが、こだわり過ぎるのはよくありません。 人には、慣れによる無意識の行動や、疲れ等による動作の遅れはよくあることです。 つまり、健常者でも意志や意識だけが人を動かす訳ではないのです。 『無意識の行動』って聞いたことはありませんか? 私は無意識に善行が出来る方を尊敬してます。 参考になれば幸いです。

noname#181272
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 “大きく(=大まかに)言えば作為体験である”ということについて。 ‘まるっとそのまま質問者さんの状態が当てはまる事項ではない’ということですけど、主治医が僕に説明した「例えば頭痛は人それぞれいろいろな症状があり、それらを総合して頭痛という。作為体験も同じような意味である。」ということに思いました。 【A】回答者さんが作為体験の言葉の意味についてどのくらい知っているか知りたいです。 【B】作為体験というのは無意識に作られた体験という解釈で合っているかどうか知りたいです。 >洗い物の動作が速くなっていた、という事項は、慣れによる自然な動作だったのではないでしょうか。 : それは無意識に起こっていたと感じたこともあったような気がします。 洗い物の動作が速くなったいたり、何らかのきっかけで動作が遅くなったり止まったりした(=不本意に起きていた)のは自分の中だけで起きた何らかの現象(=症状?)が起因していたと思ったことがありました。 自分の中だけで起きた何らかの現象と関連付いていたと言うことです。 >『無意識の行動』って聞いたことはありませんか? : 聞いたのは今日が初めてで、ネットで調べてみたら、こう書いてありました。  ★人は日常生活では無意識で行動していることが多々あり、そこには、過去の記憶が大きく影響している。  再度詳しい回答を下さい。

noname#160321
noname#160321
回答No.1

悩まれているようですが、超簡単に言えば。 >操られた感じがしなくても操られたと思わなくても、自分の意思どおりにできなかった・動けなかったことを作為体験という場合もある この一行に凝縮されています。 自分の自由に出来るのが健常者で、出来ないのは統合失調の症状だと考えて間違えてありません。

noname#181272
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 作為体験はネット上で調べたら、行動や思考などが他者に操られると感じる体験と書かれてます。(質問文にもある) ‘自分の自由に出来るのが健常者で、出来ないのは統合失調の症状だと考えて’と回答文にありますが、“自分の自由に出来る/出来ない”内容をすべて言うことができるなら、それを教えて下さい。 主治医の言ったことは妥当だと考えられるか、そうでないかも教えて下さい。

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