- ベストアンサー
精神科医・カウンセラーが信用できない
- 24歳の大学院生が、醜形恐怖と対人恐怖により情緒不安定な状態が続いているが、自己診断でうつ病ではないと考え、精神科医の診断は受けていない。
- 森田療法や認知行動療法の本を独学し、自己治療を試みてきたが、感情の起伏が激しく、どうにもならなくなってきた。
- 精神科医やカウンセラーに相談して投薬を考えているが、抗鬱剤の効果や精神科医・カウンセラーの対応に不信感を持つ。一歩踏み出すために助言を求めている。
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精神科医・カウンセラーから離れた方が自尊感情が高まるグループがいると書きましたが、これは私が数多くの患者を見てきて感じる事です。 精神科医・カウンセラーは自分から離れて行った人間から情報を得ることができませんので、患者でなくなった人間がどう生活しているかに関して詳しく把握してはいないでしょう。 彼らの手元に残るのは、治療継続中の資料だけです。 精神科医・カウンセラーが自分の仕事の意義を見出したい場合、「自分の元を離れて自尊感情が高まる」とは考えたくないでしょうし、そういった論文を発表してもメリットは少ないでしょうから、当然このような研究はあっても僅かでしょう。医療側より、医療を批判する側で出てくる可能性が強い内容です。 しかし、私自身はこのような人間が多いと思っています。(特に最近の患者はそうです) 医療は支援すると同時に管理する意味合いもあります。管理されたくなければ、ずっと軽症でいる事が重要です。 同情を求めることは「症状を重くしていく」事を含みます。 少しばかりの同情が得られたら、即刻距離を取り、深入りする事を避けるのであれば、自分を理解してもらいたいという名目の元で相手に主導権を渡すのは避けられるでしょう。 コニュニケーションは動物にとってゲームでもあります。 ですので、治療もゲームであるという側面もあります。しかし、そのゲームにおいて、患者の何パーセントかは劣位になっています。処方をし指導するのは先生と呼ばれる医師側ですので、全ての患者は優位にコニュニケーションをしているわけではないです。そこで出てくるのは、「甘え」「気持ちを理解する」「居場所」といった流行りのキーワードです。 このゲームにおいて、完結するのは医療側との関係性を断つ場合だけです。それを治癒と呼びます。 そのような患者は、医師の束縛から解放されて清々している筈です。 医師と患者は仕事における関係ですが、片方は指導という意味合いも含みますのでその意味では同等の関係ではありません。片方に「先生」が付いている点からみても明らかです。こういう内容に不快な人間は、関係を断つと気分はすっきりします。自分で解決する方向性が軌道に乗ると、自分のやり方で回復している快感を得て「自尊感情」は高まるでしょう。 >精神医学は元々、ある程度以下の知的水準か、妥協傾向の強い患者のために用意されてきた側面が強く、物事を厳しく追及したり、完全なサービスを提供するということには長けていません。 あなたの親の世代であれば、上記の内容が当てはまるでしょうし、現在の開業医が大学病院で勤務していた頃は外来通院患者に会社員は少なかったでしょう。現在の開業医の患者層において一般会社員の占める割合が高くなったのはここ十年足らずです。最近の精神医学の進歩は主として製薬業界によるものであり、それ以外の面で提供医療が著しく進歩したわけではありません。 発達障害等の障害は別として、後天的な体験を矯正してもらう場として精神医療に過剰な期待は禁物です。 多くの利用者は「妥協」しています。 医師が「妥協」を仄めかす場合、私は誠実な医師であると思います。 自分が万能である、または崇高な使命・人格を持っていると宣伝する人間は逆に不誠実です。 リスクに関しては、通院しなければベネフィットもゼロですが、リスクもゼロです。 リスクは個人で引き受けるべきであり、他人に責任を取らせたければ訴訟しかありません。医療は敗訴する割合が高いと言われています。(これに関しては省きます) 最後に、精神医療は『個人の主観』が絶対です。 どういう意味かと言うと、その患者が正しいと思えばそうなのです。 ある患者が「地球は赤い」と言ったとします。一般論では可笑しくても、その患者にとってはそれが真実なのです。それが個人の主観という意味です。 誠実な医師は個人の主観に対して反対したり批判したりする人間です。あなたの考えは私には理解できないという医師です。その意味において、名医は患者に対して批判・反駁を行う意地悪な厳しい嫌みな医師です。 患者が個人の主観(あなたの場合は、容姿が醜悪であるという主観)を覆す時、回復はおとずれます。 自分の考えを疑うことができる人間は病気ではないと言い換えることも可能です。 ですので、自分は醜くないと思う瞬間を増やすこと、更には顔なんてどうでもよいという体験を持つこと(シリア等紛争地で命の危険に晒されるのも一案)が解決につながります。 他人は他人の主観を変えることは難しいため、治療が困難なのです。医師の同情・批判や提案でRoyal_knifeさんが簡単に主観を変えるのか?どのような体験があれば顔どころではなくなるのか? 何があれば反対に自分の顔がいとしくなるのか? これらは非常に個人的な内容であり、個々の人間により回答がかなり違う為、治療というより人間の体験を通して長い期間を通しての変化が必要というのが一般的です。
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- ffskassa
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まずあなたは病気ではありません。安心してください。精神的なものは対処療法としての薬物療法がありますが、それは一時的な効果に過ぎず根本原因を取り除かなければ薬物に依存してしまうことにもなりえます。また精神医学においては精神障害の主たる原因は「脳内化学物質の不均衡」とされておりますが、これは全く科学的根拠のないものであることを断言しておきます。うつ状態というのはどんな人にさえ起こりえるものであり、しかも起こらない人は存在しません。逆に言えばどんなことが起ころうとも、うつ状態にならないことこそ人間として異常であるといえます。 精神を安定させたいということですが、あなたは今通ってる大学に嫌いな人や苦手な人、そこまでいかなくとも苦手なタイプの人などがいるのではないですか?このまま無理をしていても問題の解決にはならないのです。 無理をしてでも大学にいかなければならない場合、薬剤を使用することも必要とはなりますが、むしろ人間としての拒否反応であるにもかかわらず、脳の機能を抑えて、更に無理を重ねることになるわけですから、根本原因の解決にはならず、さらに強力な薬に服用をすすめられたり、量を増やさなければならないことにもなりえます。これは人格にとって非常にリスクを負うことになります、薬剤に頼る場合本当に必要なのかしっかりと考えて見る必要があります。 さて外を歩いた際に、下を向いて歩きたい。誰とも顔を合わせたくない。ということはありませんか?問題には原因があるはずです。その原因の解決は、本人と周りの人と環境次第です。はっきりというと精神科医やカウンセラーは貴方の心まで見通すことも出来ませんし、具体的な解決も出来ません。ここまで言うと反感をうけるかもしれませんが、実際のところそうなのです。ただし精神科医やカウンセラーを信用することももちろん悪いことばかりではありません。例えば、彼らがビタミン剤を出すだけで精神的な症状の改善が出来る場合があります。しかしもっと重要なことは、あなたのことを考えてくれる身の回りの人にあなたのことを知ってもらうことです。もちろん大切な人に知ってもらうことが重要です。医者を信用できないのであれば、信用できる人に認めてもらうことが重要です。まずは気後れするかもしれませんが、相談して見てはいかがでしょうか。 それから、きついことからは逃げてください。何も得することはありません。頑張り過ぎないようにしてください。あなたは絶対に生きていくことが出来ます。彼女や配偶者も必ず見つけることができます。気休めで言ってるわけではありません。とにかく今を乗り切るか、原因を探してください。それでもキツイとき、どうしようもないときは病院にいって、薬の説明を受けて処方してもらいましょう。大丈夫なんです。あなたはいつかきっと人を好きになれます。 なぜならあなたは人より傷つくことを知っているからです。こんなに魅力的なスキルはめったにありません。人一倍の共感力と、人一倍敏感に他人の心の変化を感じることが出来る人間であるとおもいます。精神的な改善は絶対に見込めますから安心してください。
お礼
回答ありがとうございました。お礼遅くなり申し訳ありません。 私としても、薬にはできるだけ頼りたくないと考えています。 あなたは大丈夫、といっていただけたことで少し気が楽になりました。 あせってどうにかできるものではなく、これからの生き方の中で少しずつでも変わっていけるようにしたいです。ありがとうございました。
>容姿が優れたひとは無条件に好意や賞賛の対象になり。かたや醜い人間は無条件で嫌悪や嘲笑の的にされることに埋めようのないほどの絶望感を感じます 実はこれは正しくありません。 良い顔というのは、元来、本人のためにあるのではありません。 役者でも接客業でも、良い顔は客や相手のためにあります。”自分で見るものではなく、他人に見せるだけのものです。” お笑いを例に取れば、彼らは笑いたい観客のために自分の顔を用意します。自分のためではないです。 とりわけ、接客業の「笑顔」というものはお客のためです。 顔を良くするのは、自分のためではなく、相手のためです。 ですので、そんなに顔が気がかりならば、相手を喜ばす会話、相手が好む歯並び、と徹底的にやることをお勧めします。顔だけでは不十分で、歯並びや態度、話術と揃って初めて相手にインパクトを与えることができます。 この職業の代表格は、役者やカリスマ店員です。 生きていれば必ずや顔は老化してきますから、彼らは本当に顔を維持するため涙ぐましい努力をしています。 自分を見てくれるお客を裏切らないために日夜必死です。自分のためだけでこんなにはならないでしょう。 大学で何を学んでいるかわかりませんが、royal_knifeさんには、一人でする勉強はあまり適していないと思います。 人間のいるところで、彼らを喜ばすために人間の顔・歯並び・髪型・態度・服装があると実感することが大事だと思います。演劇関連の学校で本格的な悪役を目指すか、可笑しい顔で笑いをとる人間が考えていることを知るとか.......... 顔にこだわる人間には、人間を惹きつけることに執着する人が多いと思います。 人間を惹きつけて賞賛を得るためには、並大抵の努力ではだめですよ。 あなたはそんなにしてまで、他人を喜ばせたいと思いますか? 私は他人のために生きるなんてのは、到底ごめんですが。
お礼
回答ありがとうございます.お礼遅くなり申し訳ありません. いい顔は他人を喜ばせるため,というご意見でしたが,それによって自分自身に利益があることを考えれば,自分のためであると思われるのですがどうでしょうか. 人に好かれるための努力を徹底するというのも,1つの選択肢かもしれませんね.ありがとうございました.
- cibone
- ベストアンサー率25% (89/350)
ただ、容姿が優れていなくとも自信を持ち、生き生きしている人を見るとどうして平気なんだ?と理解できないこともあります。 >人に対する評価が 「人柄」より「外見」という、価値観の偏りによって 醜形恐怖を起こしている可能性があります。 今、人に対して「顔」でしか判断できない状況のせいもあると思いますが。 容姿が悪くても生き生きしているのは、当たり前です。 というか、かなり失礼な発想だということにお気づきですか?「あの顔でよく平気だよね?」ということですから。或いは「あの顔なら、私とっくに自殺してるよ」とも言いそうです。 美に対する意識が高いのは、醜形恐怖の人の特徴でもあるみたいです。 私も自分で言いますが、そうです。 例えば、以前は本を買うときに、中身よりも装丁デザインが気に入らないと買えませんでした。 でも、あるとき、ある本でそれが変わりました。 それは、やっぱり美に関する本でしたが、 安野モヨコさんだったかの本でしたが、美容関係の本ですが、中を読めば、美に関する執念がはんぱなかったんです。 私は、化粧品の容器ひとつでも、ルックスで選んでいましたが、 その本の中では、その化粧品そのものの機能がどうかということに、鬼のような気迫で迫っている執念を感じたので そのときに、その情熱がいいな、と思って、 それ以来、化粧品の容器デザインなんかより、中身だな、と思いまして、 中身が大事と思うようになりました。 質問者様は、いろいろ気づきが必要です。 今の考え方、ここに書いたようなこと、例えば 迷惑じゃないか、よほどの博愛主義じゃなきゃしてられない、ということを包み隠さずカウンセラー(学生相談室)に話すことが重要です。
お礼
回答ありがとうございました.お礼おそくなり申し訳ありません. ご指摘の通り,価値観に偏りが生じているのは自分でも感じます.自分の本心を包み隠さず打ち明けるようにしたいと思います.
- cibone
- ベストアンサー率25% (89/350)
医者も仕事として働く以上、利益を求めるのも分かりますが、やはり患者のためを本当に考えてくれる医者は少ないのでしょうか。患者のために働くというのは人並み外れた博愛主義者でもなければ務まらないような気がします。 >質問者さんが一貫して、言っている独特の考え方だと思いました。 人並み外れた博愛主義者でなければ務まらない、という表現からは 「普通は人の相談になんてのりたいわけがない。だから迷惑に違いない。」という考えがなぜ起こるのか、と言えば、それは質問者さまがそうだから、という推論も成り立ちます。 というのも、私はカウンセラーの仕事は面白いと思っています。 私もなれるものならなってみたいと思うことすらあります。 カウンセラーの人、精神科医は、カウンセリングが人のため、というよりは 心理職の人は、人に興味があり、心に興味があり、心の病、悩みに興味があります。 それがやりがいになります。 そして、人が自分を通して、良くなって欲しいと言うのがあります。 それは、そこまで珍しい感情じゃありません。 ボランティアの人が大勢存在することでもわかります。 質問者様は・・・もしかしたら、心が冷たい、かもしれません(そうでなければ申し訳ありません)。 もし、質問者様が人から心の相談を受けたら、どういう風に感じますか? ご指摘の通りだと思います。高校時代にいじられ(いじめ?)てから、自分自身は醜く価値がない、まともな人生を歩めないという思いにとらわれました。 >トラウマは関係しているとは思います。 いじめの経験が、醜さにつながったんですね。 でも、それは質問者様の「思い込み」の可能性があります。 なぜ苛められたのか、それは顔のせいですか?
お礼
回答ありがとうございます。 >質問者様は・・・もしかしたら、心が冷たい、かもしれません(そうでなければ申し訳ありません)。 もし、質問者様が人から心の相談を受けたら、どういう風に感じますか? 確かに、私は冷たい面があるかもしれません。自分自身にメリットがない行動については積極的に動こうと思えません。今は自分のことで精いっぱいということもあります。 ただ、苦しみを打ち明けることが負担になると強く思うようになったのはきっかけがあります。サークルの先輩で、精神的に不安定な人がいて、メンバーの数人はその人にかなり振り回されたようで、ひどく嫌っていました。その話を聞いて、ネガティブな話は人の負担になり嫌われる原因になると強く感じるようになり、他人に苦しみを打ち明けることに抵抗感をもつようになりました。 >いじめの経験が、醜さにつながったんですね。 でも、それは質問者様の「思い込み」の可能性があります。 なぜ苛められたのか、それは顔のせいですか? それを自分で判断するのは困難だと思います。もちろん対人能力における稚拙さもおおいにあると思いますが、その能力・人格も容姿に対する他者からの反応の影響を受けざるをえません。また、道の通りすがりや電車の中で見ず知らずの他人に笑われた経験もあります。この苦しみ、悔しさは体験した人しか理解できないでしょう。
面白い質問で、royal_knifeさんも若い大学院生ということで重ねて回答します。 (1)抗鬱剤による治療は効果をあげられていないよう感じます。 一般論は意味がありません。royal_knifeさんに現在効果があるのか?ということが問題です。効果が減るか、リスク(副作用)が上回ればやめるだけのことです。 睡眠薬等の習慣性に関しては添付文書に記載があります。製薬会社は同意の上で服薬したものとみなしています。 (2)精神科医・カウンセラーは信用できるか? 「信用」の定義ですが、患者の多くは信用=処方を任せられることと判断しています。 限られた時間だけの付き合いですから、多くは望んでいないでしょう。入院であれば、入院生活を送る上で、主治医に処方・生活の指示を任せ従えるかと考えているはずです。 カウンセラーであれば、セラピーの限られた時間内において、自分の問題を話して対応してもらうことを任せられる相手ということです。 それ以外の時間は、距離を取って生活している患者も多いでしょう。 多くを期待する患者は精神医療には不向きです。 精神世界であればスピリチュアルや宗教・思想、人間に関して更に理解を深めたいのであれば歴史・文学といった人文科学に範囲を広げて考え、芸術も含めて視野に入れて、人間の相互理解というものが過去においてうまくいっておらず、戦争・地域紛争や差別・社会の断絶を引き起こしてきたことや、更にそれに対して人類がどう対処してきたかを考えてみるのも良いでしょう。 醜形恐怖と書いておられますが、これはややこしい症状で、自己愛的なものなのか、メジャー投与が必要な深刻なものなのか、医師も判断に迷うかもしれません。 紛争で顔面を破壊されたケース、事故で耳を切断したケース、中東での恋愛破綻から相手に顔面に硫酸をかけられたケース、顔のトラブルも色々ですが、顔面の美とは果たしてどのようなものなのでしょうか? 顔をテーマにした小説は足や手より数は多いはずです。 また、「顔面が社会基準に合っている=美]と考える人間ばかりではありませんから、大学の休みに世界各国を周り、人間の美しさとはどういうものなのか、思索するのも良い結果になるかもしれません。
お礼
回答ありがとうございます。 >一般論は意味がありません。royal_knifeさんに現在効果があるのか?ということが問題です。効果が減るか、リスク(副作用)が上回ればやめるだけのことです。 睡眠薬等の習慣性に関しては添付文書に記載があります。製薬会社は同意の上で服薬したものとみなしています。 これはもう一人の方からも指摘を受けましたが、リスクを最小限に抑えたいと考えるため、効果に効果に対する統計的な裏付けがほしいと思いました。習慣性のある薬をとりあえず試す、という姿勢は正直に言って不要なリスクを高める結果になるのでは、と考えています。 >「信用」の定義ですが、患者の多くは信用=処方を任せられることと判断しています。 私は、カウンセラーに対して、確立されたマニュアルにのっとった対応ではなく、一対一の人間として対応してほしいという思いがあるようです。これは確かに要求が多いのかもしれません。 >醜形恐怖と書いておられますが、これはややこしい症状で、自己愛的なものなのか、メジャー投与が必要な深刻なものなのか、医師も判断に迷うかもしれません。 幸い、顔の部位欠損など傷はありません。また常に鏡を見られないほど恒常的ではありません。できるだけよく見せようと努力もしております。それでも、自分の写真を見ると吐き気を感じ、をれをきっかけに抑うつ状態に陥ってしまうことも時々あります。容姿は一般的な不細工レベルで、日常生活が送れないほどではありません。ただ、容姿が優れたひとは無条件に好意や賞賛の対象になり。かたや醜い人間は無条件で嫌悪や嘲笑の的にされることに埋めようのないほどの絶望感を感じます。実際、容姿が元で損をする体験をたびたびしてきました。これがきっかけで、対人恐怖をもつようになり、特に容姿の優れた人、特に異性には恐怖を感じます。 人間は見た目だけでない、ということもある程度理解できます。 ただ、容姿が優れていなくとも自信を持ち、生き生きしている人を見るとどうして平気なんだ?と理解できないこともあります。自分自身の容姿に対する劣等感の裏返しで、他者の容姿を重視する傾向があります。 まとまりのない文となりましたが最後までお読みいただきありがとうございました。
- zebura23
- ベストアンサー率30% (252/820)
カウンセリングを含め、 精神医療というものが抱える問題は、「人間の持つ弱さ」というものです。 つまり、これらの治療に関わる人間は 克服されていない自分の「歪み」をクライアントに投影してしまうことです。 これは従来から言われていることであり、 その結果、クライアントの「歪み」をより一層大きくしてしまうことです。 そしてそれに気づいているカウンセラーは多くないのが実情です。 しかしカウンセリングを受けることで、 あなたの孤立無援の辛さが少しは和らぐ可能性があるので、 そういうことを理解したうえで、 人との関わりを作られるのもいいと思います。 基本は「してもらう」のではなく、「自分が癒す」のです。
お礼
確かに私はカウンセラーに強く期待しすぎた面がありました。 適度な距離感をもって、自分で癒すためのお手伝いしてもらうという意識が大切なのかもしれませんね。 ありがとうございました。
精神科医が信用できないと考える人間は昔から大勢います。 精神医療が問題の多い医療であることはご存知だと思います。 (1)医療に関して-------投薬はリスクとベネフィットがあり、ベネフィットがリスクを上回り、かつ投薬に同意した人間が行うものであり、誰もが良い結果を得るタイプのものではありません。 抗鬱剤は、善だ悪だという言い方は正しくありません。あくまで、○○さんにとってどうかという「個の選択においての判断」です。他のケースと比較できないため、質問者さんのご自分の判断が判断の基準となります。 これが医療上での医師の逃げ道を作っているとも言えます。 (2)医療従事者が信用できるかということ--------------心理の受け止め方ということを考えると、 自尊心の高いグループにおいて、カウンセラーや精神科医から離れた方が「自尊感情」が高まる人達がいます。 この人達は、他人からの干渉を余り好まず、『自分自身の判断と力によって問題を解決したい』と望む傾向が強く カウンセラーの操作や干渉があまり良い結果を生んでいないグループです。 人間同士の関係ですから、多少は「関係における力の操作」や「押しつけがましさ」「干渉」というものはあります。神のようになって見守るということは、どうしても無理です。このグループは神の様な完全さを求めるという意味において、割と要求水準が高い傾向があります。 精神医学は元々、ある程度以下の知的水準か、妥協傾向の強い患者のために用意されてきた側面が強く、物事を厳しく追及したり、完全なサービスを提供するということには長けていません。 カウンセラーが日本で誕生したのは、ここ10年程度の間であり、それ以前は主として精神科医が患者にカウンセリングを行っていました。 患者層は、主に知的障害・福祉対象層でした。ですので、昭和・平成初期の開業医においては、あまり高い要求水準を満たしてきた歴史はありません。 >カウンセラーという仕事は、とても負担が大きいものだと思います。家族や親しい友人でさえ、患者の苦しみは受け止めきれないのに、どうして赤の他人がそれだけの負担をうけとめ、助けようと思えるのでしょうか? カウンセラーを過大評価するということは、裏を返せば「崇高なサービス」を期待しているわけであり、 心理業界は崇高な職務遂行が可能であるかのような宣伝をしていますが、所詮人間ですので、そのような神の様な理想は期待できないと考えて妥協するべきでしょう。 それが不可能であれば、自分で治療するべきであり、自分の能力を開発し経験を積むことによってのみ 自分が求める結果が得られると考えていくべきでしょう。 質問の文章やお礼を拝見する限りでは、royal knifeさんは、精神医療・心理業界に向かない自尊心の強いタイプであると感じます。過度に医療に傾倒するよりも、適度に離れて自分なりの方法を確立して行った方が満足が得られるでしょう。
お礼
回答ありがとうございます。 >抗鬱剤は、善だ悪だという言い方は正しくありません。あくまで、○○さんにとってどうかという「個の選択においての判断」です。他のケースと比較できないため、質問者さんのご自分の判断が判断の基準となります。 これが医療上での医師の逃げ道を作っているとも言えます。 もちろん投薬に個人差はあるものと思います。ただ、私は非常に憶病であるため、はっきりと効果を得られるかも分からないことにリスクを払うのは極力避けたいと考えてしまいます。また、薬剤は統計学的にも有効性が示されてこそ信用できると思います。個人と薬との相性問題が大きいと思いますが、具体的なデータに基づいて薬選びができるならともかく、医者の勘に頼ってとりあえず試す、という工程を繰り返すことでいつの間にか薬漬けになっていた、となるのが恐ろしいです。 >(2)医療従事者が信用できるかということ--------------心理の受け止め方ということを考えると、 自尊心の高いグループにおいて、カウンセラーや精神科医から離れた方が「自尊感情」が高まる人達がいます。 この人達は、他人からの干渉を余り好まず、『自分自身の判断と力によって問題を解決したい』と望む傾向が強く カウンセラーの操作や干渉があまり良い結果を生んでいないグループです。 このような話は初めて伺いました。興味がありますので、もしよろしければ文献等教えていただけませんか。 私自身、確かに自尊心が高い面があるかもしれません。自分で 納得しない限り、認めようとしない傾向があります。 >人間同士の関係ですから、多少は「関係における力の操作」や「押しつけがましさ」「干渉」というものはあります。神のようになって見守るということは、どうしても無理です。このグループは神の様な完全さを求めるという意味において、割と要求水準が高い傾向があります。 確かに、要求水準は高いかもしれません。実際、以前のカウンセラーは話を聞くだけでアドバイスを積極的にする人ではなく、近年のカウンセリングがこのような姿勢であると知ってはいましたが、過剰に期待していたため裏切られた気分になり、離れてしまいました。私が求める人物像は、どちらかというと強い意志を持った人格者といった意味合いが強いかもしれません。 >精神医学は元々、ある程度以下の知的水準か、妥協傾向の強い患者のために用意されてきた側面が強く、物事を厳しく追及したり、完全なサービスを提供するということには長けていません。 この件も初めて伺いました。 >カウンセラーを過大評価するということは、裏を返せば「崇高なサービス」を期待しているわけであり、 心理業界は崇高な職務遂行が可能であるかのような宣伝をしていますが、所詮人間ですので、そのような神の様な理想は期待できないと考えて妥協するべきでしょう。 それが不可能であれば、自分で治療するべきであり、自分の能力を開発し経験を積むことによってのみ 自分が求める結果が得られると考えていくべきでしょう。 確かに当てはまります。もしこの傾向があれば、やはり自力で解決すべきでしょうか。正直、助けを欲していた自分にはややショックでした。 私の文章を隅々まで読んでくださったようで、人物像についてもおおむねご指摘の傾向があるようです。自尊心が高いからこそ、現実との落差を認められず卑屈になるというアンバランスな状態です。中島敦「山月記」の李徴は、嫌というほど自分と重なります。 以前は哲学史などまったく興味がなかったのですが、長い間悩みに沈んでいた中で、生きるために哲学がほしいと感じ、興味を持ち始めました。自力での回復という面から、こちらも継続して取り組んでみようと思います。 専門的な知識に精通されているようで、新たな知見を得られました。ありがとうございました。
- vzb04330
- ベストアンサー率74% (577/778)
No.7です。 私のあまりまとまらない回答から、意図するところをきちんと読み取ってくださり、ありがとうございました。 ご自身で書いていらっしゃったように、「現在の状況・自分の考えについて,正直に話す必要がありそう」だという気がします。 少なくとも、ご質問をお書きになった時点では、何とか理性で判断し、対処しようとして苦しんでいらっしゃったように思われます。 頭で考えることと、感情の動きとを区別するのもどうかと思いますが、質問者様の場合、どうやら「頭で考えること」が勝っていたような印象があります。 ご自身の状態を素直に受け取ってやって行かれた方がよろしいように思います。 時間はかかるかも知れませんが、現状から抜けて、生活も落ち着き、学業にも再び取り組めるようになることをお祈りしています。
お礼
たびたび回答いただきありがとうございます。 自分自身をさらすことは、たとえカウンセラー相手でも怖いと思ってしまいますが、一歩踏み出し、変わるためのきっかけをつかみたいと思います。 二度も親身になって回答していただき、本当にありがとうございました。ありがたいです。
お礼ありがとう。 もしカウンセリング再開するなら ここでの質問も遠慮せずしたらいい。 私の場合だけどね。 クライアントの声はどんな声でも聞きたいから。 人からの期待に答えなければというプレッシャーから元気なふりをされるのは嫌だな。 もしかしたら演技してることを見破るかもしれないよ(笑) 嘘はダメだよ。 本当に治したいから 元気になってもらいたいからしてることなのに 嘘で元気になってもらっても嬉しくない。 私は失望しないよ。 クライアントが諦めない限り付き合うつもりだよ。 だから私は他のサイトでメールカウンセリングしてても自分からはメールしない。 クライアントが治す気がなかったら治らないからね。 その代わり必ず返信するけどね(笑) 後はあなたの判断かな。
お礼
無理をして期待に応えようとすることはかえって失礼になるのですね.今度,今回の質問内容も含めて,率直に気持ちを伝えようと思います. 丁寧に回答いただきありがとうございました.
- vzb04330
- ベストアンサー率74% (577/778)
50歳代半ばの臨床心理士で、元は大学の教員でした。 学生相談員の経験もありますし、私自身が、うつ病の当事者です。 どの立場で回答を書くのか? とよりいっそう不信をもたれそうですが、もろもろを込みにして、いくつか思うところを書いておきます。 参考になるところがもしあれば、幸いです。 精神科医、臨床心理士などのカウンセラーにも、いろいろな人がいます。 有名な先生だから、良い治療をしてくれるとは限りません。 むしろ有名であるが故に、マスコミへの登場や、本を書くことなどの本来の副業がメインになってしまっていて、本業(治療)が下手くそとか、短時間で薬をバンバン出すというような、おかしな状況になっていることもよくあります。 あまりにも、あちこちの医療機関や、臨床心理士のところを巡り歩くのもどうかと思いますが、ある程度は、自分と合う先生を探してみることは必要でしょう。 よい先生を選ぶポイントは、1つ、つまり、「精神科医にしても、臨床心理士にしても、まずは、質問者様の話をよく聞いてくれる人」を大切にすることです。 投薬するにしろ、何か助言や指示をもらうにしろ、話をよく聞いてもらい、よく説明をしてくれ、また、疑問点があればきちんと答えてくれる人が、あなたにとってよい治療者になります。 精神科医については、いきなり、複数の薬物を大量に処方するような医者や、ろくに訴えも聞かず、むしろ何か言うと、やたら薬の種類や量を増やしたがる医者もいますが、そういう医者は避けましょう。 必要最小限の薬から始めて、患者の状況(症状だけでなく、副作用なども含め)をよく聞き、それに応じて、薬の処方を考えてくださる精神科医もいらっしゃいますから、そういう先生を選ぶことが大切です。 それと、こころの問題については、いくら相手が専門家であるといっても、やはりどうしても、「相性」という問題がともないます。 どうしても合わないとか、話しにくいと思われる精神科医、臨床心理士でしたら、相談先を変更した方がよいこともよくあります。 また、質問者様は、「ここ数年間情緒不安定な状態がずっと続いています。自分自身ではうつ病ではないと考えており、また病名を与えられることで病気に甘えてしまう」と考えていらっしゃるようですね。 自分のことは自分がもっともよく分かっているという考え方もありますが、情緒不安定とか、心身の調子が悪いということについての自己評価は、必ずしも正しくないこともよくあります。 私自身、回復途上で、「ずいぶん調子が良くなった」と思って、逆に失敗したこともよくありました。 それは、どうも「自己評価は甘くなる」からのようです。 自己評価では、どうしても、自分の「期待」や、「願望」が混じってきますので、実際以上に調子が良いという判断をしがちです。 現在、情緒不安定で、つらくて、日常生活や学業に支障が生じているとすれば、やはり、一度は専門家にきちんと相談されることを強くお勧めしたいと思います。 そして、治療が必要という診断がされた場合には、その治療について説明をしてもらい、納得された上で、治療をお受けになるとよろしいと思います。 一方的に治療内容を決められることはないと思いますし、もし押しつけてくるような専門家であれば、別のところを受診されればよろしいのです。 最後にもう一つ。 「カウンセラーという仕事は、とても負担が大きいものだと思います。家族や親しい友人でさえ、患者の苦しみは受け止めきれないのに、どうして赤の他人がそれだけの負担をうけとめ、助けようと思えるのでしょうか?」という点について。 これは、一般の方は誤解していらっしゃいます。 むしろ、他人事ですから、きちんと話が聞けますし、冷静に必要な対処が考えられるのです。 精神科医でもそうでしょうが、臨床心理士でも、相談者(心理では、クライエントと呼びますが)と向き合っている、30分とか、1時間という一定の時間の間、その時間・空間に限って、クライエントのことに全力で向き合うからこそ、クライエントの役に立てるのです。 残念ながら、精神科医、臨床心理士などの専門家は、例えば、家に帰ってまで、その日に出会ったクライエントのことは考えてはいません。 そんなことをしていたら、精神科医や臨床心理士の方が参ってしまい、他人のお世話どころではありません。 そうではなく、診察室で、あるいは、相談室で、その一定の時間に全力を尽くしてクライエントの役に立つための仕事をしているのです。 家族や友人という関係とは違った関係で、仕事として、プロとして援助を考えているのです。 あれこれ書きましたが、ご自分だけで考えていらっしゃらないで、一度専門家に相談なさり、第三者の、そして、プロの目から見て、質問者様がどういう状態にあると判断されるのか、また、それは、治療が必要なのかどうかについて、専門的な意見を求めてご覧になることをお勧めします。 そして、治療を受けるかどうか、どういう治療を受けるかについては、専門家の示すメニューから、質問者様も納得できるものを選ぶ、ということでよろしいと思います。
お礼
大変丁寧な回答ありがとうございます. カウンセラーとして,また自身がうつ病となって,両面からの視点を持たれている方の貴重なご意見を聞かせていただきありがとうございます. いい精神科医の先生に出会うには,やはりある程度は労力をかける必要がありそうですね.実際には,時間的・金銭的ハードルがあるのでこれがなかなか難しいように思います. 自分の状態については,うつ病ではないと思ってはいるものの,現実として生活・学業に多大な支障が出ていることは否定できません. >むしろ、他人事ですから、きちんと話が聞けますし、冷静に必要な対処が考えられるのです。 精神科医でもそうでしょうが、臨床心理士でも、相談者(心理では、クライエントと呼びますが)と向き合っている、30分とか、1時間という一定の時間の間、その時間・空間に限って、クライエントのことに全力で向き合うからこそ、クライエントの役に立てるのです。 確かに,ある程度距離を置いているからこそ見えること,アドバイスしやすいことがあるというのも理解できます. やはり,もう一度カウンセリングを受診して,現在の状況・自分の考えについて,正直に話す必要がありそうです. 親身になってアドバイスいただきありがとうございます.少しでも前進できるよう相談してみようと思います.
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お礼
回答ありがとうございます。 実際に精神医療に携わったご自身の経験のお話ということで、大変興味深く読ませていただきました。 総括すると、精神医療に過剰な期待は禁物といったことでしょうかか。カウンセリング等を利用する際には、割り切りが必要で、やはり自力で価値観を変えていくほかないのですね。 最近になって、宗教や哲学、歴史について興味を抱くようになりました。これから、長い時間をかけてでも考えていこうと思います。