確かに滅茶苦茶です。それは福島県民が馬鹿で卑怯な世界最低な人種であることが原因です。そもそも福島原発は福島県が積極的に誘致したものです。原発に限ったことでもないのです。東京電力の火力発電所も水力発電所も福島県にあります。東北電力のもあります。電源開発の風力発電所もあります。つまり発電所を誘致しまくるのは福島県の伝統的な県策だったということなのです。福島県が原発の誘致運動を繰り広げていた頃はちょうど成田空港の建設の是非を巡って激烈な成田・三里塚闘争が起こっていたころなのです。地主が用地買収に応じないのです。しかし福島県では反対運動らしきものは全く起こりませんでした。福島県の地主は、「もうちょっと高い値段で土地を買ってくれ」と要求しただけなのです。私は反対運動が無かったことを責めるつもりはありません。私は福島県が原発を誘致したことを責めるつもりもありません。そういう事実を隠し通して被害者ぶるのが卑劣だと断じているだけです。賛成だろうが反対だろうが一度、原発を誘致したからには福島県には東京電力を監視・監督する責任があった筈です。そういう責任を忘れて被害者ぶるのが卑怯だと断じているだけです。福島県知事、福島県議会議員を選挙する権利は東京都民にはありません。それは福島県民にしかないのです。権利には義務と責任が伴います。賛成したから責任がある、反対したから責任がない。そんな道理はありません。誘致したからには福島県には東京電力に対して災害対策を問い質す責任があった筈だ。私はそう主張しているのです。そういう責任に頬かむりして賠償しろと一方的に叫ぶから、私は福島県民が馬鹿で卑怯な世界最低な人種だと断じているのです。200万福島県民の誰一人として「ちょっと待てよ。私たちはこれまで責任を果たしてきたのだろうか?」といった自省の声を挙げないというのは異常事態と言わざるを得ない。
以上の議論は少しいいすぎだったかも知れません。しかし民主主義は多様な言論を前提とするのです。全員一致で賛成というのも全員一致で反対というのもどちらも極端です。どんなテーマについても多様な言論で議論を経ないと民主主義は機能しないのです。日本人は情に流され理を忘れる。それが戦前の過ちだったはずです。
首都圏が電気を使えるのは福島のおかげ、感謝しろという論が成り立つなら、福島県が原発誘致に成功したのは電気を使った首都圏のおかげ、感謝しろという論も成り立ちます。とはいえ、これでは余りにも議論のレベルが低い。私もそんな次元が低い議論がしたいわけではないのです。
ともあれ、賠償問題の前に福島県がこれまで何をしてきたかも、具体的に検証する必要があるだろうと考えています。福島県民があくまで白を切り、頬かむりをし、汚染食品の出荷を続けるというなら、福島県民のこれまでの行状を厳しく処断しなければなりません。
情に流され理を忘れてはならない。戦前の過ちを繰り返してはならないのです。私たちは福島県民を甘やかしてはいけない。福島県は大震災に関しては被災県です。しかし一方では東電に加担した加害県・共犯者でもあるのです。彼らは被害者であると同時に加害者でもあります。それを彼らが認識していないとするなら、例え私一人であっても私は声を挙げ続ける。
お礼
電力は独占事業であるがゆえ、契約者に選択の余地がないことから、契約者=加害者という方程式は無理があります。 原発を推進した国や誘致した自治体に責任があるとの意見は同感です。ひいては国政選挙や地方選挙で政策を是認してきた国民や住民に責任の一端があるわけで、そういう意味では首都圏を含め、全国民に責任はあるのですが、立地自治体に住む住民はより責任を負っているという自覚にかけているのでしょう。