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正論に対して「世間で通用しないぞ」
生真面目なタイプの人に向かって、 「正論ばかりで退屈」「正しくても世間では通用しない」 などと言う人がいますよね? 私はあれが大嫌いなんです。 そもそも「世間で通じるかどうか」というのは、そんなに大切な基準なのでしょうか? それは要するに「正しさよりも多数の同意が得られることの方が大事」という意味ですよね? 私は時代や文化によって変わる世間の風潮よりも、 「論理的に正しい」ことの方が百倍も大事だと感じます。 「大勢の同意が得られる」というのは、 「こうあるべき」とは何の関係もないと思います。 (天動説とか、奴隷制が幅をきかせていた時代を考えれば分かります) ゆえに私は「世間ではこうだから~」と言われても 「みんなゲーム持ってるから、僕にも買って!」と 駄々をこねる子供の言い分にしか聞こえません。 そこで質問です。 「正しさ」よりも「世間で通じるかどうか」を重視する人は、なぜそうするのですか? そんな曖昧なものを基準にしたら、不安でしょうがないと思うのですが… また、相手に正論を言われたら、なぜ黙って受け入れないのでしょうか? よく「人間は感情の動物だから」と正当化する人がいますが、 それはただのワガママとは、どう違うのですか?
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そうやって生きていかないと欲しい物が手に入らないからでは? 面接で人に気に入られることを言って合格を貰い、愛想笑いで出世して、近所付き合いで敵を作らないように過ごす その人達も貴方から欲しい物があればあなたに合わせるでしょう 人が欲しいと思うものを持ってる立場の人は高慢になりやすいから、そこを始まりとして連鎖的に皆が周りに合わせるよになっていくのではないでしょうか
- Mokuzo100nenn
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他人の意見に反論するのも言論の自由です。これは重要ですよ。尊重しなければなりません。 ですから、「正しくても世間では通用しない」という意見の人も尊重してあげましょう。 不愉快でも、それを顔に出すことなく、ちゃんと聞いてあげるのが礼儀です。 そのうえで、出来るだけ距離をとって、接点が少なくなるようにするのが大人の対応です。
お礼
回答ありがとうございます。 おっしゃること、よく分かりました。 確かに反論の自由はだれにでもあります。 そう言われると、なんだか納得してしまいました。
本当に「世間で通用しない」ってことがポイントじゃないかと。 人間社会で生きて行くには、多数派とうまく折り合いを付けていくことが必要です。 正しささえあれば、どんなに無茶でもいいんだとか言いませんよね? それじゃ「世間で通用しない」を『悪用』している人と同じでしょう。 正論の正しさは誰が判断するの? 立場が変われば判断も対応も変わるモノじゃない? そういうわけで、正論を金科玉条のように振りかざすのは嫌いです。 同族嫌悪? うーん、あるかもね。 正しさは自分の中だけにあるものだと思うので、振りかざすのはどうかなあ。。。
お礼
回答ありがとうございます。 正しさは立場によって変わるのは、その通りだと思います。 だから「おれはこれが正論だと思う」「いやそれはおかしい」という 対等の議論なら理解できるんです。 分からないのは、 「はいはい、それは正論ですねー(明らかに聞く気がない)」 「おまえの言い分は正論だが…(と言いつつ結局無視する)」 のように、聞く耳を持たない人のことです。 こういう人たちは堂々と意見をぶつけあわずに 「なんとなく」「いつの間にか」相手の方が間違っているという「雰囲気」を作り上げ うやむやのうちに自分の勝ちにしてしまいますよね? しかもたいてい、周囲もそれに同調する。 そういう卑怯なやり方を、なんでみんな容認するのか、という意味なんです。
お礼
そう、そこなんです。 要するに「長いものに巻かれた方が楽だから」 そう言ってくれれば、まだ納得がいくんです。 しかし大多数の人は、 「そんなに正論にこだわるなんて、まだまだ若いねー(笑)」というように、 理由も説明せず、うやむやのうちに相手を貶め、 自分の方が「道理をわきまえた人間」であるようにふるまうでしょう? そういうやり方が卑怯だと言いたいんです。 堂々と「正論を認めたら、俺が不利になるからイヤだ」って言えよ!と思います。 回答ありがとうございました。