※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:内申書の開示の現状について)
内申書の開示の現状について
このQ&Aのポイント
内申書の開示の現状について
内申書の開示に関する情報公開法の活用方法について
いじめによる影響と内申書の関連性
私は中学から高校へいった内申書によって、担任の教師にいじめぬかれました。
私は1987年の4月に、内申書(評定の合計値)が悪かったので志望校を2ランクも
落として北海道札幌東高校に入学しました。志望大学は北海道大学理II(工学部)
でした。高校入学時の偏差値なら合格できる大学でした。
高校のクラスの自己紹介の時、担任の教師からなぜ中学時代に部活動をしていな
かったのかと尋ねられました。他の生徒に対しては質問は一切ありませんでした。
私は少し違和感を覚えました。部活動をやらなかったのは勉強の妨げになるから
と答えました。
担任教師はクラスの委員長や体育委員、応援団、保健委員を決めた際に、中学か
ら高校に提出された内申書を元に決めました。私は中学の時に担任の教師に、「
お前みたいな正義感ヅラした奴は、陥れられて破滅するだけだ。」と言われてお
りました。中学の担任の教師は、私がいじめに加わらないのを不満に思っていた
ようでした。
高校の担任の教師は英語の担当でした。担任の教師は最初の授業の中で、クラス
の全員に向かって、風邪をひいたときに備えて予習は一週間先までやっておくよ
うにと言っていました。次の授業の時には英語の教科書の日本語訳をやっており
ました。その日本語訳の授業中、私にいきなりワークブックの解答を求められま
した。一週間先に触れるような部分でした。私はその部分の予習をしていない旨
の事を言うと、「愚かなことを言うな。」と怒鳴られました。予習は一週間先ま
でするべしとのみせしめにされました。その日、職員室に呼び出されて予習をき
ちんとするように言われました。私は内心で、「全教科を一週間先まで予習出来
る訳がない。」と思いました。
担任の教師は高校生は読書をすることが大切だと言って、一か月に一度の頻度で
どんな本を読んでいるかの調査をするといいました。どんな本を読んでも質問等
しないから調査書に記入してくれと生徒全員に言っていました。一度目の調査が
あった数日後に職員室に呼び出されて私が読んだ本についての感想を求められま
した。約束が違うと思いました。以上がいじめのプロローグです。これから先本
格的ないじめが始まりました。
1987年の6月のある日に私は職員室に呼び出されました。担任は突然、「よく今
まで学校を辞めずに来られたな。」と言いました。「学校辞めたいだろう。」と
しつこく言われました。「他人から同情されたいからそんな表情をしているんだ
ろう。」、「お前がいるだけで周りの雰囲気が悪くなる。」、「お前がいるだけ
で迷惑だ。」、「いいかげんに本性をあらわせ。」、「人から良く思われたいか
ら勉強してきたんだろう。」、「俺を馬鹿にしているんだろう。」、「お前がや
ってきたことは全て知っている。」、「ほうら辛くて辛くて仕方がないだろう。」、
「くよくよ悩んで勉強が手に付かないんだろう。」、「プライドが高すぎて失敗
をすることを恐れて何一つ新しいことにチャレンジ出来ない。」、等他にも思い
つく限りの悪口を言われました。
あるときは職員会議で生徒が完全下校になったときに、私一人が職員室で職員会
議が始まるまで、2時間悪口を言われた事もあります。
あるときは土曜日の午後に担任は自分だけ弁当を食べながら何時間も私をいびり
ました。
学校祭で授業が無い日は当然のごとく職員室に呼び出されいびられました。他に
も時間を作っては担任は私をいびりました。徹底していて執拗でした。
保健理論の授業中に体育の教師は、私をいびる担任のことを、○○先生は人を呼
び出して長時間どうのこうのと批判しました。職員室では私がいじめられている
ことが知られているようでした。
1987年の2学期の後半ぐらいから、担任にいじめぬかれたことで過敏性大腸症候
群になりました。これは2005年ぐらいまで続きました。腹の中にガスがたまり、
授業中やテストの間は左手で腹を強く押さえつけ、右手で字を書いていました。
数学の模擬試験は120分もあり地獄でした。
1987年の後半か1988年の初頭に腹にガスがたまって困るという理由で、札幌明和
病院の思春期外来というところに行きました。そこから処方された精神安定剤を
約2年服用しました。札幌明和病院の医師には言いませんでしたが、担任の教師
からいじめられて体温が一日の間に39度から42度に激変するようになりました。
朝から41.7度あったこともあります。死にたくなるほどの苦痛でした。実際に自
殺に非常に興味を持つようになりました。
担任の教師にいじめぬかれて、私の成績は急降下しました。高熱の苦痛の中で大
学の受験勉強をするのは困難を極めました。現役で北海道工業大学工学部土木工
学科に合格しましたが、私は無気力化しており通学する気力はありませんでした。
さらに、後からわかったのですが、過換気症候群にもなっておりました。意識を
失うのではないかと思うほどの苦痛でした。
1992年の春になって、少し体の状態が良くなりました。40日間の勉強で英語の偏
差値を51.7から69.0に上げました。世界史の偏差値を約48から約72に上げました。
早稲田英語ゼミという授業を代々木ゼミナールで受講しました。予習に20時間か
かることもありました。40日間で中央大学の過去の試験問題で合格点がとれるよ
うになりました。しかし、高熱の苦痛は続きました。とは言っても、体温が42度
にも上がることはその時点では無くなりました。
1993年に目標通り中央大学に入学しました。学部は経済学部でした。入学してす
ぐ衝撃的な事実が判明しました。経済学部は入学するより卒業するほうが難しい
学部でした。大学入学当時の体温は37度から38度でした。1993年は川崎市多摩区
枡形で生活していました。精神科のクリニックに五か所以上通いました。自律神
経賦活剤などの薬を服用しましたが、体の調子は悪いままでした。
1994年には川崎市麻生区に引っ越しました。1995年の秋から川崎市多摩区にある
武田病院の精神科に通院するようになりました。ロヒプノールを1997年まで服用
しました。大学は何とか4年で卒業しました。大学の在学中に『完全自殺マニュ
アル』が出版されました。購入し熟読しました。
1998年になって電話帳で近所に病院の精神科があることを知りました。コンスタ
ン、イソブロ、ダルメートを2000年の7月まで服用しました。1999年の7月1日に
はパソコンを購入し「自殺」でネットサーフィンしていました。
2000年2月3日には、いよいよ本気で自殺しようと思い一日考えるつもりでした。
しかしとんでもない事件が起こりうやむやになりました。2000年4月には自殺に
ついてインターネットで情報をやりとりしている人々と実際に会いました。そこ
には、専門学校で先生にいじめられ自殺を図った人もいました。
2000年の7月には自殺を図りましたが準備不足で失敗しました。
現在は少し良くなって自宅で仕事をしております。
自殺願望は消えました。
中学から高校に行った内申書の全てを見たいです。
24年もたっています。
私をいじめぬいた教師は、私へのいじめ自体を否定しています。
日記を書く習慣があればよかったです。
現在はいやなことがあったときは、日記に書くことにしています。
私は極悪担任教師への合法的な復讐をライフワークにしています。
担任をそこまでにかりたてた内申書をまずは見たいです。
情報公開法がありますが、現場レベルでは難しいようです。
所定の代金を払えばコピーがもらえるとの意見がありますが、
駄目なようです。
実際に行動を起こす為のマニュアルのようなものはどこかの行政機関にあるでし
ょうか。
近くの区役所にはありませんでした。
情報公開法の本は読みましたが、参考になりませんでした。
この場所では内申書のことについては成績の合計点といった意味で論じられてい
るようです。
人格的な評価についてはどのようになっているんでしょうか。
どなたか破滅的なことを書かれて、開示請求によって知ることが出来た人はおら
れますか。
あの担任の教師の態度は尋常ではありませんでした。