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愛憎うずまく社会の中でどう生きていくか
社会(規模は何でも可。個人間のものから国、世界まで)に対する憎悪、嫌悪を抱きながら、それでもその社会にある側面では愛着や希望を持ちつつその中で(もちろん、社会を逃避しても可ではある)生きなければいけないと言う場合には皆さんはどのようにしていきますか。 とりあえず私が思い浮かんだもの(各項目「→」以下は具体例。読み飛ばし可) ・その社会から逃避する →古来より桃源郷やユートピアに表される様に人間は実際に行動は起こさなくてもその理想郷を想像しあこがれた事は間違いない。それは自分が所属する社会に対する絶望を裏付ける強力な証拠である。しかし、実際に行動した人物はそう多くない。やはり、ゴーガンや竹林の七賢よろしく所属社会に対して事実上の絶縁状を叩きつけ、その社会から抜け出すと言う事は難しいようである。特に私のような人間には難しい。 ・その社会自体を改革する →ゴルバチョフは書記長就任の遥か前から当時のソ連に対して違和感を持っていたらしい。しかし、彼はその事をあまり口には出さなかったようである。そしてついに彼が書記長に就任した時、彼は所属社会に対し反旗をひるがえしたそうだ。しかし、私は彼が書記長に就任するまでの苦労や心の葛藤を考えるとこれが果たして凡庸である私に出来る事とは到底思えない。 ・社会との接点を最小限にする →引きこもりがこの様な感情を抱いているかは個々人の問題であるので分らないが、彼らの様に(?)最低限度の付き合い(つまり所属しているだけ)で済ますと言う方法もある。我々は好むと好まざると生まれいずる時より定められた社会に居るのであるから、これは強制的だと言っても過言ではない。ならば、社会との接点をなるべく小さくする事は当然認められるはずである。この行為は前述の社会からの逃避に近く、なおかつよりライトな方法だと思われる。故に愛憎入り混じる対象として社会を見ている私はこれも難しい。 ・都合の良い部分だけを見る →現実逃避に他ならない。しかし、愚者は愚者でこれが一番の解決方法かもしれない。ただし、自ら愚者となりきれる人間に限る。 ・自分にミートする社会を見つけ出す →しかし、対象がもし全てを包括する「人間」や「生命」と言う規模であったならこれは不可能な事である。 以上が、とりあえず思いついたことです。皆さんはこう言う問題にぶつかったらどうされますか? 以下蛇足 この質問はhttp://okwave.jp/qa/q6543513.htmlの続きであります。物好きな方の為に何故こうなったのかをここに。 私は上記質問時にA氏、B氏と形容し彼らの争いにより全くもってどうにもならなくなったとしていますが、これはどうやら間違いではないようです。ただし、その時との大きな違いとして私はA氏が「表層的なもの」、B氏が「抑圧された深いもの」と見ていたようですが、実際には真逆でした。私はこの社会と言う嫌悪対象に対する自己防衛策としてB氏(社会の価値観の代弁者)を創出したようです。つまり、B氏はあらゆる意味で「社会的な」存在であり社会を生き抜く為の防衛システムとして生み出されたものでした。だからこそB氏の登場により私の社会的地位の上昇の為に成績が上がったのでしょう。社会と言うものを制する為にその中にあえて入っていく、毒を持って毒を、の考えでしょう。しかし、そのB氏はあくまで防衛対策。これに対して私に元来からあるA氏(自分の価値観の代弁者)が激しく反発をした、そしてもうどうにもならなくなった。事の顛末はこう言う事だったようです。
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お礼
以下、今までの私の質問内容に答えていただきましたら、こちらも対応させていただきます。