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神社と寺
近所に住みながら、申し訳ありません。近くに比叡山があります。ご存知の方もおられると思いますが、比叡山は、仏教 天台宗の総本山かと思いますが、その麓には日吉大社、または少し離れますが、近江神宮もあります。最近まで考えた事もありませんでしたが、比叡山は先の通り仏教のお寺で、日吉大社 近江神宮は神様を奉る神社ですが、何故、こうも近くに、しかも並ぶように寺院と神社があるのでしょうか?またその昔、日吉大社前の坂本というところは、門前町で沢山の民宿のようなものや、遊郭のようなもまで(織田信長による比叡山焼き討ちの原因の一つ)あったようです。ご存知の方、教えて下さい
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廃仏毀釈が行われるまでは神社もお寺も一緒だったそうです。同じ敷地に有ることも普通だったそうですが、明治に分けられて今に至る形です。昔の日本は結構何でもありなんですよ。 西洋に追いつけ追い越せでおかしくなったようですが。
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- mozofunk
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#2さんのご意見に補足して、こんな資料があります。 http://www.amazon.co.jp/神道集-東洋文庫-94-貴志-正造/dp/4582800947 なんか凄く高くなってますが・・図書館で探してみてください。
- takuranke
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仏教がはやった時代に起こった神仏習合の思想のひとつに、 本地垂迹(ほんじすいじゃく)というのがあります。 この考えに基づき、 日本の八百万の神様の本地(ほんじ:本来の姿や環境)は仏(菩薩や天部を含む)である。 仏が神に化身して日本に現れた権現という考え方からです。 今はほとんどありませんが、近くではなく、 寺領内や神域(神社の敷地)内にそれぞれ建っていた時代があります、 神宮寺は神社に付属され建てられた仏教施設で、 神護寺や別当寺等とも言われていました。 ちなみに、過去、日光東照宮は大社でしたが、管理は輪王寺が行っていたこともあります。 門前町等は、 「賑わうところに町ができる」の典型的な例です。 信仰が盛んになれば参拝客が増え、 人が増えれば色々なニーズが増えてきます、 特に交通の便が悪かった昔は、 宿が必ず常備されており、 江戸時代には女人の旅は制限がありましたので、 参拝客は男が多く、男が多ければ当然遊郭ができます。 在家信者が寄り集まって町ができたというところもあります。 詳しくお知りになりたいのでしたら、 入門としては学研のエソテリカシリーズ 「神仏習合の本」が良いかと思います。
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ありがとうございます
- usokoku
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記憶が怪しいのですが、 聖徳太子の時代に、仏教を普及するために既存の神社に祭られている神を仏に置きかえる、という令が発せられました。 これにもとづき、神社の隣に寺が立てられました。 後半は門前町 http://dic.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E9%96%80%E5%89%8D%E7%94%BA&fr=dic&stype=exact http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%80%E5%89%8D%E7%94%BA 社寺領の関係で、年貢が集まる。年貢が払えなければ、人身売買で遊郭も発達する。
お礼
ありがとうございます。
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ありがとうございます