個性的であることは良いことであると言われているけれども、本当のところは、良い個性、他人や社会にとって好ましい性質が良いとされるという当然のことが言われているに過ぎないのであって、個性的であるということは、平均的でないという意味の無色の価値しか有しない。個性的であること=平均的でないことが褒めそやされていると誤解して、小滝橋のバス停で「東西線が参りまーす」と言うやつはいないだろうしめしめ、と思ってそれを実行したり、東西線のホームで駅員でもないのにそれをいうやつはいないだろうしめしめ、と思って「東西線中野行きが参りまーす。とか言ったりしてみたけど、ここはバス停じゃないからそれはいいいんだけど、実はぼくちんは駅員さんではないんだよーん」とか言ったり、「しめしめと思ったけど言わないよーん」とか言うやつはいないだろうしめしめ、と思ってそれを言ったりすると、わけがわからないから(わけがわかっても)、たちまち阿呆呼ばわりをされる。阿呆であると人からいわれるとき、それは人並みに阿呆であるという意味ではなく、平均的でなく阿呆であるという意味であるから、個性的なことではあるが、良いことではない。平均的でなく阿呆だということになると、もう、個性的であるとか没個性的であるとかの話にもならない。あいつは阿呆である、で終りである。
個性的であることを良しとする風潮は、したがって、それ自体誤りである。学校教育においては、平均的にせよと教えるのが正しい。給食は、平均的な量を(給食費を余計に支払うのであれば別である)、定められた時間(正午ころと定められるのが通例である)から、平均的な時間をかけて(1時間程度が望ましい)、平均的な姿勢で(起立するか着席するのが望ましい)、平均的な方法で(箸は偶数本を片手で用いるのが望ましいし、箸でつまんだ給食は、級友の口でなく自分の口に入れるのが望ましい)摂らせるのを原則とするべきである。鼻から牛乳を出すといった平均的な悪戯は、平均的ではあるがたしなめてよい。「平均的な悪戯じゃんか」と口ごたえする児童・生徒があるときには、「鼻から牛乳を出すことは平均的な悪戯であるけれども、それを先生にたしなめられた子供が平均的がどうのこうのと口ごたえするというのは平均的でないでしょう」と諭すと良い。食事は平均的な会話をしながら摂られるのが望ましいから、給食時間には教員は児童らが平均的な会話を行うことができるよう、平均身長や平均生涯所得や株価加重平均などを平均的な声量で発するなどの配意をするべきである。その発声のタイミングは、まあ、適宜で良かろう。