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皆さんおひゃくど参りてご存知でしょうか?ある人に鳥居からお参りする所ま

皆さんおひゃくど参りてご存知でしょうか?ある人に鳥居からお参りする所まで百回走りながら往復しお願いごとをするのでは?と言われましたがあってるのでしょうか?母の病気が発覚し思わしくないようです…結果待ちですが多分入院なるかと。阿弥陀様に毎日お願いし氏神様にも毎日通いたいと考えてます。千羽鶴も折るつもりですがまだ自分になにかできないかと。ご存知の方どうかご回答よろしくお願いいたします。

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  • michael-m
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回答No.3

お百度参りは元々決まった方式があるわけじゃありません。 だから神社によってもかなり異なり、儀礼化したものや、イベント化したものが多いですので、真似をしても仕方ありません。 要するにどれほど願いを叶えたい気持ちがあるかどうかという事です。 走るという行為も走らねばならないわけではなく、一時でも早く願いを通じさせたいという思いが早足になっただけです。 祈願というと、どうしても神仏の前で願うことを考えがちですが、実際には社殿の前で願うことなど祈願でも何でもありません。そんなものが叶うはずもありません。 真の祈願というのはいつも頭から離れない、心の中にとどまっている思いです。 もし、貴方が神仏の前に立つまでお母様のことを忘れていて、神仏の前に立ったときだけ祈るとすれば、それは祈願といえるでしょうか? お母様に病気平癒はいつも貴方の心の中に願うことであり、平素はそれを何とか押さえ込んで仕事や家事をしているのではないでしょうか? その願い続ける心こそ本当の祈願なのです。 更にいえば、その祈願も一時であれば意味がありません。これ以前から、或いはこれを期に信仰を持ちますか?(信仰とは宗教に入ることじゃありません。神仏や自然そ崇敬し、感謝することです) お百度を踏まずとも、たった一回でもいいから、神仏の前に立って、思いを込めて息を吐き切り、吐き切ったら心を無にして大きく息を吸い込みます。これで神仏の気が貴方の中に満ちます。 その足でお母様の所に行き、手を握ってあげて、神仏の存在を心に描きながら、ソコに息をそっと吹きかけます。 もちろん自然な心の発揚は心の叫びです。そのまま行動に移していいでしょう。要は形式に囚われず、その心を重視することです。 私はカトリックですが、子供が死の縁に立った(医者からこの2-3日が峠だと云われた)時、無意識に口に出た言葉は「○○神社で祈願してきて」と言う言葉でした。 そして、1週間後には退院しました。それから何とはなしに、1年半、お礼参りをしました。

jwmj
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。私は最近可愛いがっていたペットを行方不明にしてしまい、その2週間後に母の病気…始めは異常ないと思うと医者に言われほっとしました。念のためCTをと言われそこからまた大学病院の結果待ちです。悲しいよりまだこの状況が夢のような信じたくないだけですが…治らないとそれは言われてます。顔見てるのはつらく、奇跡を信じ自分がきついと思うことをする願掛けをしたいと思ったのです。いつも想っています母のこと。私は厄ではなかったのですが母の厄払いと思い、2人で行ってきました。厄払い中なぜかわからないけど、私は涙が止まりませんでした。こんなにも母が生きていて欲しいと私は思っていたんですね。今頃思っても遅いですが…神主様は、遅くないですよ。2年後の厄払いにはまたおかあさま連れて来てください。と笑顔で言われました。神主様はなにか感じたんでしょうか…勇気と希望をいただくき私はいつも笑顔でいると決めました。神様仏様を信じ抜き、情けないくらいにすがりつこうと思います。母の喜ぶことしていこうと思います。神様仏様の前で願いながら深く息を吐き、無で吸い込む、母の手を握り神様仏様から気をいただいたよだから大丈夫 と念じ息を手に吹き掛ける。で合ってますでしょうか?毎日やらせていただいと思ったので。息子さん今は元気なんですね?良かったですね(^^)優しい方(日頃の行い)だから救っていただけたんですね。わたしはどうでしょう…今日絵馬に願いを書き、お参り行きました。おみくじが気になり母にも引かせたらわたしは吉でしたが、母は大吉でした。病気の欄を見たら、ご祈念と養生で快癒と書いてました。おみくじもあなた様のような優しい方に元気いただいたのも神様のお導きかと思います。がんばります本当にありがとうございました。

その他の回答 (2)

noname#203300
noname#203300
回答No.2

> まだ自分になにかできないか  お百度を踏んでいる時間があったらお母様のところに居てあげてください。入院している病人って心細くて寂しいものです。しかも、お子さんが自分のためにお百度を踏んでいるなんて話が耳に入ったら病人には“百害あって一利なし” お百度よりあなたのお顔の方がよほど病には“ご利益”があります。

jwmj
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。正直顔見てるのはツラいものですよ。家族で余命の宣告…あなたさまは受けたことおありでしょうか。

  • ultraCS
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回答No.1

お百度については、神社によって違います。百回走りながらというのは、有名どころでは大阪の石切さんのお百度のやり方で、これは、本来のお百度が簡略化された方法なのだと思います。正月などは参詣者が多いのでどどどどどっと参詣者が地響きをたてて回っています。元々は走らなくても良かったのでしょうが、大阪人のせっかちさで走るようになってしまったのではないかと思います。石切さんの場合は、一周ごとに本殿に参るわけではなく、それ用の石柱の回りを百回回ればよいようです。 一般的には、石畳の鳥居側で履き物を脱ぎ、素足か白足袋(靴下やストッキングは不明)で百回本殿を往復して祈ります。走る必要はありません。 神仏が願いを聞き届けるのは参拝の形式ではありません。参る者の真摯な心からわき出す力に手を添えてくださるだけです。形式に拘らず真剣な気持ちで願うことが大切です。その方法については、それぞれが信ずる方法ですべきだと思います。一番強いのは、生きる者の祈る力であり、神仏はそれを手助けするだけなのです。これを誤ると似非宗教者や似非霊能者につけ込まれますよ。

jwmj
質問者

お礼

おひゃくどの説明とアドバイスありがとうございました。形式でやっても神様仏様は見抜くと思ってます。願いを聞き届けてもらいたい… それには自分がツラいと思うことをやる。そう思ったもので。一番は私が精神的身体的に元気でいて常に笑顔で接し良くなるよと言い続け願い続けることですよね。勇気出ました、がんばります。ありがとうございました。

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