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地鎮祭について

地鎮祭について 地鎮祭を行わなかった為に何か良くない事が起こる事があると聞きます。 りき、らんとう風水的な見方は置いておいてこの質問では地鎮祭という事に絞らせてもらいます。 地鎮祭の意味は土地の神から土地の使用許可を得る為に行うという事なのですが 何故神が許可を取りささげ物を送らねば凶時を起こすのでしょうか? 人の敷地に許可もとらず、ずけずけと入ってきおってこの人間が!こらしめてやる! みたいな感覚ですか? 許可をささげればおぬしもかわいい所はあるのぉ、よろしい土地を使いなされ 土地の神に感謝をささげる事を否定している訳ではありませんがしないからといって ペナルティがつく事がいまいち理解できません。 まるで人間で年のいったある意味では扱いやすい人・・・・のような感覚を受けます。 コチラが気を使えばかわいがってくれるけど気を使わなければ敵視される。 凶事が起こる理由としては土地の因縁、残留思念(色々含めて)もあると思いますが それなら理解は出来るのですが神クラスでそんな事で人間を傷つけるのかという事が理解できません。 スピリチュアル系、リアリスト、風水師どなたでも忌憚の無い意見をお持ちしております。

みんなの回答

noname#113774
noname#113774
回答No.6

地下水脈や地磁気など、プラズマ性を帯びたエネルギーは意識を反映します。 それらが集まった場所をパワースポットと言ったりして神社があったりしますが、人間同士以外での意識の流れのなかに雑音があったり不具合が起きることの予防に地鎮祭などがあるのでしょう。 私は借家でよく引っ越しましたが、それをしていない所は誰かが何らかの形で不具合を処理するようになっているように思えます。 もし仮に、せずに居てみて不具合が生じたならば、そのせいだと思って改めて処理するのも一考ですが最初から近くのちゃんとした所で対応してもらっていた方が安心ですね。少なくとも、自分達が認識できずに積み重なる何かを経験しなくて済みます。

noname#111092
noname#111092
回答No.5

父が大工の棟梁でした。 父によると、地鎮祭は、ご近所への顔見せ・挨拶の土台でもあったそうです。 昔は小さなムラの中で、皆で助け合って生きてきました。だから、新しい仲間になる人は、地鎮祭や上棟式など、家が建つ間から、少しずつ馴染もうとしたんだと思います。 助け合いという親密さは、負の側面も持ち合わせます。その地域限定ルールができたり、よそ事を嫌うことがあったり、ルールを破った者を「村八分」にしたり。 何か不幸があっても同情して助けてもらえる人と、放って置かれてしまう人がでてしまったり。 ムラという閉鎖社会において、一番怖いのは無関心だったのではないでしょうか。だとすれば、祟りの正体は…ヒト…ですか、ね? ちょっと怖いですね。 余談ですが、心霊とかスピリチュアルなものが流行するのは、社会情勢が不安な時ってきいたのですが。 この先は宗教論になってしまうので、専門家にお任せするのがいいと思うのですが 神を尊重しつつ、神に丸投げせずに自分たちでできることを探っているのでしょうか。 従っていればよいけど、逆らえば罰って、自分がないですよね。 自分を持ちつつ、大切な何かを求めたら、愛が降り注ぐと感じるのでしょうか。 時代や人は変わります。それとともに、神の役割も多少の変化があるのでしょうか…? 神を求めるのは、ヒトですからね。 いろいろな説を知っていきたいです。

  • Wendy02
  • ベストアンサー率57% (3570/6232)
回答No.4

地鎮祭は、その地域住民の心の慰安のためであって、それをしたからといって、土地が清まるわけではありません。清浄で清い土地というのは、ひとえに、豊穣で水はけの良い土地のことです。鉱毒が流れ出るような場所は、とても住みやすいような土地ではないように、米軍の航空機が毎日離発着するような場所も良いところではありません。一体、どこに、その土地を鎮めるような神がいるのでしょうか。しかし、そこを良くしていくのは、人の力でしかありません。 風水も、本来、住みよい所、住みやすい場所を探すことが発端です。例えば、墓地を作る時は、東洋人は、川の反乱で流れてしまうような場所には作りません。神社を作るのに、草も生えないような場所には作りません。深淵で神妙な所に作るわけです。 日本の狭いムラ社会では、地鎮祭をしなかったのは、ムラ社会でオキテを守らなかったということで、「怒り」が「恨み」に変わります。彼らは、もともと子どものような「祭り(祀り)」という期待をしているから、それが裏切られたということで、遺恨をいつまでも残します。それが、何十年経っても、悪いことがあれば、すぐに、自分たちのオキテに従わなかったことに結びつけるのです。 金田一探偵シリーズの横溝正史さんの小説のオドロオドロした話は、実話をもとにしたものだと言います。神の怒りというのは、人の制御されていない心(エゴイズム)だと思います。そして、いつも、苦しめられるのは、為政者が自分たちの都合のよいように作った、社会の下部構造の人たちです。私たちの社会は、人が人によって変わっていく、変えていかなくてはならない社会です。社会の底辺の人々を救う「神」というものはいません。人が人を救うものだと思います。 日本人が言う、八百万の神というものは、天津神と国津神とはありますが、天津神は、古来からのもので、その後は、当時の為政者を神格化したものではないでしょうか。天照も須佐能も、実際にいた人物だったと思います。新しい技術や道具や戦略によって、戦いをし、自分たちに従わなかった人たちを、殺したり追い払ったりした歴史を、美化したものにすぎません。仮に、従わなかったとしても、彼らの持つ異質な病原に免疫がなかったので、多くの人たちは命を失ったとも言われています。その為政者が、神格化した神と血脈が続いているという天皇を利用するための為政者の宗教が、現代に残る神道です。「神道は国民の道徳」というのが、国のスローガンでしたから、キリスト教徒でも、仏教徒でも、神道に従えとされてきたわけです。 一部の宗教団体のいうような、彼らの神の怒りというものは、それらの集団心理が起こさせる錯覚や、教祖や幹部の心理的なマインドコントロールなのかもしれません。悪いことが何かあると、それを「神」というものに結びつけて、論理的な思考を中断させ、人心掌握と信仰に結びつけてしまうわけです。また、結果からさかのぼって、自分につごうのよい、これは神の怒りだと言うわけです。日本の現代の仏教徒(もどき)がいう因果律も、自分たちの今の道徳観を、神秘論に結びつけただけのもので、何も仏教理論など知らない人たちです。そして、特に、今の自分の地位のヒエラルキー(階層的社会)を守り、道徳的な因果を宣伝するわけです。だからこそ、より明確な力を得たいがために、政治に関与したいわけでしょう。 天変地異は、私たちにとって、本当に神の怒りなのだろうか。もし、私たち人類が絶滅するものなら、それはあえて恭順するべきなのかもしれません。しかし、それで、霊がどうのとか言ったところで、それは、単なる気休めにしか過ぎません。一体、そこに何が残るのでしょうか? 私は、あえて習慣や伝統行事などを否定するものではないのですが、盲目的な「神の仕業」や「呪術」を否定します。自分たちに理解できないものを、すべて「神」に結びつけてはならないものです。それは、私たちの社会は、人が人によって作られた社会でなくてはならないわけで、それは、為政者が作り上げた「神」という名の元に翻弄されてきた時代とは違います。「聖なるもの・神性なるもの」と言う感情は、非常に権力者によって利用されやすい無垢で弱いものです。

hoopgirl
質問者

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Wendy02さんへ>ご解答ありがとうございます。 要するに神がどうのというよりもそれらを取り巻く人の念が問題だという事でしょうか。 また人知の及ばない問題を安直に神のせいにしてしまうと宗教を権力のツールにした人たちに 利用されちゃうよという事ですね。 神がこの世界を変えてくれるではなく変えるのは個人個人の力だという事ですね。 おっしゃるとうりだと思います。貴重なご意見ありがとうございます。 それぞれご自身のかっこたる意見を主張できる方が集まってくれてうれしく思います。 このテーマ案外深いので色々な思想の方の忌憚の無い意見を募集します。 よろしくお願いします。

回答No.3

hoopgirlさん、初めまして。風水を学んでいるmelted_cakeと申します。 地鎮祭についてですね。(^-^) 風水を学んでいる立場の者として、回答させていただきます。(風水一般ではなく、 今までの鑑定結果から回答させていただきますね。) hoopgirlさんは地鎮祭は土地の使用許可であり、許可を得なければ凶事を引き起こすと 考えておられるのですね。 私としては、地鎮祭とは地の氣を鎮め、安定させるイベントであり、その働きがあると 考えています。神様という概念を持ち出すことによって、一氣に抽象的で宗教学的で 答えの曖昧なものになってしまうからです。 地鎮祭をした土地と、しなかった土地。場所が違うのではっきりと具体的にここがこう 違う、というのは言えないですが、確かに氣の安定度合いが違いました。 もちろん地鎮祭をした方が、安定しましたよ。(^-^) (okチェックと氣の流れを見て、そう思いました。) また地鎮祭をしなかったために凶事が起こるというのは、地鎮祭をすることにより 防ぐ事が出来た、良くない氣の流れを受けてしまったと解釈しています。 (つまり地鎮祭をしなくても、元々悪い事は起きないと考えられます。地鎮祭が、悪い事を 防いでくれている、ということですね。) ここは専門家である、神主さんや僧侶さんの回答が聞きたいところですね。

hoopgirl
質問者

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meltedcakeさんへ>ご解答ありがとうございます。 なるほど地鎮祭は神さまに対してどうのこうのというよりは気の乱れを整えるアプローチだという 事ですね。 という事は非物質の何かに働きかけて気を変化させた訳ですね。 その何かは神としてしまうと問題が抽象化と神秘化してしまうという事ですね。 地鎮祭が錬金術的働きをする事はわかりましたが非物質ゆえに具体的にその空間で起こっている 事が分からないですし知りたいですね。 確かに専門家の意見を聞きたいです。

noname#110732
noname#110732
回答No.2

神道の神様について、江戸時代の国学者・本居宣長が『古事記伝』という書物の中で 「一般的な存在とはちょっと違った、何か優れたものを持ったもの、そんな畏れ多いもの」 ※現代文に訳してあります と定義しています。善し悪しではなく、ずば抜けたものをカミとしたのです。 日本の神様には愛情深い面と荒々しい面の両方が存在します。だから味方になれば頼もしいし、礼を欠けば祟りをもたらすのですね。 祟りを起こす力を持った(と信じられた)怨霊をお祀りして、逆に味方にするという方法もありますね。学問の神様で有名な菅原道真公も最初は怨霊と恐れられてお祀りされたのですよね。 また、日本の土地には必ず管轄する?土地神様がいらっしゃるそうです。お台場辺りの、埋め立てで新しく出来た土地では、どの神様が管轄するかをきちんと決めたそうです。誰がどうやって決めるのか、私も知りたいです*^_^* 日本神話の神様がたは、人間味溢れていて、私は好きです*^_^* 表現方法が失礼なのを承知でいうと、スサノオは乱暴者、それに嫌気のさしたアマテラスは引きこもりに…など。 (ギリシャ神話のゼウスも浮気者だったりして、読んでいて楽しいですよ) まぁ、神道によると、私達日本人はみな、八百万の神様のいずれかを祖先にもっているらしいので 人間味溢れる神様(ご先祖)は親しみやすくて、私は安心します*^_^* あくまで私個人の意見ですが。

hoopgirl
質問者

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nonameさんへ> 分かりやすいご解答ありがとうございます。 とてもすっきりしました。 ずば抜けた者をカミとしたのですね。 精霊のような存在もカミとしたのでしょう。それなら納得です。 ご解答を頂き自分でも色々調べましたが日本人は自然崇拝をしていたのですね。 地震や日照りが起こればカミが怒っていると判断しカミにささげものをした・・・・ シンクロでしょうか。急にタイタンの戦いがみたくなり(リバイバルではなく旧作です) ギリシャ神話の物語で人間臭い?理由でカミが洪水を起こしたりしておりました。 嫉妬やらねたみやらドロドロしてました。 神話と言うものはどこの国も共通している部分があるかもしれませんね。 このテーマは案外深い気がします。 聖書には天使は人間に鉄槌を下すものとして描かれていますが(どちらかといえば男性的なイメージ) 昨今のスピリチュアルブームでは天使は癒しをもたらすもの(どしらかといえば女性的なイメージ) で描かれています。 現代に関しては商業的な理由なのでしょうか?時代時代のマーケティングの問題? 天使が何千年?かで性格が変わる?のも変な感じです。 偏らず各方面の意見を更に募集します。

  • rurubonpp
  • ベストアンサー率26% (128/488)
回答No.1

土地にはその土地を守る神様がいるので、地鎮祭をするというのは礼儀として当然です。 会社の社長に挨拶するのと同じで「礼儀」なんです。 仏教の仏・菩薩ではないので、神様だって怒ります。神様が怒らないとか、神様のような方が怒るのは可笑しいというのは、人間側の勝手な言い分です。 事実、怒るのですから、諦めてください。

hoopgirl
質問者

補足

rurubonppさんへ> 早速のご解答ありがとうございます。そうですね人間同士でも目上の人に対する礼儀は大事です。 私がもし土地を買い家を建てる時は識のある神主にお願いしまた感謝をささげるつもりです。 ここで私の疑問は (1)神は少なくとも覚者であろうと思われる。 (2)通常認識できない。 の二点でしょう。 当然見えていれば誰も無視しませんよね(笑 人間側の都合からすれば認識できないのだからいないと同意義です。 ※実際にいるかどうかは別として しかし神は怒る訳です。それが「すごく人間くさく」感じてしまいます。しかも若干幼稚な気も。 見えないので足を踏んでしまったら何してんだコラ!みたいな。 しかし本当に神?なんでしょうか? 日本は八百万の神と言います。目に見えない存在がすべて神なんでしょうか? 日本では神とカテゴリーする 範囲が広範すぎるのでしょうか?この辺の知識はゼロなので詳しい方教えてください。 どっかのスピリチュアル系サイトに、れいは見返りを求めるが神は見返りを求めないと書かれていました。なんとなく分かるような気もします。 覚者である神が人間に危害を加える、その時点で神もカルマを負いそうな気もします。 よくあるスピ系の本には神すらもれい的進化の途上であると書かれています。

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