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イラクで殉職した外交官の車はどこに?
イラクで殉職した外交官の車はどこに? 「イラクで殺害された2人の外交官が乗っていた車は、日本の警察が捜査の証拠品として回収したそうですが、その後どうなったのでしょうか。平和記念博物館などをつくり、車の展示などはできないのでしょうか」=静岡県熱海市、山本淳一さん(62)
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■事件の風化防ぎたい 平成15年11月29日、イラクの復興支援を目指していた奥克彦参事官(事件後大使)=当時(45)=と井ノ上正盛三等書記官(事件後一等書記官)=当時(30)=は米軍主催の会議に出席するため、イラクの首都バグダッドから同国中部のティクリートへ向かう車中にいた。 異変が起きたのはティクリート近郊でのことだった。何者かによる激しい銃撃を受けた2人は、車の中でそれぞれ数発ずつ被弾、志半ばで命を落とした。事件から6年以上が経過した今も、2人の殉職を悼む声は多い。 「現代の日本に、命を投げ出してアラブの安定に奔走した若者がいた事実をお伝えしたい」。今回質問を送ってくれた山本さんは、チュニジアの日本大使館で医務官として勤務した妻に同行した際、同大使館に勤務していた井ノ上書記官と知り合い、家族ぐるみのつきあいをしていたという。 イラク赴任前、山本さんらから「危険だよ」と忠告を受け「だからこそ、できることをしたい」と決意を語った井ノ上書記官。山本さんは、2人が襲撃された際に乗っていた車を公開し、記念館などをつくることで「2人の殉職を風化させることなく、功績を後世に伝えていくことができるのでは」と考えたという。 2人が乗っていた車は外務省所有の四輪駆動車、トヨタ・ランドクルーザーだ。果たしてどのような運命をたどったのだろう。 事件後、車は一時現場に近い米軍施設で保管されたが、まもなく在バグダッド日本大使館に返還され、16年3月4日、貨物機で日本に移送。その後、警視庁によって検証が行われた。 警視庁の調べでは、車は36発の銃弾を受けており、このうち32発は車体左側のドアやガラスに集中。22発が車内にまで達し、1発は車体右側も抜けて車外へ貫通していた。井ノ上書記官が乗っていた助手席には血だまりの跡があり、分厚い防弾ガラスは多数の被弾によるひびで、霜に覆われたようだった。 ■関係者の意向は… 車が警視庁から外務省に返還されたのは同年6月14日。翌15日に同省の駐車場で報道陣に公開されたが、その後は山本さんには残念な結果が待っていた。 同省によると、車庫室で保管されていた車は、省内で「使用できない国有財産」として廃車の方向で検討。2人の遺族にも意向を問い合わせたが、保存の希望はなく、廃車に同意したことから、2人の三回忌を迎えた翌年の18年3月、廃車処分となったという。 山本さんに結果を伝えたところ、「ご遺族のお気持ちはよく理解できるし、優先されなければ」と述べた上で、「彼らが日本とイラクの架け橋となったことを伝える方法が、他にもあればいいのだが…」と複雑な気持ちを吐露した。 過去の事件事故、悲劇的な出来事を象徴する物は、全国各地でさまざまな形で保存されている。ただ、実現までに議論が起こるケースも少なくないようだ。 核兵器の悲惨さを今に伝える広島市の「原爆ドーム」もその一つだ。同市は「終戦後は『被爆の事実を目の当たりにするものなので、見たくない』『壊してほしい』という意見も多かった」と説明する。 しかし、市街地が復興し被爆建物が姿を消す中、自分たちの体験をどう伝えていくかという観点から徐々に保存の声が高まり、昭和41年に市議会が保存要望の決議を行い、その後全国から集まった募金で保存工事が行われたという。 一方、鳩山由紀夫首相が生活する公邸の正面玄関のガラス窓には小さな穴がある。これは二・二六事件(昭和11年)で青年将校が襲撃した際の?弾痕?で、当時の記憶を消さないよう残されているといううわさもあるが、どうだろう。 官邸関係者は「確かに弾痕だろうという話はある」と指摘した上で、「あくまでも口伝で、公式に二・二六事件のものとする記録は見あたらない」という。 ただ、「実用には特に支障もなく、歴史的なものかもしれないなどといわれていることもあり、歴史の足跡を消してしまうことは、なかなかできなかったのでは」とも。以前は官邸として使われていた現公邸。歴代の為政者は、何を思って?弾痕?の下をくぐり、日本のかじ取りを行ってきたのだろうか。(豊吉広英) ◇ 「社会部オンデマンド」の窓口は、MSN相談箱(http://questionbo?.jp.msn.com/)内に設けられた「産経新聞『社会部オンデマンド』」▽社会部Eメール news@san?ei.co.jp▽社会部FAX 03・3275・8750。