いつまで保守と革新の単純2分法で考えるのか?
わたしはむかしから、保守と革新、(あるいは、近いもので右翼と左翼)の二分法で考える人たちが圧倒的に多いことに、すごく違和感があります。
いつからか知りませんが、もう、ほんとに何十年も、馬鹿の一つ覚えみたいに、そういう分類をつねに持ち出して、そういう枠を通してしか考えられない人たちが圧倒的に多いことに、げんなりします。
本来、そんなラベルを貼らずとも、どんな思想であれ、個別の事案ごとに是々非々で考えればいいことなはずですよね。
なのに、それを、まず、保守的か革新的か、というような枠を当てはめて、保守的だから好きだとか嫌いだとか、そういうごく単純化した二分法の枠を通してしかものを考えられないのは、正直、頭が固いというか、馬鹿じゃないかと思うんですが、何でそういう言説に精神の貧困を見る人がほとんどいないんでしょうか?
もうほんとに、どれぐらい長い間、そういう二分法で、まったくおんなじ調子で、議論してます??
これと関連して、「革新」のほうはあんまり聞かないですが、「保守」って言う言葉には、政治家も、評論かも、すごくこだわりを持ってる人がとても多いですよね。これもとっても不思議です。
なぜといって、「保守」たって、何を保守するのか?伝統だっていうけれど、どこまでさかのぼったことを伝統というのかだって、みんな自分勝手に「これが本当の日本の伝統だ」なんて思い込もうとしてるだけの話で、じっさいは、自分の考え方に都合が悪いことは、もうある程度、日本の社会や文化に定着してる事だって、「いやそれは本当の伝統じゃない」とかっていう感じで、勝手に「保守」の範囲を決めてるだけに見えますし、実際のところ「保守」といったときにどこまでさかのぼった歴史観、伝統文化を対象とするのかっていうのは、ぜんぜん日本人の間でも共有理解があるわけではないですよね?だから本来、「保守」だ、って言っただけでは、その言葉からは、何を意味してるのはっきりぜんぜんわからないわけです。それなのに、何でこんなに自分勝手な解釈をしているにすぎない「保守」っていう言葉に執着するのか、意味がわかりません。
この、政治家、マスコミ、評論家、あらゆるところに蔓延している、馬鹿の一つ覚えのような保守と革新(や右翼と左翼)の二分法、自分勝手な定義に基づく「保守」への愛着、こうした単純化された枠をかたちづくる言葉に先行された議論に、なぜみんな辟易することがないんでしょうか?
そういう枠にいい加減飽きて、そのばかばかしさに気がついて、もう少し繊細な、あえて言えば「まじめな議論」がされるべきだと思うんですが。皆さんいかがお考えでしょうか?