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信仰の自由
信仰の自由が保障されているので、 有罪が決まってないうちから、 宗教団体を批判することは、 許されないことだと言う人がいるのですが。 そうなんでしょうか? 例えばオウム真理教等も、 有罪が決まってないうちから批判していた人達は、 今においても非難されるべきということでしょうか?
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私も#1の方と同意見です。 信仰の自由もあれば、信条・思想の自由もあれば、言論の自由も 保障されているんです。 誰がどんなアヤしい宗教を信仰しようとも、偏った考え方を持って いようとも、それについて批判したりコキ下ろすことも、全くの自由 なんです。 それらの行動によって当事者もしくは第三者が被害を こうむらない限りは。 ですから>有罪が決まってないうちから、 >宗教団体を批判することは、 >許されないことだと言う人…は、とんでもない反体制派の危険人物 だと言えるでしょう。この国に恐怖政治をもたらしたいのでしょうか。 どう見てもおかしい、間違っている、ということに対して批判を するのは、全くの自由であり基本的人権だと思われますが。
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- uchiagehanabi
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信教の自由は (1)信仰の自由(内心活動) (2)宗教的結社の自由(表現の自由の側面) (3)宗教的行為の自由(表現の自由の側面) に区別されます。 (1)は、内心活動(頭の中で考えているだけ)ですので 絶対的に保障され、非難することは許されません。 (2)(3)は、表現の自由の側面を持っているため 限度を超える(公共の福祉に反する)と非難や法律の制裁を受けます。 つまり、オウム真理教の行為自体を非難すること(表現の自由として)は限度を越さなければ許されると思います。 ただし、オウム真理教を信じているというだけの人を非難することは問題があると思います。
- Hiroki_myt
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別の質問でも触れましたが、信仰から導き出される 知識や道徳観を見て、それが利益をもたらすものか どうかを、「人道的な」面から見て判断する必要が あるのではないでしょうか。これは単純に法律で 裁けるとは限りません。 たしかに信仰は自由です。信仰や、それに伴う儀式 についてはそれぞれ尊重されるものです。しかし、 その信仰から導き出された知識や道徳観が、悪いもの であるなら、そして多くの人に不利益をもたらすよう なものであれば、批判されるでしょう。つまり、人道 的に見たら、不利益をもたらす=会社で例えれば背任 罪にあたる=ことはつまり悪いことです。それが理解 できて批判している人は、おそらく正しい考えを持って いることでしょう。 信仰は、利益(お金儲けだけではありません。一般に 良いものという意味です)をもたらすような知識や 道徳観を導き出しているのであれば、尊重されるべき です(信仰がなくても宗教は知識や教育などの形で 成り立っています)。 儀式は、単に信仰を示すだけではなく、人々に尊厳や 安堵感、平和をもたらす良いことです。しかし、それが 人を殺すようなことに使われたとしたら、それは決して 良いこととは言えません。犯罪の知識をもたらすような 信仰は、やはり犯罪の一助になってしまうと思います。 まとめると、正しく理解していれば、非難の対象には なりません。
信仰の自由があれば、言論の自由があり、それを批判する自由も当然に認められはずです。 まして、オウム真理教のばあいは、法をおかして、組織として犯罪を犯しているのですから、その組織が批判されるのは当然のことでしょう。 犯罪の自由はないのですから。
お礼
お答えありがとうございます。 >言論の自由があり、それを批判する自由も当然に認められはずです。 そうですね。 >オウム真理教のばあいは、法をおかして、組織として犯罪を犯しているのですから、 オウム真理教に関しては、 犯罪が立証されてない時にということです。
- ma_
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信仰の自由はだれにでもありますが、 だからといって、他者がそのことについて批評をすることも、事実に反さない限り、言論の自由なのです。
お礼
お答えありがとうございます。 そうですね、言論の自由がありますからね。
お礼
お答えありがとうございます。 >>宗教団体を批判することは、 >>許されないことだと言う人…は、 >とんでもない反体制派の危険人物だと言えるでしょう。 なるほど。 そんなことを言う人はまともではないということですね。