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鬱病について
- 鬱病についての疑問とは?
- 鬱病は精神論や気合で治るものではない
- 欝の正しい理解とは?
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私もNo.14さんに同意いたします。 重度の鬱病の方は疑いようがありませんが、物事が思いどおりにいかない(仕事が認められない、旦那が冷たくて子育てに虚しさを感じる、息子夫婦が同居をしてくれない)などの理由ですぐに鬱になったと言い出す人というのは確かにいます。 鬱の人にはがんばってと言ってはいけないとよく言いますが、そういう人達は、がんばり方を間違えてるだけだと思います。 だから安易に休めば治ると思っている…。 私に言わせれば、正しいやり方でもっとがんばれと言いたいですね。偽鬱病の人達は。 何度も書きますが、重度の鬱病の方にはあてはまらない論理です。
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- sfkawauso
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アメリカ精神医学会が発行しているDSM-IV-TRやWHO(世界保健機関)が発行しているICD-10ではっきり「気分障害」と規定されています。 どちらも患者の病気を分類し統計を作成するための医療関係者用のマニュアルです。両者とも和訳があるはず。これを知らない精神科医はいないはず。 「なにもしなくても(医者にかからなくても)半年で治る」との意見もあるようですが,少なくとも精神医学の世界では「障害(病気)」とみなされているようで。 インフルエンザを治すのは各個人の免疫機能で,風邪薬は症状を緩和するだけだけど,インフルエンザを病気と見なさい人はきっといないでしょう。
気合いで治れば医者も薬も不要だと思います。 病名も無ければ、それらの分野(精神科や心身症など身の異常となった後の内科など)の学びも不要。 精神鑑定士も不要。 鬱など有り得ない環境は必要。 鬱にならない身体機能が必要。勿論犯罪者と加害者の思考・実行は不要で事件も事故も無い。 気が合う事柄だけ与えられる人が全国民。的確であれば可能性大。 患者だと分かるならば違うなら近づき違う気を相手に入れなければ可能。 患者も病院の垣根外だと患者外の気の作用が多く働いていることは知識に入れて合わなくても合わせる労力を費やせるか否か無理はいずれ生じて結果は出るから断片的な判断だけの人を信じなければ、その間は気合でどうにかなると言える。 などは思ってました。
OK・gooでは、擬態うつの存在についての手がかりを知ろうと思っても、 うつのへの理解、本当のうつ病の人の心痛が返されるだけです。 それもまた擬態うつを育む温床なのです。
ひとくちにうつと言っても、ケースバイケースだとは思いますが、私の知っている一例でお答えします。あくまでいち体験談ですが、ご参考になればと思います。 ある種のうつは「脳」という内臓の病気です 脳内伝達物質の異常で、自分の意思に反して、不安や恐ろしい思いが頭の中で湧き出し続ける病気。 うつ病の人が気合がたりないと言うのは、例えば ●「心臓」に疾患がある人に100m走らせたら倒れた それを見て「心臓」が健康な人が 「俺は苦しくても10kg走った。100mで倒れるなんて気合が足りない」 と言っているのと同じではないでしょうか もし健康な脳の人が、うつ病が気合でなんとかなるかどうか試してみたいと思ったら、まずなんらかの薬などを使って「脳」の動きを正常では無くして、幻覚や幻聴が聞こえて、頭の中で壊れたラジオのように不安が湧き出し続ける状態にして、「本当に気合でなんとかなるか」どうかを確かめるしかないと思いますが、もちろんそんな恐ろしいことはすべきではないです。 だとしたら、病気の本当の辛さは、本人にしか分からないと思います。 また、生まれつき傷つきやすい遺伝子、というものもあるようです。 タコ部屋の件も 「薬で脳の動きが正常で無くなった人が、タコ部屋に入ったらどうなるか?」 で考えたら分かりやすいかと思います。 うつ病の人の気持ちが理解できないというのは、脳みそが健康で、「脳が思うように動かない」という苦しみを味わったことがない、とても恵まれたことだと思いますが、自分の想像ができない苦しみを「気合でなんとかなる」というのは、ちょっと違うかな?と思いました。 ※私が知っている例でお答えしているので、すべてのうつ病の方が同じ症状とは限らないです。
- cucumber-y
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#1プチ(笑)補足です。 私の場合。 ・一瞬にして右足を失いアスリートとしての夢も全て閉ざされ身体障害者となった。 ↓ オリンピック選手であるまいしそれほどのことか? 世の中もっと苦しい状況で耐えてる人はいくらでもいるぞ? これで凹んでたらただ悲劇的な自分に酔って怠けたいだけじゃないか? でした。 書くのに躊躇したうつ病の原因は・・・。 簡単に言えば惚れていた女性にフラれて、10年近く引きずりながら耐えていた部分が心の中で大きくなりすぎたと医師に診断されました。 人が壊れる瞬間は全く予想外のところから来ます。 意思でもなく、正しい専門知識を得ているわけでもない素人が「偽」や「真」を判断する昨今の風潮は他人に先ずは「猜疑心」を持って対峙し、疑いが有れば糾弾する魔女裁判と同様の、世間に多く居る「自分の考えはすべて正しい、それ以外は排除する」という思考に近いものを感じます。。 怖い国じびしいこy
日々、鬱の方々と接触している者から言わせて頂けば、日本の精神医学が遅れに遅れていることから、鬱状態、鬱症状、鬱病の区別ができない精神科医が殆どなのです。諸外国からは、日本の精神科は鬱病を作り出しているとまで批判がある程です。 正しい理解をしていないのは、dondon1179 さんだけではないのです。逆に、ただの鬱状態や他の病気の随伴症状としての鬱を、間違った投薬や治療法で鬱病という病気にさせられていることも多くあります。仕事ができなくさせられてしまうのです。そして、更に偏見を生む構図が出来上がっています。特に、日本の精神科は、投薬で保険点数を稼ぐしかないこともあって、不要な投薬をされてしまい鬱病になる。結果、仕事も休暇が長期休暇になり退職になり、薬物依存までに発展する貧しさです。 しかも、心理職(臨床心理士ではなく、きちんと教育を受けてDr. の称号を持っている)がいる精神科はゼロに近く、心療内科に至っては新しい科目でもあり、きちんと技術を習得している医師は、少なくとも私が知る範囲にはいません。 専門用語や病名が、理解(するにはそれ相応の時間が必要ですが)されないままに、曲解されたり混同されたまま世間で一人歩きしていて、セカンド・ダメージ、サードダメージを受けている鬱病の人達がいるのは事実ですから、偏見を持たない、偏見視しないことだけを知っていてくれるだけでいいのです。鬱状態も鬱症状も鬱病も、気合だけではどうにもなりせんから。
- tumaritou1
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私は素人ですが、14歳でノイローゼになり18年後にそのノイローゼを完治した経験があります。その経験から書いてみます。ノイローゼは自我意識がもう一人の自分の「心」と争っているという事実があります。言い方を変えたなら「心の矛盾」或いは「心の分裂」という云い方でも良いと思います。 その争っているもう一つの意識は元々自分自身に備わっている「自分を守っている、或いは自分を働かせている」という働きがあります。その意識は自我意識と毎日相談しながら普通の生活が成り立っていると思います。ですがその意識は自我意識には殆ど分からないように出来ています。 何故ならばその意識は「無意識を働かせているからです、そうして潜在意識として脳の中に存在しています」。自我意識と無意識の意識は常に相談しながらどちらが表になって「働くか」を決めています。その意識は人間の脳の中に生まれた時から備わっています。名前を付けるとしたら「命そのものの意思」或いは「命の源の意思」と言っても良いと思います。 今言った言葉が長いために「それ」という風に書きたいと思います。「それは」自我意識といつも一緒に働いています。何時も自我意識と同じものを見たり聞いたりしています。「それは」学ばなくとも全てを見通す力を持っています。 左脳にある自我意識は理論を積み上げて、論理を尽くさないと結論を出すことは出来ません。物事を詳細に論理的に検証しないとその答えを出すことはできません。自我意識には物事を割り切ってゆくという機能が備わっているという事になります。割り切ってゆく機能という事は「逆に言うならば」割り切れない問題には手も足も出ない。という意味になります。 右脳にある「それ」は生まれた時から全てが備わっています。教えられなくとも命の営みが出来るように作られています。例えて言うならば、アリが学校に行かなくても立派にアリの巣を作れるという事と同じです。ツバメなどにも昆虫などにも、或いは植物などにも当てはまります。春が来たら芽を出したり、花を咲かすということになります。 今言った事は「すでに備わっているものです」教えられなくとも分かっている者が」それらを支配していると言う事になります。脳細胞の中にすでに組み込まれているという事になります。 人間の脳は大きさも密度も昆虫や鳥たちよりは優っているように見えます。教えられなくとも全てを知っている「命を働かせている者」を内在させています。それが無意識を働かせています。そうして潜在意識の中に存在しています。 この事が分かり難いために、「心の病」というものが分かりにくくなっています。つまり鬱であれ、神経症であれ、精神疾患であれ、全ての心の現象は、今言った事が関係しています。広い意味では悩みも、自律神経失調症や、理由や原因が分からない難病などにも関係しているかも知れません。 それらをまとめて言うなら「心の矛盾」という事になります。今の精神医学会は「心の健康を」分かっていないと思っている者です。心の矛盾が心の混乱を招いていて、そこから全ての障害が始まっているという事になります。 人間の心は大きく分けるなら「肯定」と「否定」で出来ています。肯定する者が「それ」です。否定する者が自我意識です。鬱になったという時は、自我意識が「それ」の言う事を否定している時の事です。それは脳の機能がそうさせています。 自我意識は分別しかできない脳と言えるからです。機能的に割り切れない問題には歯が立たないように出来ているからです。割り切れる問題とは有限に属する問題の事です。割り切れない問題や矛盾した問題を自我意識で解こうとする事は機能的に不可能な問題です。 それが分かっている事から、「それ」と話が通じなくなってからは、全てを「否定的に」見てしまいます。心の矛盾とは自我意識と「それ」との心の矛盾という事になります。自分自身には二つの心があるという事です。その争いや意思疎通が心に混乱を起こしているという事になります。 この二つの意識が出会って、意思の疎通が解消した事を「悟りが開く」という風に言います。矛盾した心が矛盾したままに矛盾しなくなる、という事になります。言い方を変えたなら「神に会って和解が成立した」という云い方になってしまいます。自分の中の自分を働かせている者とホットラインが通じたという事になります。自我意識の計らいを捨てて自分の命の働きに身を任せる、という事です。 言い方を変えたなら「神の僕となる」或いは「神の御心のままに」という事になります。自分自身を知るという事は完全なるアイデンティティの確立という事になります。自分が何者か分かった。或いは人生とは何であるのかが分かった。或いは何処から来て何処へ行くのが分かった。という事になります。 心の矛盾とはその答えからの問いかけと言っても言い過ぎにはなりません。心を病んでしまうという事は自分自身の存在の根底からの問いかけが投げかけられているという云い方が出来るからです。
- kononakare
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こんにちは♪ 気合こもったギターを奏でる友人が。 気合こもった赤いモヒカンの友人が。 この3年間鬱病です・・・。 歯くいしばって生きてます。 正月は彼を招いて仲間と一緒に宅呑みします♪
こんにちは。 私も、うつ病は病気であり、かかってしまえばきちんと治療をしないと 本人の気合だけではどうにもならないものと考えています。 ただ、質問者様やほかの回答者様がおっしゃるように、 「偽うつ病」の蔓延が気になるところではあります。 うつ病の周知は、本当にそれで苦しんでいる方々にとっては、 多少なりとも朗報であると思います。 ですが、テレビや雑誌で聞きかじった知識を誤解して 「私の今の状態はきっとうつ病なんだわ」と勘違いしてしまう人を 増やす要因になっているのは確かでしょう。 それが回りに回って、本当にうつ病で苦しんでいる方々まで、 「やはり怠けだ」と思われてしまうのは皮肉なことですね。 ちょっと落ち込んだらうつ病、ちょっとやる気が出ないとうつ病… そう思い込んでいる(思いこもうとしている)人が多すぎるのかもしれません。 そもそも「うつ状態」と「うつ病」は違うものですが、 混同している人がたくさんいらっしゃるのでしょうね。 「気合いで何とかなる」と思うことが、より病状を促進することもあります。 「気合いで何とかなるはずなのに、何とかしなきゃいけないのに、 どうして私は自分をどうにもできないの? 私はそんなにダメ人間なんだ」 となってしまうのが、本来のうつ病ではないでしょうか。 質問者様の疑問も分かる気はします。 私も、自分自身がうつ病を患った経験はありませんから…。 自己中心的で奔放に生きてきた知人が「私、うつ病かも」と言ったとき、 つい「それだけ自由に生きてきたのに?」と言いそうになりました。 彼女が本当にうつ病かどうかは知りませんが(診断を受けていないので)、 本当である可能性もあるのに、です。 他人にとってはほんの些細なことでも、 本人にとっては病気になってしまうほど重大であることがあります。 それが人それぞれだから、経験のない人が理解するのは難しいのでしょう。 同時に、偽うつ病かどうかを見極めるのも至難の業です。 だから専門家が存在するのですし。 こうして、経験者の方々のご意見を聞き、 ともに考えられる場があるのは好ましいことと思います。
父が鬱病になりましたが、気合いや精神で治せるものじゃないと痛感しました。 癌がステージ2b~3あたりに進行してても(医者からは相当辛かったはずと言われました)、気合いというか、精神的な強さというか、とにかく手術で助かる限界ギリギリまで黙々と仕事を続けていた父が、鬱の一番ひどい時は全くの別人でした。 ただ、そういった、深刻な状態を家族で体験しているにもかかわらず、そして、私自身はパニック発作と不安障害を長年抱えているにもかかわらず、最近の世の中、鬱だなんだと言い過ぎ?と思っている一面もあるのです。 正直、そんなに鬱病が多いのかよ、それって鬱じゃないんじゃない?と思うこともあります。私は優しくないですね。でもそう思うことがあるのは事実です。 つまり、私は、「鬱病」自体は気合いや精神論で治せるとは思っていませんが、世の中の「鬱病」という人の幾人かは「プチ鬱」で、それは「鬱病」ではなく、まさに気合いと精神で改善されるものもあるのでは?という疑問は持っているということなんです。 現在は、鬱も良くなり、仕事もリタイヤし、癌も再発無く、有難いほど穏やかに過ごせている父は、鬱病だった頃の自分を振り返って話してくれたことがありました。 「あの時、自分は廃人みたいだった」 「気がついたら線路のそばに立っていて、飛び込んだら楽になるだろうなと思った」 癌の痛みや、抗がん剤の酷い副作用に何度も耐えた父がです。 私自身、「鬱病」の理解と再認識はもとより、日進月歩の医学からの理解が必要かもしれません。
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