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宮沢喜一

今日か昨日のニュースで今回の自民の総裁選出馬3人のうちの誰かが、小泉進二郎氏の尊敬する首相という質問に、宮沢元首相をあげていたのですが、自分は宮沢氏は自民独裁の54年の歴史に一度だけ穴をあけてしまった時の総裁のため、評価は低いものだと思ってました。 宮沢内閣の業績を教えてください。また、辞任したため、そこまでこれから嫌われつづけることもないでしょうが、麻生元総理の評価はマスコミのせいもあって後世の評価はそこまで高くならないだろうと僕は思っているのですが、宮沢氏はどのような評価を下されているのでしょうか?

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  • tyr134
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回答No.5

NO2です。 長文にお付き合い頂き恐縮です。 補足について回答してみますね。 >まず宮沢さんは吉田派で軍隊は米国に任せているのに、その宮沢さんがなぜPKOをOKしたのですか? これには、いろんな要因が重なってるので、かなり難し問題です。 一番の要因は、「湾岸戦争ショック」が与党政府内に響き渡った事だろうと思います。 「湾岸戦争」では、NATOを中心とした多国籍軍でイラクのクェート侵攻に制裁を加えました。 この時、日本は憲法第九条の縛りもあって、資金面で援助していました。 一説には、日本の資金援助がなかったら、イラク攻撃そのものが出来なかっただろうと言われています。 それほどの貢献をしたのに、英米を中心に「日本は平和を金で買った」などと非難される始末。(ただ、最近では日本側の被害妄想だったという指摘もあります。) こうした批判に対処するためには、どうにかして国際社会に「人的支援」を行わなくてはならないという機運が高まります。 その時に急浮上したのが、「PKO等」への人的支援参加でした。 二つめは、国連とPKO活動を取り巻く環境の変化です。 当時のPKOは、選挙監視などの文人支援が中心でした。 しかし、1989年12月の米ソ首脳会談での冷戦終結宣言が行われると、それまで東西冷戦の抑圧下にあった国家・民族などに米露の抑止が効かなくなり、アフリカや東欧、中近東などで紛争が相次ぐ事態になりました。 また、米露がそれまで否定的だった国連外交を活発化させ、PKOの軍事的支援への拡充が図られました。 そうした中で、PKO協力法が議論・成立しました。 三つ目は、日本のお家事情がありました。 例えば、宮沢内閣は当時のキングメーカー竹下登の傀儡政権の側面が強い政権です PKO法案は、海部政権時代の積み残し法案でした。 その海部氏も竹下登による指名総理でした。 また、改憲して軍を復活させたいタカ派と憲法を堅持して経済重視を貫くハト派、各派閥の後継争い、さらには与野党の駆け引きが繰り広げられていました。 法案も「自衛隊派遣案」と「自衛隊とは別働隊案(文民に限る)」の二つがありました。 紆余曲折を経て、結局前者に決まるのですが、「軍国主義に戻るのでは」という世論の軍事アレルギーもあって、拳銃位の軽武装で派兵となりました。 この過程で、どこまで宮澤氏の意向が働いているのかは、勉強不足で言及できず申し訳ありません。 ただ、先に示したように竹下自民党の中では、かなり制限されていたのではと思います。 >あと、宮沢さんの不良債権に公費注入がなぜ官僚、金融の人たちに反対されたのですか?また、小渕政権時にそれが出来るようになったのは、なぜですか? 不良債権問題の重要性を、少数の識者を覗いて誰も認識出来なかったのが要因です。 特に、銀行や証券会社などの金融業界と官僚が(公的資金注入によって国有化されるのをおそれて)こぞって抵抗した為に、実現できませんでした。 しかし、戦後初となる兵庫銀行の破綻に始まり、北海道拓殖銀行や日本債券信用銀行のような都市銀行や長期信用銀行まで破綻する事態にまでなり、小渕内閣に至ってようやく公的資金の注入を受け入れ、不良債権問題に決着をつけることとなりました。 >あと本題からかなりずれてしまい申し訳ないのですが、小沢氏らは、竹下派の橋本、小渕両氏らの派閥抗争に敗れて新党を作ったのですよね?なぜ、自民党に新しい派閥を作って派閥抗争で仕返しするのではなく、離党、政権交代を選んだのでしょうか? こちらもドロドロとした政争の世界ですね。 竹下派は、田中派の若手が田中角栄が自民党離党後も影響力を及ぼすのに反発して作られた派閥です。 その後、佐川急便事件が影響して竹下登と両雄をなしていた金丸信が党副総裁・竹下派会長・衆議院議員辞職をしたことで、後継者争いが勃発しました。 紆余曲折を経て小渕恵三氏が会長に就任しましたが、これを不服とした小沢一郎・羽田孜が反発して改革フォーラム21(羽田派)を結成独立しました。 そんなこんなしているうちに、野党が宮澤内閣に対して不信任案を提出。 羽田・小沢グループに属する議員が賛成や棄権に回った為に、可決成立しました。 宮澤内閣は、衆議院解散に打って出ました。 羽田・小沢グループは、当初、自民党離党の意志はなかったと言われています。 しかし、武村正義氏が離党し「新党さきがけ」を作ったのを期に、それに引っ張られる形で羽田・小沢グループも離党し「新政党」を作ります。 つまり、竹下派の後継争いに敗れ、やむなく離党という形になったのでしょう。 その後も、与野党を巻き込んでの新党ブームとなります。 総選挙で、汚職事件のショックも響いて自民党が過半数割れに陥り、8党連立の細川政権の誕生に至ります。 またまた、長文になってしまい申し訳ありません。 参考になれば幸いです。

その他の回答 (4)

  • mat983
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回答No.4

宮沢さんは総理になっていますが、穴をあけたといえば河野洋平元自民党総裁です。 河野さんは自民党総裁になりながら総理になれなかった不運な人です。 宮沢さんは英語力に優れ、敗戦直後の厳しい時代を大蔵官僚として重用されました。 政治力は強くはなかったですが、総理辞任後に小渕内閣で大蔵大臣に請われています。総理を辞めた人が大臣になることは前代未聞で、それだけ経済に明るく、アメリカとの交渉には信頼が置ける人物だったのです。

  • nourider
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回答No.3

英語が堪能というだけで「カッコいい!!」とはしゃぐ上祐ギャルのようなものではないかと理解していいのではないでしょうか?

  • tyr134
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回答No.2

宮澤喜一氏は、政治的スタンスは「保守本流」であると位置づられていると思います。 戦後に政界再編があったときに、日本の政党は大きく二つにまとまる方向に進みます。 まず最初に、社会民主主義を掲げる「革新派(左派)」が「日本社会党」として(とりあえず)まとまりました。 それに脅威を覚えた「保守派(右派)」は、合同で「自由民主党」を作ります。 その後、55年体制が崩れるまで自民党が政権の座につき続けました。 しかし、この合同において党内には今で言う「派閥」ができあがりました。 そして、吉田茂が率いた「旧・自由党系」の流れを汲む、まぁいまのマスコミ風に言うと吉田チルドレンを「保守本流」とし、他の派閥は亜流というか非吉田茂系統という風に位置づけられました。 宮澤喜一氏は、この吉田派の流れをくむ人物です。 特に、池田勇人氏とは切っても切り離せないくらい関わりが深い人物です。 池田勇人氏は「所得倍増計画」を打ち出し、高度経済成長に最も貢献した政治家の一人と評価されています。 吉田茂及び池田勇人の具体的な戦後政策としては、日米安保を基軸とした軽武装、経済成長主義といわれる方向性を打ち出しました。 言い方を変えれば、「軍事部門は米兵に守ってもらって、その間に戦後経済を復興させる」という感じです。 これによって60年安保闘争や水俣病などの公害問題など負の部分もありましたが、結果として高度経済成長をもたらしました。 宮澤氏は、その流れを引き継ぎつつ、早くから次世代のニューリーダーの一人として目されてきました。 ただ、政府内閣には起用せれるものの、党内抗争の荒波もあってなかなか首相の地位まではたどり着けませんでした。 初入閣は62年の第2次池田再改造内閣の経済企画庁長官です。 その後、通産相、外相、官房長官、党総務会長などを歴任しました。 その間に、1985年になされたプラザ合意後の円高を止めるために奔走したり、竹下内閣で消費税導入に尽力したりしと、日本政治に(良かれ悪しかれ)貢献しました。 1991年(平成3年)に72歳にして内閣総理大臣に就任し、宮沢内閣が成立ました。 この内閣において、PKO協力法を成立させ、初めて自衛隊が海外にて活動するための道を開きました。 この法案は、国内では「軍国主義の再来」のような目で見られたことや、派遣中に自衛隊と同時に派遣された警察官が殺害されたりして、余りよいイメージではありませんでしたた。 その時に「PKO要員に死者がでるのは仕方ない」というような発言をして、ますます火に油を注ぐ形になりました。 また、就任中に起こったバブル崩壊による不景気となったりしたのもマイナスイメージの要因になったのだと思われます。 しかし、「不良債権に対する公費注入」を唱えていたところをみると、先見の明があったといえます。(結局、官僚や金融・経済界の反対にあって小渕内閣まで実現できませんでしたけど) また、就任前の1988年に起きた「リクルート事件」や、在任中に自民党副総裁金丸信氏が絡む「東京佐川急便事件」が起ったりと、いくつかの大きな汚職事件が起こったりしました。 それをうけて、選挙制度変更を含む政治改革を政権公約とします。 しかし、与野党それぞれがそれぞれに有利な選挙制度を主張したため、まとまることが無く、不信任案可決によって解散。 それに続いて、小沢氏の離党に象徴される「自民党分裂」と「小党乱立」が起こり、その直後の総選挙で自民党は票を失い、細川政権の誕生と55年体制の崩壊となります。 その後、小渕内閣で大蔵大臣に抜擢され、アジアをおそった「未曾有のアジア通貨危機」に対して「宮沢イニシアチブ」を打ち出し、1,000億円以上に及ぶ経済支援を行ったりしました。 これによって、タイを初めとした国々を金融危機から救い出しました。 また、金融再生関連法・金融健全化法を成立させ、金融機関の不良債権に公的資金注入を行うなど、積極財政を行いました。 それにより、バブル崩壊後の停滞状況から日本経済が立ち直る切っ掛けを作りました。 しかし、それは同時に日本の「赤字国債」の発行の増大にもつながりました。 その後、小泉首相の「定年退職制度」によって政界を去ることとなります。 そして、2007年6月28日に亡くなるまで、ご意見番として政界の外から日本の政治に身を捧げました。 以上が宮澤喜一氏の大まかな経歴ですかね。 評価としては、好悪が別れる政治家の一人でもありますね。 好意的評価では、 ・正当な保守本流であり金融・経済政策に明るい国際派政治家 ・戦後政治家の中で抜群の知性の持ち主 といった感じかと思います。 否定的評価では、 ・実行を約束した政治改革をなし得なかった能なし首相 ・自衛隊の海外派兵に道を開き、憲法第九条を踏みにじった首相 という感じになりますかね。 個人的には、前者の立場に立ちますね。 党内抗争に負けたために首相就任が遅れ、結果日本の金融立て直しが遅れたのだろうと思ったりしています。 まぁ、歴史的評価というのは、その時代その時代によって変わるので、絶対的に正しい評価などはあり得ませんけど。 そういった意味では、麻生元総理が高く評価される時がくるかもしれませんし、逆に歴史の海に飲み込まれ日本の歴代首相の一人としてしか名前が残らないかもしれません。(まぁ、政権交代という大変革に絡んでる首相なんで、そういった意味では名前が残る可能性が高いと個人的にはを思いますけど) ではでは、長文で失礼しました。 参考になれば幸いです。

1ga4tsu
質問者

補足

とても長い文章ありがとうございます。勉強になりました。 ただ、少し読んでて疑問に思ったことがあるので、もしよろしければ、またお答えいただだけるとありがたいです。 まず宮沢さんは吉田派で軍隊は米国に任せているのに、その宮沢さんがなぜPKOをOKしたのですか? あと、宮沢さんの不良債権に公費注入がなぜ官僚、金融の人たちに反対されたのですか?また、小渕政権時にそれが出来るようになったのは、なぜですか? あと本題からかなりずれてしまい申し訳ないのですが、小沢氏らは、竹下派の橋本、小渕両氏らの派閥抗争に敗れて新党を作ったのですよね?なぜ、自民党に新しい派閥を作って派閥抗争で仕返しするのではなく、離党、政権交代を選んだのでしょうか? 何度も質問すいません。余裕があったらご回答お願いします

回答No.1

詳細なことはわからないのですが、前回自民党が野党になった際、細川政権が誕生しました。 その際、宮沢氏から引継ぎが行われたわけですが、通常官僚が知っている範囲で行われる内容以外に、宮沢氏のみ知る情報も受け継がれたといいます。 その際の政権では、宮沢氏はすばらしい政治家だ、との評価をされていました。 今回の鳩山首相のように、native Englishで対等に海外首脳と会話のできる和少ない首相でもありました。

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