・自ら、切腹をマニフェストに入れる人はいないのでしょうか?
中野正剛
1886年(明治19年)2月12日 - 1943年(昭和18年)10月27日)は昭和期のジャーナリスト、右翼団体東方会総裁、衆議院議員。号は耕堂。
東條英機首相が独裁色を強めるとこれに反発。1942年(昭和17年)に大政翼賛会を権力強化に反対するために脱会している。同年の翼賛選挙に際しても、自ら非推薦候補を選び、東条首相に反抗した。東方会は候補者46人中、中野のほか、本領信治郎(早大教授)、三田村武夫たち7人だけであった。それでも翼賛政治会に入ることを頑強に拒み、最終的には星野直樹の説得でようやく政治会に入ることを了承した。
そして、同年11月10日、早稲田大学大隈講堂において、「天下一人を以て興る」という演題で2時間半にわたり東條を弾劾する大演説を行った。
諸君は、由緒あり、歴史ある早稲田の大学生である。便乗はよしなさい。歴史の動向と取り組みなさい。天下一人を以て興る。諸君みな一人を以て興ろうではないか。日本は革新せられなければならぬ。日本の巨船は怒涛の中にただよっている。便乗主義者を満載していては危険である。諸君は自己に目覚めよ。天下一人を以て興れ、これが私の親愛なる同学諸君に切望する所である。
この正剛の呼びかけに、学生たちは起立して校歌「都の西北」を合唱してこたえた。当時、早稲田大学第一高等学院の学生であった竹下登は、この演説を聴いて感動し政治家の道を志している。
中野の反東條の動きは止まず、1943年(昭和18年)正月、朝日新聞紙上に「戦時宰相論」を発表し、名指しこそしなかったものの、「難局日本の名宰相は、絶対強くなければならぬ」と東条内閣を痛烈に批判した。この記事の内容に東條は激怒し、朝日新聞に対して記事の差し止めを命じた。
同年3月、第81帝国議会で戦時刑事特別法の審査をめぐって、6月、第82帝国議会で企業整備法案審議をめぐりそれぞれ政府原案に反対した。
さらに近衛文麿や東久邇宮稔彦王を中心とする宮中グループや重臣達を動かして、松前重義と共に東條内閣の打倒に動く(松前はこのため報復の懲罰召集を受けた。時に松前43歳)。これは、東條を退陣させて宇垣一成か東郷茂徳を後任首相に立てようとしたと言われている。
逮捕と自殺 1943年9月6日、三田村武夫が警視庁に逮捕。東京憲兵隊は10月26日午前6時に中野をはじめとする東方同志会(東方会が改称)他3団体の幹部百数十名を検挙した。中野の逮捕は、中野が倒閣工作を謀った事と、ある青年に「日本は負ける」と話したという噂が名目上の理由であったが、憲兵隊によって、中野は自白させられ、議会欠席を約束させられた上で、25日釈放された。
そして同年10月27日自宅1階の書斎で割腹自決、隣室には見張りの憲兵2名が休んでいた。自決の理由は不明(一説には、徴兵されていた息子の「安全」との交換条件だったとも言われている)。自刃する前に中野はムッソリーニやヒトラーからもらった額を飾っていたが、それをはずし、机上に楠木正成の像と『大西郷伝』を置いたと伝えられている。自決の数時間前、四男泰雄に「千里の目を窮めんと欲し更に上る一層の楼」と色紙に書き、憲兵の目の前で渡している。遺書には「俺は日本を見ながら成仏する。悲しんでくださるな」と書き残されていた。
お礼
日本に、こんな立派な政治家がいたんですね。教えて頂きましてありがとうございます。