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論理的思考
be realistic.on second thought.logical chice.と、論理的になれといったようなことをいう人が多いんですが、物事を慣習的に考える、漠然と考える。たとえば 失礼の無いように などといわれたりします。非情に漠然とした考えですが、論理的思考だけで走るとこういった部分はそがれていきます。それはちょっとほうこうがずれているんじゃないかと、第一いまどき論理的思考というのはもう時代のトレンドからは外れています(右脳の力がもてはやされるなど)、で、その論理面以外の部分を強調すると出てくるのが、非論理的な説教です。非論理的な説教を受けた人は、論理を執拗に愛するようになるかもしれません 非情に論理というのは強い、なくなった非論理的な部分は元に戻すのは難しい。ひとつここで提起することができるとすれば、人のことにけちつけるのはよくないということです。と、これも、少しは人に文句をいっていることになるかもしれないわけで、全体に非常に強い悪循環が潜んでいます。多くの人がこういったことを目にしているんと思うんですが、何か意見はありませんか?
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はじめまして。 論理的の対極にある非論理的な説教とは具体的にはどのようなものなのでしょうか。 論理をいたずらに問題視しても、言葉遊び(揚足の取り合いなど)になるだけで、埒があかないように思います。 『人のことにけちをつけるのは良くない』も『一つのけち』とみなし、言ってることと矛盾してるじゃないかと嘆いてみたところで、屁理屈ととられるのがオチでしょうし(実際そう思います)、もちろん思考力を養う上ではそういった疑問視する目も、頭の体操的感覚で必要ですが、日常の会話ではまず必要がないでしょう。 論理的な思考とは、相手と正しく意思疎通すること、自分の思考の過程をさらけ出すこと、つまりあくまで良質なコミュニケーションの一つの手段であって、論理を追求することそれ自体が目的ではないはずです。もしそうなったら、本末転倒ですよね。 以上、全然的外れな回答でしたら申し訳ないです。
論理的であっても答えは、間違っているかもしれません。非論理的でも正しい結論かもしれません。 人と人の関わりでは、論理的かどうかよりも、理にかなっているかどうか、が問われると思います。論理的で理不尽な事が最も嫌われます。論理的で理にかなっていれば、納得できます。そんな風な意見であります。
お礼
理にかなっているかどうか これもやっぱりはっきり規定することではないんでしょうね。