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人間は聖人君子になれないでしょうか?
30代男性で既婚、会社員をしています この前仲のいい同僚がミスをして落ち込んでいたのですが 口では「俺も同じミスしたことあるよ 気にするな」と言いながら 頭の中では(ざま~見ろ ニッタ~~)と思ってしまいます また先日子供の同級生のママさんたちと話す機会があったのですが 口では「勉強も大事ですが子供にはのびのびと育って欲しいですね」と言いながら 頭の中では(このママいい身体してるな~触りたい!) (こんなママと○○したい!)と思うどうしようもない男です こんな自分が嫌で仕方ありません でも30歳を超えてもう無理でしょうか?
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>それと同じだことだと思います。→× それと同じことだと思います。→○ 訂正してお詫び致します。失礼しました。 聖人君子に「近づきたい」と。~それなら良いと思います。 しかし、端的に「どうして聖人君子になれないのだろう?」と悩むのは、 それは、現実のありのままの自分を受け入れていない、ということだと思います。 人の不幸を喜んでしまう自分。やや不適切な場面で性的欲望を感じてしまう自分。 しかしそれが「今この瞬間の、現実のありのままの自分」なのです。 現実のありのままの自分を受け入れることができないから、自己嫌悪に陥ると。 勿論誰にでも常に、反省すべき課題はあるものです。理想に近づこうとする心があるものです。 しかし本質的なところでは、自分を受け入れている。 良いところも悪いところもあるが、全体として自分で自分を受け入れている。 どうしてありのままの自分を受け入れられず、自己嫌悪に陥るのか? 貴方の場合は、理想が高過ぎるのだと思います。 非現実的なまでに、理想が高い。間違った完全主義です。 聖人君子たる非現実的な理想を求めてしまう。~自分に厳し過ぎるのではないですか。 70点が100点なのです。 自分の能力や条件の中で精一杯やって70点だった。それが本当は100点です。 100点という理想を捨てろとは申しません。しかし70点を取った充足感というものがある。 その充足感を感じることができないのは、失礼ながら、きっとまだまだ甘いのだと思います。 もうダメだ、限界だ。これ以上はできん。だから納得した、と。 そういう体験を何度もすれば、そんな充足感が得られるはずなのです。 すると、70点でも100点と思えるはずです。「自分なりに精一杯やったから、それでいい」。 聖人君子になれない、と自己嫌悪に陥るより、 聖人君子を目指している今の自分、発展途上の今この瞬間の自分に 「納得」して生きることができるように、 ご自分なりに精一杯、聖人君子を目指してみては如何ですか。
お礼
ありがとうございました