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エホバの証人

エホバに対し質問です いろいろな新興宗教があり、もし日本国民とするならば 日本国憲法の宗教の自由から鰯の頭を信仰しようが全く自由であります しかしながら、その鰯の頭を単なる鰯としか見れない人は必ず居るはずで 品位ある人としての配慮や尊重も人間社会人として必要です 人の道を外さない程度に ご自分の信仰以外の他の人に対し配慮や協調性はお持ちなのでしょうか? たとえばご自分が信仰上仏像を崇拝できないとした場合 全て有無を言わさず 廃棄したり 無視するのではなく 先祖からの日本古来の信仰心に対し 自分以外の人を許容し 尊重しあうことは無理なのですか? 輸血をしないから始まり 墓や仏像は捨てる これでは年老いた先祖を古来からのやり方で 普通に手を合わす多くの者たちの心を無視しすぎです 世の中絶対という言葉はありません 人間なら必ず過ちを犯す可能性があります その信仰にマインドコントロールされていないと言い切れる 絶対は無いでしょう ご自分の信仰をしつつ、 そうでない人の心も尊重し配慮する心の余裕 それが信仰をする人としての最低限の条件だとおもいますが ご自分の信仰が全て正しくその他は間違いやデビルだとお考えでしょうか?

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noname#259625
noname#259625
回答No.8

   この問題は言わば「小さな宗教戦争」ということができますね。そもそも宗教戦争とはお互いが(あるいは一方が)自分の信念や理想を他者に押し付けようとした時に起こるものなのだと思います。そうであれば、解決策はやはりお互いに相手の信仰の自由を尊重するということになるのではないでしょうか。他者の信仰の自由を尊重することはその信仰に同意や参加するのとは全く異なり、単に他者の正当な権利を認めているに過ぎません。    もし、ご親戚のエホバの証人の方が親族で共有していた仏壇などを無断で処分したというのであれば、質問者のgabriellさんのお怒りも理解できます。彼らはもっと他のご親族の方々の信仰や感情に配慮を払ってしかるべきだったでしょう。    しかし、「お前はこうすべきだ、こうすべきでない」という論理では「小さな宗教戦争」はきっとなくなることはありません。「(あなたの行為が)私にこうこう影響(物的損害、悲しみ、その他迷惑など)を及ぼした」という論点で話し合うことは不可能でしょうか。前者では、相手の信仰の自由に割り込もうとしているととられて反発を買うに違いありません。しかし、後者は自分の正当な権利が侵害されたという正当な訴えです。    ただ、何が自分の権利がを正しく認識する必要があります。例えば、親が自分の成人した息子に同じ宗教をしてほしいと願っていても、最終的にどうするかはその息子が決めることになるでしょう。その息子が親とは別の宗教を選んだ場合、確かに親はとてもつらい思いをするかもしれませんが、それでも息子は親の正当な権利を侵害したとは言えません。ここが割り切りがたい、難しいところなのですが・・・。これは宗教に限らず、就職先や結婚相手などを選ぶ時にも言えることです。もちろん、息子の方も親の意向を全く無視してよいわけでなく、最大限親の意向や感情を考慮に入れて決定を下すのが人の道でしょう。それでも、時として親の願いとは違った決定を選択せざるを得ない場合も確かにあるものです。    自分にももちろんですが、そうであれば当然相手にも信仰の自由という正当な権利があるという事実を互いが認めなければ話は前進しません。それで、論争点は「相手が何を信じているか、それを否定する」とかではないはずです。何を信じるかはその人の自由なはずで、そこに議論の余地はないからです。しかし、相手の行為によって自分がどんな損失を被ったか、どんな感情を抱いたかを上手に伝えることはできると思います。    参考までに、私の事例を挙げましょう。私がまだ十代後半の頃、ある宗教の勉強会に参加するようになった時、一緒に暮らしていた祖父母が反対したことがありました。いろいろ話し合っているうちに、祖父母はその宗教そのものに反対しているのではなく、実はその勉強会によって私の帰宅が遅くなったのをとても心配していただけだということが分かってきました。私は祖父母が眠ってから帰宅していたので、私がいつ帰ったのか分からず、心配で眠れないこともあったようです。それが理解できてからは必ず帰ってきたらたとえ眠っていても小さな声で「ただいま」と声をかけることにしました。祖父の場合、必ず豆電球を一つつけていたので、私が帰宅した時、その豆電球をカチッと消して無言で自室に入ったものです。そうすれば、祖父は私が無事帰ったことが分かるからです。その他、外出する時には必ず行き先と帰る時間を伝え、また予定が変わって帰宅が遅くなる時には必ず電話を入れました。そのようにした時、祖父母はその宗教に反対することなく、むしろ私に協力することさえしてくれるようになりました。すでに祖父母は亡くなりましたが、今では私の懐かしい思い出です。「私がどこに行き、何をして、いつ帰るかなどは全く私が決めることだ」と自分の権利を主張できなくもありませんでしたが、私は祖父母が好きでしたので、彼らの心痛を理解した時、それに何とか応えたいと思ったのです。    ですから、信仰を曲げることなく、信仰を異にした家族や親族に配慮を示すことは全く可能であると思います。むしろ、それこそが宗教の真骨頂ではないでしょうか。「汝の敵を愛せよ」とは確かキリストの言葉だったと思いますが・・・。エホバの証人の方々は大変まじめに聖書の言葉をとらえていると聞いています。とはいえ、双方の努力が必要です。ですから、gabriellさんも感情に任せて最重要な論点を見誤ることがないようお気をつけください。(経験者は語る・・・私も過去に失敗したことがありますので。) そうすれば、たとえ、相手がエホバの証人の方であっても和解は十分可能だと思います。元々血のつながった親戚どうしなのですし・・・。私の所見では、大抵のエホバの証人の方々は温厚で健全なようですが、彼らは自分たちの信仰が否定・攻撃されることを「迫害」とみなすことがあります。そのような「迫害者」はサタンに操られているとみなし、たとえ親族であっても縁を切るぐらいの強い信念を持っているかもしれません。ですから、彼らの信仰を攻撃することは極力控え、ご親戚としてどれほど心配しているか、あるいは迷惑を被ったかという点を上手に伝えてください。面と向かうと感情がこもるので、最初は手紙の方がいいのかもしれません。「小さな宗教戦争」がなくなることを希望します。

  • 19620301
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回答No.7

いろんな宗教があり、道を求める人々を立派に思います。 ダラダラ人生過ごすよりも。 けど彼らは唯一の神を信仰してます。 そこは譲れません。 真の神がドレかを探ってみましょう。

回答No.6

この質問者様はかなり偏っていますね。 エホバを支持する気持ちは”さらさらありません”し、大嫌いです。 先祖を敬う気持ちも理解できます。 ただ、墓の設置や崇拝行為を押し付ける時点で、宗教的な押し付けになっていますよ。 宗教という物、そのものについて理解が浅すぎます。 宗教にはそれぞれに「神」の存在があり、そもそも排他的です。 たとえば、あなたが毎日アラーの神に祈らない事について、何にも感じないと思いますが、 経験なイスラム教徒にとって、あなたの行動には理解できない、最悪な人間だと感じる人もいると思います。 「先祖に手を合わせない」と「アラーに毎日祈らない」は宗教的に同等だと思いますが。 「たまにアラーに祈る」は敬虔なイスラム教徒にとっては「無し」ですよね。 また、他人の心情を尊重・配慮する事と、宗教的な行為は別次元です。 完全に勘違いされています。 それでは、イスラム教徒がキリストに祈らない行為を心の余裕が無いとおっしゃるのでしょうか。 そもそも「信仰」が一つと考えている事も間違っています。 信仰とは、イスラム教への信仰、キリスト教への信仰、仏教への信仰、それぞれ全くの別物で、キリスト教への信仰があるからと言って、仏教への信仰があるだろう、と言うのは乱暴そのものです。 自分の宗教を変えたから、以前の宗教に由来する物(仏教の場合は墓や仏像)を捨てる。 それは、どの国の人でも行っている「改宗」と言う行為です。 心の余裕云々の問題ではありません。 イスラム教徒が十字架を捨てる行為についてどう感じますか? 私は普通だと思います。 十字架を首からぶら下げてアラーに祈っている姿の方が理解できません。 自分の信じていない宗教に対して、理解できない教義があっても全く不思議ではありません。 その昔、神に対して自分の子供の命を捧げる様な宗教だってあったのですよ。(確か南米だったかと) それに比べれば、仏壇や仏像を捨てるなんてかわいい事だと思いますね。 価値観ともおっしゃいますが、宗教によっては互いの宗教の価値観を理解するなんて不可能ですよ。 イスラム教徒はキリストの神格化について絶対に認めません。 キリスト教徒とイスラム教徒がお互いに自分たちの価値観を言いあったところで、永遠に平行線です。 以上の事は、文面通りエホバに限ったことではありませんね。 非難するなら、ご自分の信じている宗教を除く、気に入らない全ての宗教を非難すべきだと思います。 ガリレオの例を挙げられていますが、「宗教はそもそも間違いありき」で出発してしまうのも極論とも取れます。 真面目に宗教やっている人たちに大変失礼です。 ご自分の考えに同調してくれる人を求めて安心しても、それは宗教という物に対する理解については全く進歩していません。 宗教や信仰に対する考え方を改める事をお勧めします。 私個人的には、極端な信仰で個人の財産を巻き上げる、某・創○学会の方がよっぽど酷いと思いますね。 金が無くなったら、気持ちや心情で泣くどころか、今を生きていく上で泣いてしまいます。 私は線香をあげるあげない云々より、こちらの方がよっぽど腹が立ちますね。

noname#133729
noname#133729
回答No.5

NO4です。 前回の回答で、少し言葉が過ぎた面も有るかも知れません。 誤字だらけだし。  ただ 言い忘れたのは 信仰する宗教はどうあれ、  先祖を崇拝する事を忘れてはなりません。  先祖を崇拝する事を蔑ろにして、宗教がどうこう はないでしょう。  私の場合、春、秋の彼岸 、 盆 、 正月  いずれも墓参りは欠かさずしています。  近くの為 可能なのですが、年1回は行くべき と思います。  先祖を重んじる事 無くして 信仰無し  と、私は思います。

gabriell
質問者

補足

解答ありがとうございます  「先祖を重んじる事 無くして 信仰無し と、私は思います。」 私もそのとおりだと思います。 実は、投稿も忘れていたころ運営のうほうから投稿を削除した連絡メールが入りました. 何を削除したか全く不明ですが、誤解の無い様一筆させて頂きます。 宗教を信じるのは日本国民である以上自由です。また、いかなる信仰に対し 意向があるものではございません。 親戚が当該宗教に傾倒し、無断で仏壇全てを破棄されてしまいました。 全くそれを抵抗せず好きにさせていますが、その宗教の振る舞いに疑問があり投稿しました。 デビルという言葉はそのエホバの信仰者の子供が私の葬式に来たとき祭壇を見て デビルの家か?といったのでデビルの言葉を引用しました。 彼らは今後エホバでやっていくと豪語されています。 こちらはどうぞご自由にしてくださいという姿勢です。しかし、今身内の多くの年寄りたちが その行為に泣いています。だといってエホバに対し拘わりを持つ気も有りませんが少々 エホバの行為の中で、人として本当にそれで良いのか?という行為が多々あり質問に至ったということです。 かのガリレオガリレイに対し、数百年経ってローマ法王庁が謝罪したように  (これは事実です) 人の価値観に絶対はありえないのは真理だと感じます。 あえて、エホバにものを言う気もないし、彼らに価値観の絶対を言って欲しくない。 信仰を貫く前に、他人への尊重も少しするのが人として当然ですね。 全くご意見いただいた皆様が言うとおりのことだと思います。 皆様のご意見で気持ちが楽になりました。 以上、補足とお礼にさせていただきます。

noname#133729
noname#133729
回答No.4

エホバとは そもそも ラテン語で神を意味するものであったと思いますが、その名を借りた エホバの証人 はその名を利用した 愚教だと認識しています。  私の実の父は私が幼い頃に母と離婚し、エホバの証人の女性と再婚しました。 私の長男が産まれて間もなく 父は 心臓疾患で他界しました。 聞くところによると 父は特にエホバの証人には 特に賛成ではなかったみたいですが、父の後妻の葬儀時の言葉によると、父は最後まで、エホバの証人 を信仰に間違いなかった と 後妻が言っていたみたいです。 私に言わせれば 死人口なし を利用した 全くの愚教です。 しかも エホバの証人 の教えは、墓も無く、尚かつ 父の事は一日も早く忘れたいそうです。  確かに 私は母を苦労させた挙げ句 他界した父は嫌いです。  しかし、この 神の名を借りた愚教には呆れるというか、  怒りさえ感じます。  墓も必要ないらしいですよ。  創設者はまともじゃない 信者は毒に洗脳されている・・・  ご先祖や身内の死者をまともに ともらわず、自分のところを信仰しなさい という教え。  神の愚弄にも程があります。 自分の先祖を蔑ろにして何が信仰ですか。 神の名を借りた 悪質な愚教 極まりないですよ。  私の父は エホバの証人に利用された 犠牲者です。  心境宗教にも色々ありますが、エホバの証人 だけは真の神を冒涜する 愚教です。

noname#90993
noname#90993
回答No.3

>自分が信仰上仏像を崇拝できないとした場合 全て有無を言わさず 廃棄したり 無視するのではなく 先祖からの日本古来の信仰心に対し 自分以外の人を許容し 尊重しあうことは無理なのですか? 私の親族は(私はその宗教はやってない)それを叶えていますが? 先祖は仏教徒で某お寺さんの檀家です たまたまお墓は持っていませんでしたがお骨を預けてあります エホバの証人になったファミリーは年に1度そのお寺さんに行き 納骨料その他を支払い、お経を上げていただきます お坊さんの理解があり、お焼香とかはしません。 お坊さんでさえも「お金がどうこういう仏教よりエホバの証人の方が 道理は通っている」と言っておりますが。 (過去に創価学会ともめたお寺さんなので身にしみているのでしょうね) 他の宗教の方の冠婚葬祭でも同様です。 ただし宗教上の・・・を頭ごなしに認めない方には呼ばれませんし それまでのお付き合いなのだと思います… ただ いろいろな宗教の人間が沢山いるところでは どの宗教をとっても そのやり方を押し通すのは(有名な宗教だったり 無名な宗教だったりするだけの差で) 他人にはおかしく見えるだけだと思いますよ? キリスト教徒しかしないと思われる土地で いきなりお経でもあげる人が居たら 変人にしかみえないと思います …お互い様だと思うのですが。 よっぽどおかしなエホバの証人にしか会ったことがないのですね お気の毒に。

gabriell
質問者

お礼

かのガリレオ ガリレイも宗教上の当時の解釈から 迫害され、間違った理論を押し付けられた事実があるように 人間というものは ときに間違いや真理から 外れた解釈で、後に考えを訂正することがあります 世の中 多々の考えがあり信仰も自由な時代です だからこそ、そうでない考えの違う他人への配慮が 人として重要になります つまり、信仰に没頭するも良いが そうでない近辺の人に対し、時に失礼のないように あるいは 心を傷つけないよう合わせることも 人としての配慮だと思う キリスト教徒しかしないと思われる土地で いきなりお経でもあげて変人と見られても自己責任ですが キリストを侮辱したり冒とくすることは常識ではしないでしょう 極論ですが、その常識でみれば、エホバの信仰者は後者の行動で 日本の老人たちを悲しませ 彼らの宗教心を押し付け、あるいは主張しすぎている嫌いがあります ガリレオのケースのように 後世 当時の間違えを万人が認めることもあるということで ゆとりのある信仰をし、社会に動揺をあたえる行動は慎むべきでしょう ほどほどの行動で 従来のキリスト教の方々を見習い 極端な信仰で社会に迷惑をかけないように

回答No.2

元来キリスト教やイスラム教は排他的です。 その最たるものがエホバになります。 実家の近所にエホバを信仰している方が居まして、私の母の葬儀の時もついに1本のお線香も焚かずただ突っ立っているだけでした。 母ととても中の良い人でした。 それだけに無性に腹が立ちましたよ。 自分の宗教が一番で他の宗教は拝めないのでしょうね。 叔母(亡母の弟の奥さん)はキリスト教ですが、仏教式でしっかり拝んでいましたよ。 だから協調性がないので第二次世界大戦の時も弾圧されたのでしょうね。 かく言う私も高校生の時エホバの勉強会に毎週参加していました。 もしかすると今頃は街頭で「ものみの塔」を持って立っていたかも知れません。 早く気がついてよかったです。

gabriell
質問者

お礼

解答ありがとうございます 

  • Kazma_hk
  • ベストアンサー率26% (115/428)
回答No.1

えっと自分は一応、仏教徒(実家が寺の檀家に入っているためですが)です。 ご質問の内容としては、個人の信仰度合いによると思います。 キリスト教徒でも、先祖の墓を護ってる(寺にある墓です)人もいるし、仏壇を普通においている家もあります。 (自分はその墓や仏壇には入りませんがね) で、なんで信仰度合いなどと言ったかというと、 他人に配慮がないとかではなく、宗教によっては偶像崇拝(?)などを 禁止しているものがあるためです。 墓や仏壇(仏像含む)なども禁止されているため敬虔な信者は そういったものを持ってはいけないとなっているためです。 他宗教が悪だとかという考えは、日本においてはあまりないかと思いますが、上記の偶像崇拝の禁止などに抵触するため、墓の破棄やj棄や仏壇の破棄につながってると思いますよ。 エホバの証人も同様に「偶像礼拝を避ける」といった教理があったと思います。

gabriell
質問者

お礼

解答ありがとうございます 参考にさせていただきます

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