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横山三国志の陳留王について
横山光輝氏の三国志を最近読み始めたのですが、希望コミックスの4巻でよく分からないところがあったので質問させてください。 p51で董卓将軍が「陳留王を帝にしようと思っている」とありますよね。 それでp105に陳留王が登場するのですが、どう見ても協皇子にしか見えません。 p51以前に陳留王の名は出てきていないと思うし、それ以降もはっきりと改名したとは書いてありません。 陳留王=協皇子の解釈で正しいのでしょうか。 それとも私の勘違いで全く違う人物なのでしょうか? お詳しい方、宜しければお答えいただけると嬉しいです。 (ちなみに『三国志』の物語を読むのは今回が初めてです)
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はじめまして。 仰る様に、「陳留王=協皇子」となります。 正しくは「劉協」という名前です。 「劉」は苗字、「協」は名前になります。 「協皇子」というのは「協」という名前の「皇子」という意味。 「陳留王」というのは「陳留」という地域の「王」という意味になります。 三国志に限らず、歴史上の人達は名前が変わったり、官位で呼んだりするので紛らわしいですね。
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- aananzu
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【何皇后】と兄の大将軍【何進】によって【弁皇子(劉弁)】が 『少帝』として即位した時、異母弟の【協皇子(劉協)】が 『陳留王』に封じられました。 その後、【董卓】によって【劉協】が『献帝』に即位し、 【劉弁】は廃位して『弘農王』に封じられました。 ですので、【hatorisane】様の解釈で間違い有りません。 『ウィキペディア(Wikipedia)』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%AE%E5%B8%9D_(%E6%BC%A2)
お礼
詳しい回答ありがとうございました! 陳留王=協皇子が間違いでなくて安心しました。 添付していただいたwikiも一通り読んでみたのですが、基本的には権力者の人形扱いでかわいそうな皇帝だったようですね。この時代はそれが普通だったのかな…。 まだまだ読み始めたばかりで不安ですが、描かれていない部分などは調べつつ地道に読み進めていこうと思います。それも歴史ものの楽しみの一つなのかもしれませんね。 お二方とも分かりやすく教えてくださって迷ったのですが、回答が早かった順にポイントを付けさせていただきました。 本当にありがとうございました!
お礼
素早い回答ありがとうございました! なるほど、同一人物で間違いないのですね。 コミックスに描かれていない部分だったということは、これ以降も調べながら読み解いていく必要がある訳ですね。 読み終わる頃には頭が良くなりそうです。 普段三国志どころか日本の歴史ものも全く読まないので、名前がしばしば変わるのに慣れるにはしばらくかかりそうです…。 お二方とも分かりやすく教えてくださって迷ったのですが、回答が早かった順にポイントを付けさせていただきました。 本当にありがとうございました!