• 締切済み

屠殺についてどう思いますか?

ふとした、疑問なんです。 “人間が自然界のサイクルの一部”という事や、“栄養として動物タンパクなどが必要”という事は、分かっているつもりなんですが。 人間が人間を殺めることは重大な罪なのに、どうして対象が動物だと罪にならないのかな?と思うんです。動物にも個性があるのに。 動物の社会でも、余程の事がないと共食いはしないけど、普段は自分より弱い動物を食料にすることを考えると、やっぱり、人間も自然界の一部だから当然のことなんでしょうかね? この質問は、誰かを非難する意味の質問ではないことを理解していただければと思います。なぜなら、ほとんどの人がお肉を食べるからです。

みんなの回答

回答No.7

シンプルに回答すれば、自然界は、弱肉強食と自然淘汰のルールで成り立っています。人間も同じルールに従っているのだと思います。宇宙人が攻めて来て、人間を支配すると人間も屠殺されるでしょうね。

  • fmxcv21
  • ベストアンサー率0% (0/7)
回答No.6

きっかけとしてジャイナ経を調べてみる事をお勧めします。 (とりあえずwikipedia。) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%8A%E6%95%99 その中で象徴的なのはこれだと思います。 (イエズス会の伝道師たちが、ジャイナ教徒に顕微鏡で普段飲んでいる水を見せたところ、それを見たジャイナ教徒は水が微生物に溢れていることを知り、飲むよりは衰弱死を選んだ、という報告書の存在がトマス・ブルフィンチの著書に記されている) 彼らの信教をどうこう言うつもりはありませんが、質問者さんの疑問を突き詰めた結果の一つの実例と言えるでしょう。 個人的には食べる分にはどんな罪だろうが仕方が無いので、感謝してありがたく頂く、これに尽きると思ってます。 無駄にしなければ最低限の免罪となるとも考えています。 私にとっては犬も羊も花も芋も同じくらいかわいいし尊いと思いますので、考え出したらきりが無くなり断食修行するしか無くなってしまいます。 そう言う意味では、私の中では屠殺と芋の調理の間にはそれほど大きな違いはありません。(まあ、実際に動物を絞めろと言われてもなかなか出来はしないでしょうけれど。) あと、自然界に共食いが少ないのは、共食いをする種は疫病などで絶滅しやすかったと言うだけの話です。 現在タスマニアデビルと言う動物が、縄張り争い等で噛む事で伝染してしまう疫病で絶滅の危機になっていますが、共食いでも同様の事が起き易いのです。 自分より弱い物を食べるのも、自分より強い物は基本的に食べようが無いだけの話です。 自然界の事は、案外ドライに科学的に出来ているものです。

  • dai-ym
  • ベストアンサー率22% (848/3824)
回答No.5

人間は群れで行動する動物だから。 群れで行動する動物は、共食いをすることもないし、群れの秩序を乱さない限りは群れの仲間を守ります。 逆に群れの秩序を乱せばその群れから追放したり、殺したりします。 >動物にも個性があるのに。 それを言い出したら草花にも個性はあります。 そしたら草花も食べられなくなると思いますよ。 草花には個性がないのでしょうか?

  • phj
  • ベストアンサー率52% (2344/4489)
回答No.4

一応宗教的な答えとしては、 仏教-人間も含めて動物は「食べ・食べられる」「殺す・殺される」の相互依存の存在なので、すべての生き物は業(カルマ:罪という意味)を負って生きている。そのため、無駄な殺生はしてはいけない、という教えにつながっている。 エホバ神(イスラム・キリスト教)-この世はエホバが作りだした世界であり、人は最後に神に似せて作られたものだから、その他の動物・植物などを利用し生きていくことが許されている。そのため屠殺は罪ではないが、自殺は大罪のうちのひとつという教えになる。 昔から、命あるモノを殺して食べるということについて、疑問や罪悪感をいろいろな考え方で乗り越えてきたのでしょう。 現代の社会では、「死」そのものを意識しないようにすることによって、「命あるモノを殺して食べている」という事実をオブラートに包んでいるのだと思います。

  • ume-mori
  • ベストアンサー率28% (56/199)
回答No.3

生きるため、だから。 生きるために食べる。食べるために殺す。必然です。 殺すために食べている人はいないでしょうね。 自分の舌を満足させるために食べている美食家もいますが、それも「楽しく食べる、引いてはより確実に生きるため」と言えなくもない。 (美食も過ぎては身体を蝕みますが。) 人間は、人間同士でも不利益をこうむった人がそれを主張しない場合、それに対して注意を払いません。 動植物は捕食されないために工夫をしたりしないように注意を払いますが、殺されたこと非難したり、不利益をこうむったことを別段主張しません。 沈黙する相手はスルーするという部分もあります。 生きるために殺す、なら人間同士でも罪に問われない場合があります。 「カルネアデスの板」 「船が難破した際に、一人分だけの浮力しかない板に二人がしがみ付いている場合、自分が生きる為に一方が板を独り占めして相手を殺しても(緊急避難が適用されて)罪にならないという事例」 正当防衛もこれにあたります。 人間は生きるために必要な手段は罪だと考えないのです。 ちなみに、世界各地に食人の記録はあります。 大抵は飢饉や何らかの非常事態で、正常な判断を欠く時ですが、文化としての記録もあります。 たった今も、日本にだって、罪の意識に苦しみながら生きている人もいます。(たぶん。) 亡くなった方の一部を食べることでその方の知性や勇気を受け継ごうとする、ある意味、崇高な文化。 美食の極みで、人肉が市場で「二本脚の羊」として売り買いされていた、唾棄すべき文化。 食人は極端な例ですが、食べることそのものを罪に問われたら、どうやって生きていけばいいんでしょうね。

  • mapponew
  • ベストアンサー率22% (309/1373)
回答No.2

あなたのように疑問を抱かれた方が、ベジタリアンなんです。 全く気にしないし、疑問なんて不思議と考えられる方が、終生、お肉を好んで食します。 人間も食わなきゃ固体維持が出来ず、子孫も残せません。 だから、雑食をはじめた次第なんです。雑食とは、食うもの選ばずなんです。 当然、共食いも遥か昔はしたでしょうね。 アンデスで遭難したとき共食いが行われた記録が現代にあります。

noname#140045
noname#140045
回答No.1

人間から見た「命の重さ」は同じではないからです。 人間>動物>植物(?) また、動物も大きいほど基本的に大切にされます。 家畜の場合は人間に食べられる命であるため、動物の中では低くなっています。 但し、生きている間はなるべく長く生きられるようにであったり、無駄に狭い小屋に押し込んだりとしないような風潮にはなっています。

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