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『生きる』ことと『死ぬ』こと、どちらが苦しいか。~闇サイト殺人事件を知って~
こんにちは、高校生から質問です。 今日、闇サイトから起きた殺人事件の判決が下ったのをテレビで見ました。 三人のうち二人は死刑で、もう一人は無期懲役だそうですね。 無期懲役を下された方がどういう思いで自首して捜査に協力したのかは私には量りかねますが、殺人に加担したうえに共犯者を裏切るなんて呆れてしまいました。 この事件を知って思ったのは『加害者になったとき、死刑と終身刑のどちらが苦しいのだろう』ということです。(この場合終身刑でお願いします) 死ぬ苦しみは一度で済みますが、生きる苦しみは何度もあると思うんです。 そりゃあ、生きていれば嬉しいことも楽しいこともあるでしょうが、加害者となったときにそんな気持ちが味わえるものなのかなと疑問に思います。 服役中は自らの意思で生きているというより政府に生かされているという気がします。 終身刑だと恩赦だとか服役中の態度もろもろで服役途中に罪状が軽くなることがあると聞きました。 でもたとえそれで社会に戻れたとしても、元加害者というレッテルは貼られ続けるわけで当然社会からはもちろん、親族にまで拠りどころがなくなるのではないでしょうか? 生きることは呼吸しているだけではなくて、食べたり働いたりいろんなことが付いて回ります。 今回のような事件を起こしたうえで社会に出ても苦しいことばかりで、むしろ一度の死の苦しみよりも生きている限り続く生の苦しみのほうが辛いと私は思ってしまいます。 両親や姉に聞いたところ、みんな死刑>終身刑と言っていました。(服役中の食事は税金なんですね。初めて聞いたときはビックリしました。) 私はまだ自殺願望を抱くほど追い詰められたこともありませんし、誰かのせいで大切な存在を失くしたこともその逆ももちろんありません。 世間知らずな子供だから言えることなのかも、ちょっと危険な思想かも、と思ったので皆さんの意見が知りたくなりました。 ここまで読んでくださり、ありがとうございました。 もし良かったら、皆さんの考えを私に教えてください。
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私がもし遺族なら「死刑」を求めます。 なぜなら加害者にも自分の子供(あるいは親ets)の苦しみを味わいながら死ね、とかでなくとにかくこの世から消えて欲しいからです。 なんで自分の大切な人は死んじゃったのにこいつはのうのうと生きてんだ、という不条理さ。娘を返せるんならまだしも、そんなことできないのにお前は生きてる。おかしくね?? でも関わっていない、ニュースで知っただけなら「終身刑」がこいつにはぴったりの苦しみだ、と思います。 娯楽もない、贅沢もなし、行動も一生制限される、、 まるでロボットのような味気ない生活がこれから何十年もエンドレスで繰り返されるだけです。 死ぬ苦しみは一瞬、生きる苦しみは一生。 よって終身刑のが重いのかなとも思います。 でも一番平等な刑罰は、自分がやったことをそのままやられて死ねばいいんです。 拉致られて監禁されて暴行されて殺されればいいんです。平等でしょ?? 人権問題など絡んでだめだと思いますけど。 罪を犯したものはみんなこうされればいいです。そうすれば犯行する前に思いとどまるかもしれないし。 話がずれましたが、 つまり終身刑と死刑のどっちが重いかなんて立場によりけりだと思います。
- popon01010
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生かすも殺すも正しい事は無いのだと思います。適切な言い方ではないですが、被害者や関係者、遺族にとって、どうすれば気が晴れるかが問題なのだと。 不当に怪我を負わされたとして、被害者が納得した刑罰が下れるのであれば、それは加害者にとって罪を償う、償ったといえるのだと思います。しかし、被害者が亡くなった場合、どうすれば加害者は罪を償えるのでしょうか?償う相手がいないのに何に償えば?私にはわかりません。むしろ償う事を望んでいるのでしょうか。死んだものは生き返らない。だから償いの代わりに苦しみを? と、本題は死刑か終身刑どちらが苦しい刑か、ということなので。 自分としてはやはり死刑のほうが苦しい刑であると思います。もちろん人によるといってしまえばそれまでなのですが。ただ、人は「生」を望んでいるからこそ生きているのではないでしょうか。(死ぬために生きていると言い換えもできなくは無いですが話が逸れそうなので) 死刑はとても分かりやすいものだと思います。人の本心など分かりえない事で、何を持って反省しているとか、悔いているとかは真の意味で分からないです。その点加害者の存在の消滅という意味では分かりやすい。それが本当に妥当な苦しみを与えるかはまた別の話です。 命は平等といいますが、その命に付属している人としての価値は必ずしも同価値とはいえないことです。命に対して命をというのは短絡的な思考なのかもしれません。それに、一概に死刑とすればいい物ばかりではないとも思いますし、この刑罰とは難しいものだと思います。どれほど客観的に物事を見ても、その考えの元には主観があり判断しているのですから、こうすれば良いなんてことは無いのでしょう。ご質問者様や自分を含めた者の考え方も正しいくもあり、間違いでもあるのだと自分は思います。なのできっとこの文章も間違った考え方なのでしょう。 事件の内容や刑罰などの知識がまるきり無い自分ですが、こんな変な考え方をしている者もいるという事で回答させていただきました。
お礼
ご意見ありがとうございました。 被害者が亡くなった場合、加害者が償う相手がいつもその遺族に摩り替わっているように私には見えます。 それが良いのか悪いのか分かりませんが。 なるほど。存在を消してしまう死刑は「目には目を歯には歯を」と言えますね。 命がどうかは分かりませんが、時間はある意味平等かもしれません。 だからこそ、人のこれからもまだ続く予定であった時間を無理やり潰してしまったということで”同じように時間を取り上げる”死刑を遺族が求刑するとも考えられるやも。 私がした質問はあらゆる観点から見ることができてしまい、そのうえ比べられないところにあるようです。 この質問を通して私は生死や日本の法制度、命について考えることができましたが、質問そのものに終わりは無いように思えます。
- _u-
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#11までのながれで まだ揚がってない 流れ をコメントします ※ さ さが さがす ※ 行き場のない思いは 無間 か 夢幻か 無限 か ※ だが それでも やらざるをえないこと それは ある ※ ここで ダ・カーポ ※ 最初にもどりますと・・・・ 仲間内で 処刑抹殺をする民族は 土着性がキツイな ※ これが 文明先進性 のある国のデファクトスタンダード ※ そすると 日本は遅れてるか ※ いえ 実は 諸行無常 なのね ※ ま あんけいと として 意見表明すれば・・ ※ こんな感じでしょう ※ そして、提案がひとつ ※ 最大の刑罰 は最大のコストを 社会が 負担すること ? 年間 一人 その罰があらえられる その罰の 平均継続期間を その民族の平均余命の二割五分 とする ※ すると わたくしの ずさんな計算では 常に25人が その刑罰を受けている状態 になっているはずです。。。 で、 具体的にその刑罰とは 行動自由 & 24時間 ・ 365日 ・ 25年間 ずっと 保護観察人 に GIRD されているじょうたい ※ すみません 重いテイマ なので 妥協せずに タッチタイプしたテキストでした。。 ※ もし 意味不明 もしくは 不快感を生んでしまったら すみませんでした ※ END※
お礼
不快だなんてとんでもありません。ありがとうございました。 考えてみれば、同じ民族同士でありながら厳しく罰するのは少し無情なことなのかもしれません。 ただ(私には断言できませんが)、国との行き交いがこれまでにないほど盛んな現代で、犯罪などでは特に自国贔屓も何もないような気がします。 無期懲役はある意味犯罪者を保護しているわけで納得いかない部分は多々あるようですね。 そうですね、重いテーマであり、且つ『正しい』答えなんてない質問だとも思えます。
死刑は廃止すべきでその代り仮釈放のない終身刑を持ってくるべきだと思われます。 仮釈放のない終身刑なら、再犯の可能性を残したまま釈放される危険がない上に反省する時間がたっぷりあります。 しかし死刑だと反省する暇もなく、死後悪霊と化して殺人者予備軍にとりついて殺人者を増やす結果につながります。自身も浄化するのに何百年かかるか分かりません。 江原啓之先生がそんな事を述べていらっしゃいましたよ。 だいたい死刑と無期懲役の差があり過ぎるような気がしますが。 現世における苦しみですが、死刑だと一瞬ですが終身刑だと長々と続きますね。どっちがより苦しいかは人によって受け取り方が違うのでしょうけど。死後の世界から見たら死刑の方が苦しいけれども、良い事は何もないのですよ、本人にとっても他者にとっても。反省が遅れるだけですから。
お礼
ご意見ありがとうございます。 スピリチュアル云々はよく分かりませんが、「反省する暇もなく」というのは納得します。 特にこの事件の加害者たちは(私がメディアを通して見る限り)罪意識が薄いようだったので、過ちを悔いることなく殺してしまうのは死刑にした意味があったのかと感情的な面で理解できていませんでした。 それに自首したかそうでないかだけで死ぬか生きるかとは本当に格差があります。 この私の質問には加害者の人間性も裁判所の公正さも遺族の思いも絡んできますが、すべてベクトルが違うんですよね。 だから同じように見ることができなくて、それが質問内容をややこしくしているのかもしれません。
- nimda_1969
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共犯者を貶める事になるとすらも考えず、自らの死刑回避のための自首で、そこに人間性の欠片もなく、反省の意味合いもないとは思いますが、事件解決に至る根源ともなっているので自首は認定されるのでしょうね。しかも事件の首謀者であったとしても。 法律的解釈と感情としての部分が交錯するのです。 これは難しい問題ですね。人間的な更正を求める罰なのか否か、また人間的な更正をそもそも求められる人物に対しての罰なのか。 終身刑として罰を与えた場合、その刑を全うするための生活保障は税金で賄われる訳であって、そのような容疑者が国民からの税金によって「生きることを保証」をしていることは理不尽な感じもします。しかも、これは感情論抜きにしてもそう思えてくるのです。 また、それら人物が人間的な更正を本当にあり得るかの保証もありませんし、むしろ安定した生活を提供しているのに過ぎないのではないかとも思えます。 確かに、生き恥を晒す等の考え方もあるかと思いますし、生きて謝罪も考えられますが、当該この容疑者に期待すること自体が一般人との乖離があるように思えます。 当然私個人としての考え方とすれば「3名死刑」です。 何名を殺害したかによって刑が決まるような風潮があるのも承知しているのですが「3名で1名を死に至らしめたということは、1人が1人を殺害する3倍の殺傷能力と恐怖を与えた」と考えます。 もちろん、死刑廃止論者もいるのも知っていますし、それを否定するものが居るのも知っていますが、一番怖いのは「それを自己の感情に当てはめて考えてしまうこと」でしょうか。なのでだからこそ法律的定義が必要な訳ですが、極限的な死刑については様々な観念論があって正直反対も賛成も大きな声で言えないのも事実ですね。 質問で生きることと死ぬことの苦しさのどちらか~とありますが、求められるのは苦しさではなく、社会秩序を維持させるためにどうかという部分だと思います。感情的にはもちろん理解できますが、そこに感情を求めても良いのかという懸念も併せて同時にありますね。
お礼
ご意見ありがとうございます。 裁判所は過去も今も未来でも公正でいなければならないんですね。 この事件一回ぽっきりではなくて、これから起きるであろう事件への配慮と牽制や、過去の前例だとかもすべてを並べる。 それはとても大切なことだと思うし必要だとも思いますが、マスメディアや一般庶民は感情もそこにいれてしまうから厄介なのかもしれません。 終身刑のことも、確かに税金で犯罪者を養うのは自分たちで生かしていると同じことですからおかしくも思います。 質問した当初、私はどうして遺族の方々の多くが死刑を選ぶのかが分かりませんでした。 無知だったこともありますが一度きりの死刑で納得できるのかなど、遺族の方々の気持ちが理解できなかったというのが根底にありました。 その時点で加害者の罪の受け止めかたや遺族の思いなど法廷で天秤にかけられないものを見比べていたようです。
>『生きる』ことと『死ぬ』こと、どちらが苦しいか そんなもの、個人の問題だと思うのですが。 犯罪者の感情・感覚をひとくくりにしてませんか? 誰でも苦しむ方法として拷問があるかと思います。あれをすれば大抵の方は苦しむのではないかと思います。 あまり、刑務所の中は知らないですが、ちょっと、テレビや話を聞いたぐらいです。 刑務所の死刑や終身刑なら、人によって苦しむ人もいれば苦しまない人もいるでしょう。 人間とって苦痛なのは、終わりなき覚悟を続けることです。 一瞬の痛みなら、ある程度のセンスと長年の訓練でどうにか持ちこたえることはできます。 でも、長年の苦痛なら人はそう持ちこたえられません。=発狂するのでしょうけど。そうなったら手に負えないです。 現実の問題として 人を殺して、精神的にまいる人もいるし 人を殺して、精神的にまいりそうでも、普通の精神に戻る人もいるし、 人を殺して、どうにも思わない人もいるし 隔離された中でも、平気と思う人もいるし ある程度の強制労働なら、それで良いと思う人もいるいます。 ですので、人によるに尽きると思います。 ちなみ自分は、肉体的や積極的に精神的追い詰められないとどっちでも苦しくはないです。死刑だったら、たびたび恐怖はするかもしれませんが、1日中耐えきれないという状態にはならないと思います。 >親族にまで拠りどころがなくなるのではないでしょうか まともに生きる気がなくなれば、手はあると思います。 そういう人が受け皿にするところはあるのではないでしょうか? 蛇足ですが、 高校生だと、夢や可能性という言葉で安心できますからね。夢や可能性との時間がなくなり、現実と直面した時、絶望の海を泳ぐ人はいます。その時になって体感できる人間の心、精神というものが解れば、考え方が変わるかもしれません。 参考になれば
お礼
ご意見ありがとうございます。 私も多くの方の意見をいただいて考え詰めていくうちに、私の質問には曖昧な点というか様々な場合での答えがあって一つではないなと気づきました。 (この質問に『答え』があるのかも不明ですが。) 人の感情が関わっている限り、パターンは人数分あるでしょうし。 そうですね。拠りどころに関しても、ない、なんて言い切れません。 具体例がうまく思いつきませんが(教会とかでしょうか)、もしそれに巡りあえたとしたらその人はとても幸運なのかもしれません。 身近な例えで言うと「受験なんてまだまだー、なんて思っていたらもう三年経っていた」みたいな感じでしょうか。 具体的に世の中を考えている高校生は少ないとは思いますが、日本の現状は嫌でも耳に入ってくる今、これからの社会に不安にならない人もそう多くはないと思っています。 窮地に立ったとき、自分を守り助けるものとして私たち学生は教育を受けているのでしょうか。
- _u-
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こんばばんわ こんにちは $7の回答文が いちばん 枠氏と近いです わたくしと近いです 誤字脱字ご容赦ください 校了構成完了。
お礼
こんばんは、ご意見ありがとうございます。 no.7さんというと、夏目漱石の考えでしょうか。 今回の殺人事件の犯人たちにはちゃんと自分たちがしたことの重大さを実感してほしいものですね。
- LTCM1998
- ベストアンサー率31% (238/746)
No.6で回答した者です。質問の主内容について補足します。 生きたまま閉じ込める、あるいは社会的に抹殺する残酷な刑罰は歴史をみるとたくさんあります。 犯罪者からすべての財産を奪ってよろしい、と宣告するものもあれば、手足切断といったものもあります。 なお、償うべき罪の内容はまったく違いますが、夏目漱石が興味深い対話を残しています。 門下生の一人が、自殺したって罪は消えないのではないか、と疑義を呈したことがあったという。漱石は「そうかな、消えないかね、そいつは弱ったなあ」と微笑をうかべて、真から困った顔をしたらしい。もうひとりの門下生が横から口を挟んだ。 「科学的には消えないが、心理的には消えるよ」 「なに、客観的には消えないが、主観的には消えるというのかね。いや、どうしたって消えないと俺は思う」 漱石が、このとき、珍しく説得的な口調でいった。 「消えないかもしれないが、許されはするだろう。何しろ、生命を断ち切って謝罪するんだから」 「いいえ、死なずにいて、一生、そのために苦しむほうが、はるかに許されます」 と門下生が頑張るのにたいして、 「そりゃ、あまりにも残酷というものだよ」 といいながら、漱石の顔の微笑はもとのままであったという。 (半藤一利『漱石先生お久しぶりです』より) 現代でも心の問題は突き詰めると同じように思えます。 若いうちに、大いに死生観や価値観について、学び考えてください。
お礼
ありがとうございます。 歴史を遡るとその時代その時代で刑罰はもちろんのこと、価値観も常識も違ってきていていつも面白いなあと思っています。 手足切断が許される時代もあったんですね……。 しかし昔から人々が頭を抱えることは同じとは思いもしませんでした。 引用文を読んで一つ思ったのはここで言う『罪を償う』ということは、自殺するにしても一生苦しみ生きるにしても加害者側に罪悪感ありきなんだなということです。 今回の事件の三人は生死を分けましたが、どちらにしろ自分の罪を軽視しているところがありそうだと思いました。 皮肉にもこの殺人事件が私に学ぶきっかけを与えてくれました。 この機会にじっくり考えていきたいです。
- LTCM1998
- ベストアンサー率31% (238/746)
死刑・終身刑(仮釈放なし)のどちらにしても、いわゆる「極刑」ですよね。 こうした究極の処罰は、最後の選択としてできるだけ使わないようにして、少しでも緩める材料があれば緩めるほうがよいのです。 今回の事件で無期懲役に対して異論があるようですが、裁判所は「自首」したことを評価したと報道で聞いています。 共犯者を裏切ってくれるほうが、一致団結して犯罪を続けるよりもマシです。被害者になりかねない社会側からみると、早いところ裏切ってほしいわけです。 なんでもかんでも極刑にしてしまうと、「どうせ死刑になるから」と、犯罪を加速させるおそれがあります。「死なばもろとも」という団結は怖いですよ(テロ組織をイメージしてみてください)。 誘拐も卑劣な犯罪ですが、無事に帰せば必ず減刑することになっています。 「どうせ死刑」と思ってしまえば、それこそ口封じでもなんでもするようになり、犯人を射殺でもしないと止められなくなってしまいます。 「引き返せる」「止められる」ポイントを作るのも、法制度では重要なことです。 生と死のどちらか?という質問の趣旨とずれますが、コメントさせていただきました。
お礼
ご意見ありがとうございました。 私は裁判というものを深く考えていなかったようです。 ほんの少しのさじ加減で犯罪と刑罰はなりたっていてすごくバランスが難しいですね。 葛藤と妥協が渦巻いています。 確かに「死なばもろとも」精神は恐ろしいです。 自暴自棄になった人の道連れにはなりたくありません。 no.5さんに対するお礼の中にあった「終身刑がない不思議」がよく分かりました。 人の感情の暴走をうまく抑止するには極刑の存在を近づけすぎてはいけないんですね。
うーん、これは難しいです。 まず、私の正直な心証を先にはっきりさせておくと「3人とも死刑」が妥当です。 事件の詳細については割愛させていただきますが判決理由を挙げると ・「殺人罪を犯して自首した者」=「殺人罪を犯してのうのうと知らぬ顔を決め込む者」では今後、複数犯の中から自首する者がいなくなってしまうため。 ・もともと人間のクズ(書きたくない表現ですが失礼いたします。)なので「自首」→「減刑」という前例を作ることによって集団による犯罪を未然に防止する効果を考慮した。 ・今回の事件に関しては認めたくはありませんが「自首」した者の言うように以降の被害者を出さないという結果に結びついた。 以上のようなもっともらしいことは書けるのですが・・・。 本題に話を移します。 まず、終身刑と無期懲役は違います。 ご質問者さんが使っている「終身刑」を「無期懲役」に入れ替えるだけで特に問題は感じ無いのですがまだ高校生の方ということでちょっと触れさせていただきました。 一般に思われているよりも日本の刑務所の中は快適です。 入った方(詐欺罪)の話によると「自分が昔、通っていた工業高校のほうがよほどルールが厳しかった」らしいです。 (あくまで伝聞の情報なので真偽の程は定かではありませんが。) しかし、刑務所の役割はあくまで「犯罪を犯した者の更生」であり、「犯罪を犯した者への罰」では無いことを考えれば大きく間違っているとも思えません。 スポーツもできるし、仕事(作業)もできる。 「務所仲間」という言葉もあるくらいですから閉ざされた範囲でありながらも人間関係を構築できる程度の社会として成立していると考えられます。 しかも、周りは誰も自分の犯した罪の事で自分を責める事は無いでしょう。 周りも大なり小なり罪を犯してそこに居るはずですから。 そんなに「苦」では無いと思っています。 ご質問者さんの仰るとおり恩赦や服役態度(模範囚)で早く社会に出てくることは多々あります。 少し、想像してみてください。 望んでホームレスになった方やネットカフェ難民と呼ばれている方を想像してみてください。 そのような方々の人生の中に楽しみや幸福感は皆無でしょうか? 私は違うと考えます。 その中に「前科有」のレッテルを隠し持った方が入ってしまえばもうその方は自由ではないでしょうか。 そもそも、あのような犯行に及ぶ事ができ、克明な手記を書くような人間に血縁者への思慕、罪悪感等の普通の人間なら誰でも持っていて当然の感情があるでしょうか。 自分が殺しておいて「運が悪かった」、仲間が死刑と聞いて「自首が認められて嬉しい」と言える人間です。 この締め方はしたくなかったのですが、やはり「死刑」にするべきだった。 着地点を見誤り、一貫した回答とできませんでした。 申し訳ございません。
お礼
ご意見ありがとうございます。 ネットで知り合った赤の他人のせいか、法廷で罪を擦り付け合うあたり人の愚かさというかあまりにもひどい利己主義にどう反応したらいいのか分からなくなりました。 赤の他人だから自首したのかもしれませんけど。 それにしても最低基準のモラルも何もありませんね。 どんな境遇の中で生きていたんでしょうか。 刑務所の立場上からして加害者よりの、よく言えば加害者の将来を考慮していて、被害者側のフォローはあまりないんですね。 再犯防止のためとはいえ、いや、更生して”人”としてもう一度生きて直してもらうことが重要とされているんでしょう。 日本の法律からして、やはり死刑と他では意味合いが違ったんですね。 死刑を求刑したというよりも死刑以外求刑する刑がなかったと言った方が正しいのかもしれません。 確かにホームレスの方やネットカフェ難民の方は必ず何らかの形で幸福感を得ていそうです。 それではなおさら、仮釈放なしの終身刑が日本にないのか不思議です。 今回の判決の詳細や見えなかった、考え付かなかったところを知ることが出来て良かったです。ありがとうございました。 加害者と遺族、法廷などいろんな立場でのものの考え方が一つの中に入り混じっていて裁判は私には少し難しいです。 裁判員制度の対象ではまだありませんが、私の思っている以上に裁判員とは重い職業なのかもしれません。
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お礼
ご意見ありがとうございました。 確かに、私はこの闇サイト殺人事件をメディアを通してでしか感じることができません。 赤の他人である私と当事者である遺族の方々とではこの事件に対する思い入れ(と言ったらいいのでしょうか)が違いますよね。 人の感情や欲が起こす犯罪を論理的に私情をいれず裁かなければいけない裁判というものは本当に難しいです。