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人を信じられません
私は現在、人間不信です。 原因はある心の病気をしたときにだれにも手を貸してもらえなかったことです。 誰にも、と言いましたが、何よりのショックだったのは親が見知らぬふりをしたことです。 病院には一緒に行きましたが、親は気のせいだと思っていたようです。 そして、一度も心配の声などを聞くこともなく、家族内で私の病気は“なかったもの”になっています。(現在は治っています) むしろ、病気中の刺々しい態度に対し、怒られた記憶の方が鮮明に残っています。 友達は元から多くなく、まして、難しい問題なので協力は諦めていました。 2人に言うには言いましたが、それっきりでした。 私は本当の友達がいないのだなと実感しました。 ネット上で別の心の病気と闘っていた人と話をしたりしましたが、 「家族や友人には助けてもらった」という話を聞くだけで、 「いいね。力になってくれる人がいて」と内心突き放してしまいます。 他にも色んな悩みを持っている人の話を聞きましたが、 誰々に話を聞いてもらって少しずつ良くなった、と聞くと、あ~私の悩みとは次元がちがうなぁと感じます。 また、友人・恋人に裏切られた、という話を聞いても 「それって他人でしょ?家族に裏切られたことはないでしょ?」と自分の方が不幸だ!なんて考えてしまいます。 今では、人と楽しく話したり一緒に笑ったりすることは出来ますが、信用することは出来ません。 冷めた目で見ている自分がいて、「どうせ何かあったら、親と同じようにそっぽを向くんだろう」と思っています。 しかし、時々、人を信じられないことが大変つらくなります。 やっぱりどこかで、信じたい気持ちがあるのです。 その気持ちがなかったらこんなところで相談もしないでしょうし。 同じような経験をされた方、人を信じられない気持ちとどう向き合いましたか? 些細なことでけっこうなので教えてください。
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大変お辛い経験だと思います。 しかし親にも行くとおりかの親が存在します。 子供を可愛がるにも猫っ可愛がりして駄目にする親もいれば、厳しく接した方が良いとおもって必要以上に厳しく接して愛情がないと思われてしまう親もいます。 子供を自分の所有物のように考える親も居れば血のつながりに甘えてしまう親もいます。 日本には遠くの親戚よりも近くの他人という言葉があります。 日本ってこんな言葉が出るくらいに別に血のつながりを重視していなかったんですよね。 だから家族なら裏切らないって考え方は間違ってますよ。 確かに今まで本当の友人を築くことができていなかったのでしょう。 でもそれがわかったのなら今後築いていけば良いんです。 ちなみに自分は人を信用するのにどうしているかも書かせていただきます。 自分は徹底的にその人を疑います。疑っても疑う必要が無かった部分を信じます。 だからその人に対してすべてを信用するということはありません。 肉親でも親友でも盟友でもです。 人間は価値観がさまざまなのだから、価値観が大きく違うことは相手が良かれと思ってもこっちには迷惑なこともあります。 相手は悪いと思ってないこともこっちにしてみれば裏切り同然ということもあります。 だからこの人にはすべてのことを信用できるわけがないんです。 でも逆にどんなことも信用できないという人間もほとんどいません。 おかしな言い方をすればこの人はお金に汚くお金のためなら親でも売っぱらうような行動を取るということは信用できる。 こんな信用の仕方もあるんです。 そう考えると、この人のこの部分だけは信用できるという、限定付の信用であれば信用したより任せることが出来る人は多くなりますよ。 裏切るかどうかもしれない少数の人間に依存するような信頼を寄せるよりも、 沢山の限定付の信用が出来る人間が居る方がさまざまな相談もしやすいしお願いもしやすくなります。 またこちらも自分を壊してしまうような負担がかからない、とてつもない無理をしない、自分が出来る範囲での信頼のこたえ方をすればよくなるので負担など無くなります。
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補足、まぁー親を反面教師と見立てて生きていく以外ないでしょうね。 そして、いつの日か、真実を語ってくれるのを、ただただ待つのみですね。
まったく同じような経験してます。更に言うなら尾行や盗聴など・・・ なので、あなたの言う事に共感できます。そして人を信じられない、それは、ごくごく自然な事だと思いますね。自分は人と笑う事さえできないというか、笑いたくないと言うのが本心でしょうね。なので、その点は、あなたの方がましだと思いますね。気持ちは、真実を語ろうとしない親を心の底から信じることは一生ないだろうと言う事ですね。自分に都合の悪い真実であろうと、語る事により、言葉は響くものだと言う事ですね。その他でも、おかしな出来事が多々有ったので、克服は自分の場合は克服不可能ですね。ただ、このようなサイトで困ってる人に対して、自分の知りうる事を伝える事で、真面目に生きてる人のために、少しでも誰かの役に立てればと思い過ごしていますね。
お礼
アドバイスありがとうございました。 私は親がいつか語ってくれるだろう、と待つことは止めようと思います。 ただ、信じたいと思ったときにさえ人を信じられないことは辛いです。 今は、そんな自分も私なんだ、と考えて、徐々に人間不信を治そうと思います。 病院には行って、先生の力を借ります。
- acuna
- ベストアンサー率14% (319/2259)
他人は他人を助けるほど、世の中甘く無いんだな。 今の考えでは、一生あなたの期待は裏切られると思うよ。 自分から人の助けになる人になら無いと、一生解らない。 かつ、あなたが人の助けを借りてまで、人に良い影響を及ぼす価値があるかどうか。 しっかり考えてみてください。
お礼
アドバイスありがとうございました。 私は自分のために生きていこうと思います。 他人のために生きられるほどまだ強くはありません。
- carry(@nonrion)
- ベストアンサー率25% (60/236)
こんにちは。 血の繋がりが一番で、それ故に他人には言えないこと、頼れない事を言えるそれが家族だと思うのです。 ネグレスト~海野真凛著~と言う本を最近読みました。 その中に、 『恨んでいても母を慕う気持ちが心のどこかにあるのだ。きっとお母さんは精一杯愛していたんだ。少なくとも、そんな時があったんだ。』 と言う言葉があります。 愛された記憶があるからこそ、裏切りは何物にも変えがたい苦痛となって心を抉る。自分が死にそうに苦しんでいる時、或いは死にたいと思っている時、酷く裏切られて深く傷つく。 この本の主人公はその記憶が全くない。だから、傷つく事はなくても深い恨みとコントロールできない感情を抱えてある時爆発してしまったのですが・・・。 私は片親で育ち、今はそれぞれ別の相手と再婚しています。 父親は血の繋がらない相手の子供に肩入れし、私には払えないと言った授業料を肩代わりして進学させたりしました。 母親は相手との間にできた一人息子を溺愛しています。 花粉症1つ取っても彼には色々なお茶やら何やらを買うくせに、私には病院行けば?といった態度です。 生半可な愛情なら感じられない方がいいと思ったこともありますが、最近やっと自分が何故こんなにも執着するのかが分かりました。 上記で述べたように、ささやかな愛情を注がれた記憶があるからです。 それを幸福ととるか、不幸とるかは微妙なところですが現在私はメンタル面のケア等の為心療内科に受診中です。 結局のところ、親の態度が変わらない限り許すことは出来ないし、信用する事も出来ないのです。 ただ、私は自分が経験した事は自分の子供には決して感じさせたくはないと思っています。 子供が出来たら、愛情を惜しみなく注いでこころから安心できる場所を作ってあげたいと。 それから、自分を頼ってきてくれる人には出来る限り手を差し伸べてあげようとも思っています。 私はsecret_barさんの言葉は薄っぺらくはないと思います。 色んな感情を持って、色んな事を経験したのですから。 実の親でも許せない自分を受け入れてください。 そして、いつか本当に信頼できる友達・恋人(旦那様)を見つけて欲しいと思います。
お礼
実は家庭を持つことに対し、とても抵抗があるのですが…ここでは話がそれてしまうのでやめておきます。 親を許すことは、自然に出来ることかもしれません。 しかしそれは、自分をきちんと確立できてから。 自分がまだ過去にとらわれている間は親の態度を思い出し、親が悪い親が悪い…と言い続けるでしょう。 私は無理が何の利益にもならないと学んだので、許すことについても無理はせず、 今は許さないでおこうと思っています。 アドバイスありがとうございました。
あなたに何を言っても否定されるだけだろうな…と思いつつ 書きこんでしまいました。 心の病は”うつ状態”と言われる軽度なものしか経験していないし 親の協力・友人の協力を求めず、お医者様の助言と 転職がきっかけで治しましたので、あなたの気持ち、半分わかるし 半分わからないといったところです。 ちなみに父は亡くなっているし、母は特別養護施設にいるので 協力なんて求められないし。 皮肉なことに、私は相談をされると「説得力がある」「元気がもらえる」などと言われます。 中身がスカスカなのに、なぜ人のためになっているのだろうと思います。 →あのね、人には種類があって 経験で言葉を投げる人と、感性で言葉を投げる人と いるんですよ。あなたはおそらく後者なのでは? 経験から出る言葉はとても尊いけど、相手のつらい気持ちを 即座に自分の感性に置き換えられる人も尊いよ。 でも、私から見れば、あなたは両者だね。 中身はスカスカな空気だけど、でも、その中に流れる空気は きれいなんだよ。 私も人が信じられないところがありました。 あなたは私に似てるって言えば似てるけど… すごく悩みましたよ。甘えたいって思いましたよ。 私もあなたと同じ、”daewooちゃんに悩みを話すと癒される”と 言われ、心の中では”私も癒されたい”と叫んでいました。 叫びすぎてあまりにも苦しかったので ある時、人に甘えたいという感情を捨てました。 私は人を癒す事が上手いなら、もうそれのみに生きる!!と 決めたんです。相手を癒せたなら自分にも必ず返ってくると 期待することをやめました。 家が貧乏だから、心の貧乏にはなりたくねぇなと思いまして ”私はあなたを信じない。でも、あなたが私を求めてきたなら なんだってするわ!!”と思うことに決めました。 信じないというより、期待しないといったほうが ぴったりくるかも、ですね。 人を信じられないことって悪ですか? それよりも信じてもらえない自分が存在していることのほうが 悪だと思いませんか? (あなたが言う親が見知らぬふりと信じてもらえない自分は 別物ですよ) あなたには救いがあると思うんですよ。 他人に元気を与えられる言葉を持っている。 人を信じられない事が辛いなら いっそ、信じる事をやめてしまいなさい。 自分が持っている言葉を信じて しばらくはそこに集中して、他人に元気を与えてみては? 中身がスカスカでも相手に元気を与えられる人って 確実にいます。言葉を持っている人がそれです。
お礼
アドバイスありがとうございました。 うーん、私はあまり悪とか考えないようにしているのですが…。 信じたい人さえ信じられないことが辛い。たったそれだけなので。 人を信じないで生きる方法も有りでしょう。 しかし、私はやっぱり信じたい。それだけです。 ただ、無理に信じることは不可能(というか無意味?)なので、信じられない気持ちは気持ちで認めようと思います。
2回目です。 そうなのですか。そのひっかかっていることさえ解決すれば、良い方向に向かえそうですね。 あなたの両親には、あなたが今思っていること、なぜ病気のとき親身にしてくれなかったのかを訪ねてみたことはありますか? 可能性の話ですが、もしかしたら親はあなたの病気はそんなにひどいものと受け取っていなかったのかもしれませんよ。 なんのご病気になられたのか分からないので何とも言えませんが、特に心の病気の場合は他人には痛みが分かりにくいですし。 あなたが今そのことで不信感を抱いていることも知らないのでは。 もし言ったことがあったとしても、もう一度思い切って話してみた方が良いかと思います。 ご兄弟への対応をみる限り、あなたのご両親があなたを嫌って放置しているので無いのではと思います。(憶測でしかありませんが たぶんそこら辺のことがあなたと親との間で食い違っているのではと。 ズレていたらすみません。
お礼
親はおそらく、私の思い込みだった、と思っているのでしょう。 当時から「考え過ぎじゃないの?」と言われていましたから。 私も思いきり、親と正面から話したいとは思いますが、 時間が経った今、果たして実りある会話が出来るか・・・正直不安です。 それに、私自身がまだ感情的になりそうなので。 話し合いをするのはもう少しタイミングを見計らってからになりますね。 アドバイスありがとうございました。
- dai-ym
- ベストアンサー率22% (848/3824)
#3です。 >また、私は今までほとんど弱みを見せたことがなかったので、弱い自分は駄目な自分という価値観があります。 >けど、本当はやはり弱いしへたれなところがあるので、そんな自分も知って欲しい、わかってほしいと思っているのかもしれません。 これがすべてだと思いますよ。 弱さを見せず、甘えることも少なかったから心の病のときも周りは普段と変わらない態度を取ったのか、あまりのギャップに対応を見失った。 本当の強さって「弱さを隠す」ことでも「弱さをなくす」ことでも「弱さを知らない」ことでもなく「弱さをさらけ出す」ことです。 「弱さを見せない」ことは単なる見栄を張っているだけで、何も自分にプラスにはなりません。 後、人を助けることと自分のために生きることは一緒にできることです。 相反する対立するものではありません。 そして本当に人のために人助けを出来ている人の周りには、類友のとおりそういう人のために人を助けてくれる人が集まってきます。 ただ、このように状態になるには時間がかかります。 何年も何十年も。 焦らずにそういう人たちが自分の周りに集まるようになるのを待っていても良いと思いますよ。 そして補足等を見ていて一番気になるのは心の病はもう治られているのでしょうか? まだ完治していないのなら、まずは完治を目指してください。 心の病が人を信用すること、人に親切にすることの障害になっている可能性は大いにあります。
お礼
心の病気そのものは治っています。 ただ、人間不信が残ってしまった、という感じですね。 私は弱さを見せることをとても恐れてきました。 なぜかというと、弱かったら鬱陶しがられるだろう、みんな愛想を尽かすだろう、という意識があったためです。 けど、無理がたたっていって、精神的に限界を迎えてしまったのでしょう。 今は自分の弱さを否応なしに知らされたので、自分は弱い人間なんだと思っています。 どちらにしろすぐには不信が治るわけではないので、じっくり進む予定です。
- acuna
- ベストアンサー率14% (319/2259)
きつい事を言うようだが、世の中では大事なことだ。 「かまってちゃん」 にしか見えないよ。 誰かが何かをしてくれなかった。 人にせいにしている内は、自分の人生を作ることが出来ないのだ。 あと、信じてよい人と、信じてはいけない人とがいる。 誰彼かまわず信じてよいわけではないのだ。 それは、関って痛い思いを少しすれば解ってくる。嗅覚が利く様になるから。 何もしないで、信じるだの信じないだの言ったところで、何の薬にもならない。 行動して、痛い思いしただけ、人は大人になる。 びびっている人は、大人にならずに人生終わる。
補足
誰彼構わず信じることはしません。 逆に、誰も信じないことも空しいですよね? 何もしないでいるわけではなく、病院に通い、少しずつ考えを変えています。 しかし、そういきなりは変えられず、途中途中でとても落ち込んでしまいます。 信じられないなら信じなきゃ良い。 信じたいなら信じればいい。 この理論が最もすぎて辛いです。 ならどうやって信じればいいのでしょうか? 私が知りたいのはそこです。
- kasanyo
- ベストアンサー率22% (154/693)
些細なことですが。。。 一番助けて欲しい時に誰も助けてくれなかった時の辛さを 相談者さまは、誰よりも一番よくわかったと思います。 きっと一歩前進して、人の気持ちのわかる人になったと思います。 その教訓を生かして、 自分がされて、嫌だったこと。辛かったことは、 しないように、弱ってる方の力になってあげましょう。 そして、信じてもらえるような人になりましょう。
補足
皮肉なことに、私は相談をされると「説得力がある」「元気がもらえる」などと言われます。 中身がスカスカなのに、なぜ人のためになっているのだろうと思います。 私は、人のためではなく自分のために生きたいのです。 人のことは助ける、でも自分のことを助けられない、というのは寂しいです。 私が人を助けているのと同じように、私自身も誰かに力を借りたいのだと思います。 それはおそらく、病気の時助けてもらえなかった経験から来る反動でもあると思いますが…。
あなたの人間不信を軽減する方法は、まず親を絶対視するのをやめることだと思います。 私は、感情的で子供を自分の物だと思っている母親に育てられました。 自分の意思は尊重されなかったため、小さいころは皮肉っぽく思春期は誰も信じられませんでした。 >人を信じられない気持ちとどう向き合うか 親を信頼関係を結べなかった私はですが、親を絶対視するのはやめようと思いました。 親は万能ではなくただの一人の人間。 聖母のように子供を慈しみ誰より愛し守ってやる、なんて親そうそういない。 子供が嫌いな親なんていない、とよく言いますが、これは反抗期の子供のためのただの方便。 そう思うとだいぶ楽になりますよ。 親に見放されている、と思うことはすごく辛いことと思います。 親も自分もただの人間なんです。血がつながっているだけで。 子供を自分の命のように大切に思う必要も、親を一生慕う必要も別にないと思います。 親も他人と同列にまでひきさげてください。 少なくとも私はそうして友人を得ました。 まだまだ私も人間不信ですが、お互い頑張りましょうね。
補足
私も以前ほど、親を絶対視はしなくなりました。 しかし、本文では書いていなかったのですが、兄弟が別の心の病気になったことがありまして、 そのときは家族総出で治療をしたんです。 そのために「なぜ、兄弟の時は協力したのに、私のことは放っておいたの?」と比較してしまいます。 兄弟の病気がなかったら、親はこんな性格なんだろうな、で済んだかもしれません。 親への不信感は「私は愛されていない人間だし、心配される価値もないのだ」という自己否定に繋がっています。 このままではいけないと思っていますが、上の言葉がいつまでもリピートされて一向に前に進めません。
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補足
全面的に信頼する必要はないと思います。 そして、信じられる部分だけを信じる、というのはわかります。 ただ、私の場合、自分が辛いときにいかに力になってくれるか、という点がとても重要なんです。 それは本文での経験によって作られた考えでしょう。 いつもは力になってくれる、けど、一番力になって欲しいときには力になってくれない。 肝心なところで知らん顔をされているような空しさがあります。 (模試では良い成績なのに、本番の試験では大失敗をやらかすような感じでしょうか…) また、私は今までほとんど弱みを見せたことがなかったので、弱い自分は駄目な自分という価値観があります。 けど、本当はやはり弱いしへたれなところがあるので、そんな自分も知って欲しい、わかってほしいと思っているのかもしれません。