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北尾光司は相撲出身なのに、何故、キック主体のプロレススタイルだったのですか?
皆様今晩は。 度々、お世話になります。 元横綱の北尾光司のプロレススタイルを観察していて 思ったことがあるのですが、 彼は相撲出身なのに、プロレスにおいて相撲技は 使わず、キックを多用したスタイルでしたが、 その理由がわかる方がいらっしゃいましたら、 ご説明を宜しくお願い申し上げます。
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k大相撲出身者に限らずですが、バックボーンを強調する選手と、あえて外す選手がいます。力道山などは相撲のムーブメントをほとんど使わなかったし、天竜もデビューの練習が海外だったため、先方の要請程度には使ってましたが、本格的には使わなかった。逆に、石川や嵐、輪島、維新力、曙なんかは、相撲キャラとして積極的に使いますよね。 で、北尾ですが、彼の場合は、そもそも大相撲を廃業した経緯があれなので、かかわりを極力はずしたいという、本人か周囲だかの思惑があったように思われます。で、本人(もしくは、バックについてた事務所)がモチーフにしたのが、WWFで当時トップだったハルク・ホーガンとアメプロ(アメリカンスタイルのプロレス)。デビュー修業の地は、アメリカのプロレスラー養成学校でした。ここで学んだ?ムーブメントや、パフォーマンスを積極的に取り入れ、さらにオリジナルとして、当時UWFでムーブメントだったレガース+キックボクシング風の蹴りを織り交ぜたのが彼のスタイルの始まりだったのです。が、そもそもの彼の技術が未熟だったのと、当時のフアンはアメプロ=ショーマン=低級という志向が強かったこと、さらには、たたき上げでないスターに拒否反応を示しやすい、または彼の角界を追放された経緯や態度という構図とあいまって、まったく支持されませんでした。で、早そうに長州と衝突し、解雇扱いになりました。 その後、WWFと業務提携してたSWSに入団し、やはり同じスタイルを続けたがパッとせず、またもや問題を起こし解雇。 その後にプロレスをあきらめ立ち上げたのが、武輝道場(北尾道場)です。なぜか空手を中心とした格闘技スタイル(当時はUWFの余韻があったので)でしたので、そのころから、道着を着て、空手スタイルの蹴りを使い始めたというのが、流れです。そのスタイルで初参戦したのが、UWFインターでした。(格闘技の祭典のほうが早かったかな?) まあ、誰がプロデュースしたのかは知りません(どこがしたのかは知ってますが)が、まあ、最初のキャラ付けの時点で、間違ってたのでしょうね。
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- buru130
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プロレスデビューでは、その恵まれた体格を生かして投げ技が多かったですね。大型新人として扱われていた時代にはそれほど技を多く持っていませんでした。ただ、相撲出身で最強と言われていた天龍がいたのでそのスタイルが否定されて同じリングからは遠ざかっていました。 その後はファイトスタイルは変えなかったものの、特に顕著になってのはUWFにあがってからは新日本や全日本時代のプロレスが通用しなく、レガースをつけて打撃中心に試合になじめず、しかも中途半端で当時のアルティメット(総合格闘技)に出てキモに一方的にやられました。 その結果、自分に足りないものが打撃であることを自分で認めて練習に打ち込んだからです。最初から打撃をしていたわけではなく、蹴りが強い(相撲で鍛えていたのですから当然ですが)、そしてハイキックで天龍の鎖骨を折り、ファンが急増したことがそのスタイルを定着させたのだと思います。
- shorinji36
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レスラー転向後、打撃の練習に力を入れていたからです。
お礼
ありがとうございました
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皆様ご回答ありがとうございました