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裁判員制度について教えてください

裁判員制度がさっぱり分かりません。 裁判員制度は、市民が持つ日常感覚や常識といったものを裁判に反映するのが目的だそうです。一般に、「市民が持つ日常感覚や常識」というのは、身近なこと、多くの人が体験しているものなどから作り出されると思います。 ところが、裁判員制度の対象となる事件は、外患誘致罪、殺人罪、強盗致死傷罪、傷害致死罪、現住建造物等放火罪、強姦致死罪、危険運転致死罪、保護責任者遺棄致死、身代金目的誘拐罪など一定の重大事件に限られています。これらは、普通の市民には最も縁遠いものですし、経験したことがない人がほとんどのはずです。 また、報道によると、裁判員候補者からの電話相談に応じる最高裁のコールセンターには、1日4000件近くの問い合わせがあり、その約半数が「辞退」に関する質問だったそうです。 質問は以下の3つです。 裁判員制度の対象事件を、どうしてこれらのように、普通の市民には最も縁遠い、未体験のものに絞るのでしょうか?むしろ、軽微な(身近な)犯罪の方が、「市民の持つ日常感覚や常識」が反映されやすいのではないでしょうか?逆に、軽微な(身近な)犯罪や民事事件、行政事件などには「市民の持つ日常感覚や常識」は反映させなくてもよい、ということなのでしょうか? また、「国民の義務」ということになっていますが、果たして国民の多くが司法参加を望んでいるのでしょうか?司法の迅速化よりも司法参加を望んでいるのであれば、そのデータを知りたいと思いました。 最後に、裁判員制度は成功する(長続きする)と思いますか? 以上、よろしくご教示のほどお願いいたします。

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  • Dxak
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回答No.2

もっと、最初の話で対象としている事件で、お気づきのことと思いますが・・・対象事件は、死刑判決の可能性が高いものです 今、日本の世論的には、80%死刑存続、死刑やもなしと考える人が占めてます これを実際、自分で、死刑を判決できるか?考えてくださいと言うのが、最初に来てるそうです (○○党の死刑廃止の思想から「裁判員制度」の元が作られてるそうです) 他のところは、多分、大義名分と言うところなのでしょうね > 軽微な(身近な)犯罪や民事事件、行政事件など 現在のところ、当初の主旨とは違うので、外されてます > 果たして国民の多くが司法参加を望んでいるのでしょうか? 多分、望んでません 約7割の方が、参加したくない、できれば参加したくないとのこと > 最後に、裁判員制度は成功する(長続きする)と思いますか? 現状の参加意思からすれば、難しいと思います

gootaroh
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 >今、日本の世論的には、80%死刑存続、死刑やもなしと考える人が占めてます。これを実際、自分で、死刑を判決できるか?考えてくださいと言うのが、最初に来てるそうです。(○○党の死刑廃止の思想から「裁判員制度」の元が作られてるそうです) ・もしこれが事実だとすれば、極めて政治色の強い制度となります。死刑廃止を志向する特定の思想を持つ人に有利な制度ということですよね。○○党のための制度だと思うと、「なんだかなあ~」という気持ちになりました(笑)。

その他の回答 (3)

  • ryuken_dec
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回答No.4

No3です。 実は私も質問者様が言われるマスコミ云々はほぼ同意見です。 マスコミの報道のあり方は一方的で短絡的だと思いますし、一般人にまともに裁けるんだろうか、といろいろ不安と疑問があります。(他のQ&Aでも裁判員制度自体には結構否定的な回答をしています) ただ、そんなマスコミに踊らされて、声を大きく上げている一般市民もいるのが事実です。その声を上げた結果が「だったらお前も参加してみ?」と言われることになるということまで思慮が回らずにです。 とはいえ、平和ボケした日本人にはこれくらいの刺激があってもいい気はしています。(刺激を与えるにしては高くつきますが)

gootaroh
質問者

お礼

重ねてのご回答ありがとうございました。 >「だったらお前も参加してみ?」 ・No.3への「補足」(本当は「お礼」のつもりが、字数制限の関係で「補足」にしてしまい、失礼しました。)には、「プロ裁判官はくやしくないのか?」という趣旨のことを記述しましたが、「だったらお前も参加してみ?」というのは、もしかしたら、プロ裁判官たちのささやかな(というにはかなり大規模ですが)反乱なのでしょうかね。それにしても不完全というか中途半端というか、必ずしも後々の拡張性を意図した上での制度設計とは思えません。こんなことであれば、むしろ現在停止中の「陪審法」をスタートラインとして、これを現代に合う形に修正した方がまだましだったような気がします。

  • ryuken_dec
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回答No.3

>市民が持つ日常感覚や常識といったものを裁判に反映するのが 取り返しの付かないような重大犯罪だからこそ、一般市民に考えて日常感覚や常識を反映して欲しいという意図です。死刑の是非や命の価値を問うような問題です。 >「国民の義務」ということになっていますが、果たして国民の多くが司法参加を望んでいるのでしょうか? 望んでいないでしょう。ただ、「国民の義務」は望むか望まないかの問題ではありません。納税だって国民だって払わずに住むなら払いたくありません。でも、国家運営のために仕方なく払っているのです。ですから、国民個々人の意図を基準に考えるのは少し異なります。個人的利益からはNoでも社会の市民総体のためとしてYesということはありえます。 >司法の迅速化よりも司法参加を望んでいるのであれば、 日本国民が望んでいるのは、司法(特に重大犯罪)への一般常識の適用です。マスコミなどで凶悪犯罪者などが死刑にならず、懲役十数年などになると、「被害者感情は無視か!!死刑にしろ。」という声が上がります。 「じゃあ、それを法廷でしゃべってください。」というのが裁判員制度です。 >最後に、裁判員制度は成功する(長続きする)と思いますか? 形を大きく変えて存続することはあると思いますが、今の形では続かないと思います。 ・一審だけの関与 ・審議の迅速化 今の制度は第一審を茶番劇化させるだけです。裁判所自らが裁判の迅速化のために初めから「公判前整理手続」という過程で、どんな証拠をどう取り扱って、いつ判決を出すかまでの台本を書いてその通りに進めると公言しています。所詮第一審だし、控訴して上級裁判所で決めればいいからということでしょう。このような制度では長続きするとは思えません。 強制裁判傍聴になるので、司法に興味を持たせるという効果はありますが、「裁判への参加」という点では大いに疑問です。

gootaroh
質問者

補足

ご回答ありがとうございました。 >ただ、「国民の義務」は望むか望まないかの問題ではありません。納税だって国民だって払わずに住むなら払いたくありません。でも、国家運営のために仕方なく払っているのです。ですから、国民個々人の意図を基準に考えるのは少し異なります。個人的利益からはNoでも社会の市民総体のためとしてYesということはありえます。 ・一般論としては確かにそうです。納税などは国家運営上不可欠ですし、だからこそ憲法上でも規定しているわけです。しかし、裁判員になることは国家運営上不可欠ではありませんし、憲法上でも規定しているわけではありません。仕事や家庭を犠牲にさせてまで参加を強制するわけですから、それくらい今までのプロ裁判官による裁判が話にならないくらい悪かった、という現状が必要です。しかし、最高裁判所自身が何も抗議せず、むしろ制度周知に余念がないのが不思議です。あらゆる職業の中で最も身分保障され、職務に専念してきた裁判官たちは、何とも思っていないのでしょうか?自分の仕事にケチを付けられているわけですよね。 >日本国民が望んでいるのは、司法(特に重大犯罪)への一般常識の適用です。マスコミなどで凶悪犯罪者などが死刑にならず、懲役十数年などになると、「被害者感情は無視か!!死刑にしろ。」という声が上がります。 ・マスコミは煽るのが仕事ですから、マスコミの論調が国民の声とはいえません。事実認定は多数決ではなく証拠により論理的に行うもの、司法は個別具体的な事件に限り必要最小限の判断をする最も消極的な国家権力、という三権分立に則った司法の役割・本質を考えると、マスコミにも司法記者という専門記者がいるのに、本質に則った記事は余りありません。被害者感情については被害者自身が言うのは分かりますが、第三者であるマスコミはあくまで冷静に報道すべきであり、これは司法制度の問題ではなく、マスコミの報道姿勢の問題だと思います。ただ、マスコミに対してはチェック機能がありませんので、あたかも国民の声のように錯覚してしまうだけです。司法は感情に流されず、あくまで証拠により判断すべきです。「市民が持つ日常感覚と常識」とやらを反映すると、感情に流された判断になるおそれがあります。現在でも検察審査会という形で国民の司法参加が実現しています。「公訴権を独占する検察官に対するチェック」という程度が日本にあっているのではないか、だからこそ陪審制よりも長続きしているのではないか、と思います。最終ジャッジはあくまでも専門訓練を受けたプロ裁判官が適していると思うのですが、今後の制度の維持を見守りたいと思います。

noname#75730
noname#75730
回答No.1

「裁判官は訴える」という本を以前に読みました。裁判官は、仕事の性質上、市民団体やサークルなどへ参加が制限されているそうです。本の中では「日本野鳥の会」にも加入できないそうです。そうすると、裁判官は「市民の持つ日常感覚や常識」を体験できないのが実情ではないでしょうか。 ご指摘のように、我々が殺人などの犯罪に遭遇することは、ほとんどありません。しかしながら、犯罪にいたる過程では市民感覚が生かされることがあるのではないでしょうか。このサイトでも、不倫や浮気が原因で調停や裁判になっている事例は多いですよ。「不倫相手と口論になり勢いで包丁を手にしたら、相手を刺してしまった」ような事件は、よくあるのではないでしょうか。 これから始まる制度です。10年もすれば改正なり、廃止なりされるでしょう。なりたいと思っても、宝くじなみの確率ですよ。 回答になりましたでしょうか。

gootaroh
質問者

お礼

早速のご回答ありがとうございました。 >裁判官は、仕事の性質上、市民団体やサークルなどへ参加が制限されているそうです。本の中では「日本野鳥の会」にも加入できないそうです。そうすると、裁判官は「市民の持つ日常感覚や常識」を体験できないのが実情ではないでしょうか。 ・国民の多くは市民団体やサークルには入っていません。もっとも「入れるけれど入らない」と「入りたいけど入れない」のとでは微妙に違ってくるでしょうけれど。 そもそも「市民の持つ日常感覚や常識」の定義がよく分かりません。もし定義があるとして、それが果たして裁判に必要なのかどうかも疑問です。「事実認定」というのは証拠により行われるもので、多数決とは無縁のものだと思います。また「量刑判断」というのは他の類似事件との公平性も考慮する必要があります(いわゆる「相場」)。いずれにせよ、専門知識と訓練が必要な仕事です。何のために今まで税金を使ってプロを育成し、手厚く雇用していたのか分かりません。 歴史を振り返ると、古代、裁判は被告人の手を熱湯につけて、その火傷の具合で判断するという呪術的なものでした。それが地域の長老や宗教家などの有識者、あるいは時の権力者などによる判断になり、民主主義の発展とともに国民が判断することになりました。日本でもかつて陪審制があったことはよく知られているところです。その後、訓練を受けた専門家(プロ裁判官)による裁判に発展してきたわけです。ちょうど、呪術的な治療から民間療法を経て専門の医師による治療に発展した医療と似ています。もともと医療や裁判というのは「神業」なのです。それを「国民の司法参加」という大義名分で裁判員制度を創設したのは、必ずしも「進歩」ではないと思います。欧米ではいまだに陪審制があり、崇拝している日本人もいますが、こうした歴史を考えると、むしろ日本の現在の裁判制度の方が「進歩」しているともいえます。まあ視点の違いだけかもしれませんが、こうした視点からすると「何でわざわざ『後退』させる必要があるのか?」という疑問を禁じ得ません。

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