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どこまでが京都?
こんばんは。 京都には修学旅行含め10回くらい行きました。 いつも碁盤の目の中に宿をとり、南は宇治・東は大津・西は馬堀?・北は鞍馬、大原辺りまで行ったことがあります。 で日本海側まで京都府であることは知っていますが、 ●史実として都と言われる範囲は現在のどの辺りまでなのでしょうか? ●又現在のイメージとしての京都と言った時の範囲はどの辺りまでなのでしょうか? (なんとなくガイドブックに記載されている名所の範囲が京都なんだ、と言う固定観念があります) 二番目の質問は気を悪くされる方もいらっしゃるかも知れませんが、 私は天橋立と舞鶴にも行った事があります。私が抱いている京都のイメージではなかったですが、十分魅力的なところです。 では宜しくお願いします。
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1:史実としての都の範囲 これは、時代によってかなり変ります。 桓武天皇が建設した平安京の範囲は、 北限:一条大路(現在の今出川通と丸太町通の中間にある一条通) 南限:九条大路(現在のJR京都駅のやや南で、東寺のある九条通) 東限:東京極大路(現在の寺町通であって、河原町まで入らない) 西限:西京極大路(JR嵯峨野線花園駅や阪急京都線西京極駅を南北に結んだラインだが、推定である) しかし、確か「今昔物語」の現代語訳を読んだ記憶では、平安時代の後半には、既に町全体が上記の範囲から北東に移動していて、芥川龍之介の「羅生門」のモデルになった「羅城門」は、都の「南大門」だったのも関わらず、寂れていたようです。かわりに、鴨川を越えて東山に掛かる方が寺も多く、賑わっていたようです。 室町時代の応仁の乱の頃には、町は縮小して「上京」と「下京」に分かれてしまいましたが、信長や秀吉が都市計画して再建しました。この当時の地名や通り名が今でも使える地域が、御質問の答えになるでしょう。詳細は長くなるので、別途調べてください。 明治の初めに「京都市」市制が施行された時の区は、「上京区」と「下京区」だけでした。 左京区でいうと、白川や下鴨という地区は、愛宕郡に属する村でした。これらの村が大正7年に上京区に編入された後、昭和4年に左京区として独立しました。同じ年、東山区が下京区から独立し、中京区が上京区と下京区から一部を取って作られました。 右京区では、嵐電の走る「西院」や「太秦」は、昭和6年までは葛野郡に属する村でした。これらの村が「右京区」として京都市に編入されました。伏見は、まだ「伏見市」でした。南区は、「九条ねぎ」で知られる農村部でした。 京都は「都心部」と、貴族や町衆が参拝したり遊んだりした「郊外部」があって、どちらにも長い歴史や貴重な文化財が有るので、境界線がわかりにくくなっているようです。 2:現在のイメージの「京都」。 イメージで判断すると、滋賀県の大津市辺りが丸ごと入ってしまいます。でも、そういうイメージは正しくないと思います(私は滋賀県の湖北地方出身です)。 行政上「京都市」と名乗っている所に限定する方が、無難だと思います。宇治や亀岡でも、京都市民にとっては「京都ではない」所でしょう。 それでも、「北山」の方には山間部も過疎地もあるのです。 このあたりは「奥多摩は東京か?」の判断基準と比較して照合してください。
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- Shirozaru9
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京の通りを歌った童歌には、こういうバージョンも有ります。 坊んさん頭は丸太町 (丸太町通り) つるっと滑って竹屋町 (竹屋町通り) 水の流れはエビス川 (夷川通り) 二条で買うた古薬を (二条通り) 只でやるのは惜し小路 (押小路通り) 御池で出おうた姉さんに (御池通り,姉小路通り,三条通り) 六銭もろうて蛸買うて (六角通り,蛸薬師通り) 錦で落として叱られて (錦小路通り,四条通り) あやまったけど、ブツブツと (綾小路通り,仏光寺通り) たかが知れてる、まどしたろ (高辻通り,松原通り) 「まどす」は関西弁で「弁償する」の意味です。 この歌は、細い道も1本ずつ歌っていて、北は京都御苑(御所),東は鴨川手前の寺町通り,西は二条城と堀川通りの範囲だと、本当にこのままなのです。 でも、南は五条通りまで届いていません。五条通りの2本上の松原通りで終っています。 ちなみに、鴨川には四条大橋と五条大橋の間、松原通りの延長上に「松原橋」が有ります。松原通りを更に進んで東山に当たるところまで進むと、そこが「清水寺」なんです。 これが、この歌が松原通りで終っている理由でしょうかなあ。
お礼
松原通りで思い出しました。タクシーの運ちゃんに聞いたのですが、 牛若丸と弁慶が対決した当時の五条大橋はこの松原通りの橋だったと。 そうですか、五条以北で終わりですか、東山の方だともっと南でも色々あったと思いますが? どうもありがとうございました。
ちなみに京の童唄です。 http://homepage3.nifty.com/uranai-kyoto/uta.htm
お礼
マルタケエビス、で大体の主要な道が歌われているのかと思ってました。東西と南北で二つの歌があるとは! これ、普通の人(少なくとも近畿以外の人)は知らないですよ、きっと。 ありがとうございました。
- h2goam
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所謂京都人の考える京都とは街中、精々上京区、中京区、下京区(特別に狭く捉えれば殆ど上京区のみ)の町屋の部分+寺院です。 つまりマンションやビルはもちろん一般住宅(一部の金持ちの豪邸を除く)などは京都ではないようですね。
お礼
えっ 左、右京区、東山区は入らないのですか? あっ 寺院は入るのですね。 ありがとうございました。
- Shirozaru9
- ベストアンサー率36% (89/245)
No.3です。 私が北山や東山や嵐山方面の地名を出したために、「東,西,北の山裾が郊外」「碁盤の目と南が都心」と思い込まれたようですが、それは逆です。 私のNo.3の回答でも書いたとおり、平安時代から既に都の南は荒廃していて、比叡山に近い北山や東山の方が、「副都心」だったのです。 このカテゴリーで、よく「京都に1~2時間しか居られませんが、京都駅近くに良い見所がありません。どこがお勧めですか?」という質問が多いのですが、お気付きではないですか? 京都駅は平安京で言うと七条と八条の間に有りますが、その近くで平安時代からの名所は、九条通りに面する「東寺」くらいしか残っていないのです。 七条通には西本願寺と東本願寺という大きな寺が並んでいますが、あれは秀吉と家康の時代に建った寺です。戦国時代が終った頃、あの附近は京都でもガラ空きだったので、大きな寺を建てることができたのです。 他の方も紹介した「丸竹夷二」の歌の歌い始めは、御所の南門前を通る「丸太町通り」のことです。歌い終わりは、今でこそ「東寺で、とどめ刺す」と終っていますが、実は六条から南は大きな通りしか歌詞に入っていません。 ちなみに、国道1号線は京都市内では「五条通り」として走っています。四条通よりも、遥かに広い道です。 京都駅と東海道線を境にした南側は「京都市南区」といいます。ここは地理的に鴨川と桂川に挟まれた「川中島」状態の地域。現地に住んでいる人には申し訳ないのですが、以前は農村として、近年は水再生場(下水処理場)のある場所として知られており、必ずしも「雅」なイメージはありません。 ↓南区の基本計画で述べられた、京大名誉教授のお言葉 http://www.city.kyoto.lg.jp/minami/page/0000010437.html 東寺だけが例外的に存在します。「西寺」は遺跡が発掘されいるものの、羅城門は「東寺と西寺の真ん中だから、この辺」という推定位置しか判明していません。旧家の改築がある度に、なにか痕跡が無いか調査するくらいです。 そんな「洛南」に比べると、「北山」や「東山」がどんなに文化の栄えた所かは、地図を見れば十分に理解できるでしょう。 どうか、お間違えの無いように願います。
お礼
なるほど、副都心ですか。確かに清水寺から銀閣寺にかけてたくさんの寺院などがありますね。 平安京の中央軸線からすると確かに偏っています。 (碁盤の目の外なのに) 南は良いイメージがしませんが、東福寺などは住宅密集地に囲まれた別世界と言う感じがします。 平安京の復元図は良く見かけますが、羅城門の位置は痕跡的な根拠はない訳ですね。 ありがとうございました。
- hardtechno
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こんにちは、私も同じく10回くらい訪ねている者です。 ●史実として都と言われる範囲は現在のどの辺りまでなのでしょうか? 住所が碁盤の目で表わされているところ、という認識でよいと思います。 魔界マップ(笑)と組み合わせてみるとわかりやすいかもしれません。 ●又現在のイメージとしての京都と言った時の範囲はどの辺りまでなのでしょうか? (なんとなくガイドブックに記載されている名所の範囲が京都なんだ、と言う固定観念があります) 京都に何を求めるか、受け取り側に依ると思われます。 神社仏閣という意味なら、大原、宇治、伏見、まで含まれますが、 都道府県という意味なら、北の方まで含まれます。 京都観光=神社仏閣という意味が強いから、北の方まで含まないように 受け取られるのだと思います。 そういう意味では、都道府県としては海はありますが、 京都は海無し県とも言えそうです。 私の地元は湘南なのですが、ここも同じでどこからどこまでが湘南かは 人によって大きく違いますね。
お礼
都の範囲は狭い、と言う認識となりました。 イメージとしても北の方は入らないかと、昔常照皇寺に行ったことがありますが(周山と言う所、北西の方)この辺りまでかなと。 ありがとうございました。
●史実としての京都といえば、 今の上京区から下京区の範囲なのだと思います。 NO2さんのマルサンロッカクタコニシキ。。そのまんまです。 その間もそれなりにスペースはあったようです。 と、前にテレビでやっていたような。。 嘘か誠か知りませんが、先の戦(いくさ)で・・・というと、 応仁の乱のこと。。という話がまことしやかに伝えられている土地柄ですから。 ●現在の京都といえば、 西は高雄、北は大原、東は東山、南は十条くらいまででしょう。 いわゆる京都観光のメインスポットを含む、市街地です。 山科、桂、長岡京は申し訳ないけど、アウトですね。 最近有名になった「私の仕事館」のある、精華エリアも京都府ですが、 商圏的や住民の意識では奈良に近かったりします。 いわゆる観光地としてのイメージとしての京都というと、 奥多摩を含む東京都ではなく、高層ビルの立ち並ぶ大都会としての東京 というのと似た感じになりそうです。
お礼
昔の都の範囲はけっこう狭いですね。 現代の京都となるとやはり観光マップに記載されるような範囲ですかね。 でも山科、桂、長岡京は圏外と言うのはかわいそうな感じがします。 (いずれも行ったことはありませんが) ありがとうございました。
- 007MUKADE
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古来 京への入り口は・・・・ 東は ”粟田口 ” (今の蹴上付近) 北は ”鞍馬口 ”(烏丸今出川の北) 西は ”丹波口(JR山陰線に駅有ります)・・・・ そして 南は ”羅生門 ”(東寺のすぐ側) ・・・・でした。 今の 平安神宮や動物園、美術館 は 明治になってから 郊外の東山よりに 新しく開発した ”岡崎 ”です。 その後 市電が開通して 東大路、北大路、西大路、九条通を囲んだ部分が 所謂 ”京都の街 ”となってました。 昭和になってから 交通の要所と造り酒屋で有名な ”伏見市 ”が 京都市に編入されたと聞いてます。 うろ覚えですが・・・参考にして下さい・・・ マルタケ エビスニ オシオイケ アネアサン ロッカク タコニシキ シアヤブッタカ マツマンゴジョウ が京都と言う人も居てます。
お礼
古来の京都の入り口から範囲を見るととずいぶん狭いですね。 マルタケエビス・・・・って通りの名前ですよね、何かで読んだことがあります。ありがとうございました。
- iemon0180
- ベストアンサー率27% (10/36)
1.史実としての京都の範囲 山に囲まれた京都盆地の下が淀川辺りまででしょうか。ほかに、宇治が入るかなあ? 2.天橋立と舞鶴 一般的なイメージとしての京都ではないと思いますが、ご指摘通り、十分に素晴らしく魅力的な観光地だと思います。
お礼
淀川だと京都競馬場があるし、宇治は平等院があるから京都ですよね。 天橋立と舞鶴はアクセスが大分京都と違うと思いました。 ありがとうございました。
お礼
ずいぶんお詳しい方ですね。 確か右京区・左京区って地図で見ると左右逆でしたよね。 都心部が碁盤の目及び南、郊外部が山すそ(東、北、西山)ではないかと?(私は山すそを歩くのが好きです) 確かに奥多摩は東京では大変貴重な地域ですが、地方から東京に来た人をわざわざ案内することはないでしょう。 ありがとうございました。