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「嫌われごっこ」をやめる

22歳男です。かなり個人的な質問であるということ、重たい内容である事をまずお断りします。 この質問をする動機なんですが、自分は常に自分自身に自己否定をしていて、どこにいても場違いで他人から拒否をされていると感じてしまうのです。(性格的なもので、薬で治せる精神疾患ではおそらくないのでよけいに根が深い。) こんな感じです。 親切にしてもらったとき。プラスの対応を受けた時:相手が誰にでも優しくしている人だったんだ。と、とる。 マイナス(と自分で考える)対応を受けた時:やっぱり。自分は誰からも愛されないんだ。と、とる。 そして、たとえば視線を素早く動かすといったり顔をしかめたり談笑している相手の仕草を、嫌っているだとか嫌悪感を表明しているとか嘲笑しているという風に受け取ってしまうし、焦りやなんやかんやによって無駄に多弁になったりもし、「どうせ嫌われるのだから」と心のどこかで対人関係を端から諦めてもいます。 うちの親たちが全員そういう質の人間で、そのためか内面にはおぞましい怒りが眠っているように思います。(仕事をしていなければ10歳児くらいの精神年齢で、よって僕はまったく親たちを憎んでいます) 例えば母親の「おべっかを駆使して、ずる賢く立ち回る人間のことを「社交的」と呼んでいるんだ(だから、そんな愚かしいことに私はかかずらわない、というみなへの軽蔑のニュアンス)」という言葉はその怒りを象徴しています。 結局、他人と関わることによって「自分がいかに無価値な人間であるのかを確認している」節があるんだと思うんです。それと、あまり対人関係のルールを身につけられていないこともあいまって、実際にかなりの割合でうまくいかず、疎まれるといった失敗をしてしまうことが更に自己評価や人とかかわる機会の乏しさに追い打ちをかけます。(今は対人恐怖の傾向がかなり強いです。) その結果が自分に向い、無為や自殺願望や絶望、深い悲しみになって表れてきています。 そしてなまじ知性があるために、哲学的なことまで考え始めて収拾がつかず、苦しみの中誰も助けてくれる人もおらず、毎日が空しくてしょうがありません。(おまけに、「甘えている、未熟だ、お前は嫌い」というような自己否定の声が自分を苛むし、過去に自分にそういう言葉を投げかけた人々(たとえば高校時代の先生、小学校の時に自分を嫌っていいたある女の子)のことを殊更に記憶していて、白昼夢に出てくることもあります) ちなみに、うつ病や統合失調症ではありません。(状態とは重なって部分もありますが) 似たような経験を持っていらっしゃる方はいますか。(自己評価がとても低い人)もしくはアドバイスのできる知識をお持ちの方、 どうやったら、「嫌われ確認ごっこ」をやめられるんでしょうか? 参考になる意見を求めています

みんなの回答

  • dell_OK
  • ベストアンサー率13% (766/5722)
回答No.6

やめればいいだけだと思う。 どうやるもこうやるも、やめるだけだと思う。 意識的にやっているのなら、やめられると思う。 無意識でやっているのなら、やめられないか、やめるのは大変だと思う。 継続する事が容易となったものは、なかなかやめられない。 継続する事が容易なら、継続していればいいのではないかと思いもする。 ---- 似たような経験はほとんどないし、アドバイスもできないけど、 どんな意見でも参考になると思う、ので回答してみる。 もしかしたら、薬で抑えられる可能性がゼロではないと、思われている。 私は、親切にされると、この人は私にだけ優しいんだ、と思う。 私以外に優しくしないで欲しいと思ったりもする。 マイナス対応された時は、この人は私にだけ優しくないんだ、と思う。 私以外の人にどんどん優しくして欲しいと思ったりもする。 もし私を憎むのなら、他の誰も憎まないで欲しいと思う。 私は、「どうせ嫌われるのだから」なんて思った事はない。 「好かれるに決まっている」とさえ思っている。 嫌われた過去の事のなど私の記憶には残らない。 自分を好きになれば人も好きになれる、 人を好きになれば自分も好きになれる、 と心のどこかで思っているのかも知れない。 実際、好かれなくても、何とも思わない。 こうして、いろいろと私が、私を書いても、 それは私だからできる事で、他の人にできるとは思っていない。 質問者様が、それは「あなただからできる事で」と言えば、 それは当然ながらも、もしそう思ってそこでおしまいにしたら、 やめられるものもやめられない。 方法はどうであれ、やめる気があれば、やめれるはず。 方法などなくても、やめる気があれば、やめられるはず。 やめられないのは、やめる気が足りないか、やめる気がないから。 そして、あきらめるから。 やめても、やめた瞬間に元に戻るかも知れない。 継続しようとする意識か無意識の方が強いからで、 継続しまいとする意識か無意識の方が強くならない限り解消されない。 でなければ、無心になるだけ。 私は、腕をばたつかせて空を飛べと言ってみる。 飛べるのか、飛べないのか、飛ぶ気はあるのか。 可能か不可能かを見極める。 可能ならできる。 不可能ならできない。 私は、一歩でも半歩でも動けと言ってみる。 動けるのか、動けないのか、動く気はあるのか。 可能か不可能かを見極める。 可能ならできる。 不可能ならできない。 今のままでいいんじゃないかとも思う。 それが、自分の生き方だから。 自分の事だけで、そうやって悩んでいるような人は、 他の人の事で悩んでみたら、 あるいは、かわってくるのかも知れないと思う。 と言っても、それほど悩まれているようでもないような気もする。 私は、自分の無価値と同様に、他人も無価値だと感じている。 でもまあ、無価値な人間同士仲良くしましょう、と言う。 あまりいい事とは思わないけど、 ご家族にしても、憎める人がいるなんて、ちょっぴりうらやましい。 私には、憎める人がいない。 私は、幼くして、怒りや憎しみと言った感情を捨ててしまった。 人間として、何か、欠落してしまったような気がする。 だから、時々、他人の持つそう言うものを拾い食いする。 食べても何も満たされないけど、ただで食べられるから。 「必要とされていないんだ。死んじゃおっかな」と思った事がある。 「つらいな。さみしいな。死んじゃおっかな」と思った事がある。 でも、必要とされない事も、つらい事も、さみしい事も、 なんか、死ぬ事とは関係ないなと思うので死なないでいる。 車にはねられたら死ぬかも知れない、くらいが死と関係してくるだけ。 ある作家が、作品の中で、こう言った。 『「生きているのが苦しいなら死んでしまいなさい」とは言わない』 多分、こんなセリフだったと思う。 それなら「死ね」と言われた方が、話が早い。 言わないかわりに、死ぬなとも言わない。 言える事は何もない、と言う意味なのだろうか。 何を言われようと、言われまいと、決めるのは自分であると私は思う。 どのような事に関しても。 自分の事は自分で決める。 人には頼らない、と言う気持ち。 だから、私は自分の事で人に頼らなくてもいいように生きてきた、つもり。 そうでなければ、「とは言わない」の続きが、 「自分が死にたいのなら死になさい」と聞こえてくるから。 と、そうして生きてきた私には、正直、質問者様の気持ちはまったくわからない。 また、どのような環境にあっても、そのような考え方はしなかったと言える。 大げさに言えば、そのようにならないように生きてきた。 と言う心がまえ。 だから、何か、よっぽど、コロっとな何かがないと、やめられないかも知れないと思う。 そのコロっとが見つかるといいね、としか言えない。 疲れてきたので、ここらへんで打ち切り。 と、重たい内容に、軽い回答をして平気でいたりする。

noname#92301
noname#92301
回答No.5

補足の、補足になります。毎回のお礼、ありがとうございます。 慎重に言葉を選んでいるつもりですが、想像力にかけ、的確とまでいかないかもしれません。 質問者さんの仰る、前者、後者ともに「いいえ」です。私は、どちらでもありません。自分を証明するために他人を使ったりしませんし、他人の証明のために(質問者さんは、他人の気分をよくさせることと仰っていた)自分を犠牲にもしません。 質問者さんの仰る「自分に価値がある、正確さがある」とは他人にも同等の価値と正確さがあるということです。 私にとって否定で揺らぐのは、「真理」や、自分が生まれてきた根本を覆された時だけです。 質問者さんが仰る「否定」で揺らぐものとは、成人までに身に付けた偏見だったり、価値観やものの見方だったりではないでしょうか?それは、違う価値観を持っている人に出会えただけと感じます。 それから、「うぬぼれ」はもともと持ち合わせていると思っています。外向きか、内向きかと、強弱は個人差はあります。 そうなると統合自体、意味がなくなりそうですが、どうしたいかは質問者さんの自由だと思います。 考えがループする様に思えるのは、どちらも選んでないからではないでしょうか。

ta999
質問者

お礼

遅くなりましたが、回答ありがとうございました。 以下の理解でよろしいですか。(回答者様の境地が、単なる価値観の違いなのか、それとも私の未熟さのせいなのかはわからないですが、ちょっとよく理解できません、) 回答者様は生きていることや自分に平穏を感じていらっしゃいますか。(これまでの印象から判断してきっとそうだと思うのですが・) 「真理」とは回答者様に位置づけられた「真善美についての考え方」のことでしょうか。 「真理」というのは時代によっても変わるものだし、人によっても変わっていますよね。それは、欺瞞を必ず伴っているはず(神様でないので)だし、だれかに自分の「真理」のせいで被害を被らせていることがあるかもしれません。だが、その真理をいちいち疑っていたら「自分が揺らぐ」訳だし、少しの欺瞞は忘れ去るか納得してしまうことが必要です。 「真理」は(真善美の考え方ではないにしても)、これまで生きてきて他人の考え方から身につけてきたものでもあるし、そこには必ず大なり小なりの偏見がきっと潜んでいる。しかし、その偏見のことを考え始めると、またまた「自分が揺らい」で、ひどくなれば社会生活さえいとめないほどに沈鬱するかもしれない。 しかし、私(質問者)は自分の「真理(これさえも偏見を含んでいると書かれてありますが)」に付随する欺瞞や偏見や、差別と排除などを考え始めてしまうのです。そこで、「自分が揺ら」ぎ、自身がないのも相まって、誰かの囁く「お前のやることは間違っている(神様でない以上当たり前なのですが・・・)」というような声をもろに取り入れてしまう。それを撥ねつけないと、「一大事」にはきっと取り掛かれない。 囁いた彼を考慮しないという欺瞞(自分が本当に間違っているかもしれないのと、彼の指摘の努力を無にしている)も、ここで生まれることになります。(自信がないと、それがただ単に嫉妬家のつまらぬ愚痴に過ぎない場合でも、耳を突き刺してくる。) ただ、なにもせず怠惰であることを認めるための、言い訳かもしれないとも思います。 つまりは、「自分を揺らがせないで自分の立ち居振る舞いの(特に否定的側面について)を考えていることはできるのか?それはいかにしてできるのか?」についての意見を聞きたいと思いました。

noname#130062
noname#130062
回答No.4

#1です。返信ありがとうございました。 >これは、人目を気にしすぎてしまうということでしょうか。 人目を気にしないようにするためという意味もありますが、私は挫折しやすいので現状を少しでも楽しんでメゲないようにするためにやっています。

ta999
質問者

お礼

お礼遅くなりましたが、ありがとうございます。

noname#92301
noname#92301
回答No.3

早い返信、ありがとうございます。 返信の内容がかなりの長文ですので、答えきれるか心配です。言葉の足りないところは、改めて補足いたします。 嫌だから不快な態度をとられる、またはそう思う。 ハッキリとした理由もなく嫌う理由はないか? …どちらも考えられますし、どちらも考えられません。質問者さんの言う場合は、質問者さんの感情が支配し、相手の気持ちまで、質問者さんの感情が決めています。相手を見ていないので、どちらでもないと思いました。 100人いれば、100の個性があります。質問者の仰る「少し変わっている」は、他の人から見れば大変変わっているのかもしれませんし、その逆もしかりです。 それから「正しいと思うことをしたにもかかわらず、嫌われた、疎まれた…」についてですが、「相手との相性が悪い、悪く受け取る人、裏切るタイプの人とか、そういう風にお考えになると思うのですが…」は「いいえ」です。また「運や間が悪かった…」についても「いいえ」です。 私の考え方ですが、「正しいこと」とは、人や時代、文化などで違います。 私から見て困っている人がいても、本人が困っているとは限りません。 自分が「正しいこと」をした、または「良いこと」をしたと思うのは自分の勝手ですが、そこで断られた、または酷い対応を受けたからといって「裏切る人」だと思うのは、自分で良いことをしたという「うぬぼれ」があるからです。 自分が決められるのは、自分の気持ちだけだと思っています。

ta999
質問者

お礼

ありがとうございました。ご指摘も理解はできます。 こちらこそ、理解しがたいところがあったかもしれません。 回答を見て意外でした。もちろん、回答者さんも、年配の方なのであれば、裏切られたり(程度はあれ)した経験があるわけだと思いますし、そういう場合に「こういう人もいるのだなあ、でも次に会う人をはじめから裏切らないだろうかと疑ってかかるのは建設的でないのでやめとこう」という感じで対処されてきたと2の返事の時に考えておりました。 では、別の考え方をしてみます。 回答者さんは私よりもだいぶ「無私」の考え方なんでしょうか。 うぬぼれ、と書かれてあるように、「何か自分に価値がある、正確さがある」と考えている場合は、否定されることがきっととても打撃を与えてしまう。 反対に「私も人間なのだから誤りがある。そして、否定されようと肯定されようと、相手のよろこんでくれる対応を私はする」 前者は「自分の何何を証明」しようとしていますが、後者は他人を気分よくさせることを義務(語弊があるかも、ですが。)のように考えているので、否定的に対応されても自信がそんなに揺らがないかもしれない。 後者の境地に近いんでしょうか。 このお礼のまとめなのですが、 「わたくし」、「うぬぼれ」を捨てると確かに心が平和になると思う。しかし、まったく「うぬぼれ」のない人間はいない。 「うぬぼれ」を捨てる、というのは具体的にいかなることだろうか? (私はだめな人間です、とかしこまるような状態とは違うのはわかります。自惚れを捨てるというよりかは、自惚れをうまく扱うというべきなのかもしれない。他人を無条件に信用することだろうか、それもきっと違う。少しだけ疑って、基本的に信用することだろうか。仏教の「無私」と言っても、現世を捨ててしまうような考え方は現代とは合わないんじゃないか・・・・私たちは娯楽や下心(野心だとか欲望だとか)をそう簡単にはすてられない。) と、こういう風に堂々めぐりになってしまうのです。自惚れをうまく自分の心に統合する仕方。どういう統合の仕方が望ましいと回答者さんはお考えになりますか?

ta999
質問者

補足

また、お手数をかけてしまいますが・・・ 嫌われごっこwではございませんので、ぜひ、お答えください。 喜んで参考にいたします。

noname#92301
noname#92301
回答No.2

私の場合と経験からしか言えませんが、何かヒントになればと思います。 私は「何故、生まれてきた!?」から始まっています。高校生になる頃には怒りの塊になっていて、大爆発も起こしました。 鎮火するのも時間がかかり、ようやく現在落ち着きました。 私の結論は、他人を受け入れられないものが、自分を受け入れてもらえる訳がない。です。 他人は自分の鏡の様なもの。例えば「おべっか」を使わない人におべっかは通用しません。「おべっか」が分かるのは「おべっか」を使う人だと思います。 質問者さんは、他人の中に「自分のものさし」を求めていませんか? 良い対応の人も、悪い対応の人も、今の私にとっては同じ「いつもそういう人」と感じます。

ta999
質問者

お礼

ありがとうございます。更なる疑問です。 一番速くて明日でいいので(今日?)、お答えください。 >「いつもそういう人」 うんうん。ここに本質があるんだと意識では思うのですが、疑問がわいてきます。「こいつ嫌だから不愉快にさせてやる」、「こいつのしゃべり方が気に食わないから、皆の輪から排除してやる」という言葉が浮かびまして、 「特別私の何かの欠点が相手を、(私以外の人を嫌う場合に比べて)強力な拒否反応に駆り立てる。」という状況を心のどこかで想定してしまうのです。(しかもそれが心を支配する) 人格に何ら「ハッキリとした」問題がない場合において(ちょっと変わっている程度。特定の人を貶める悪口を言いふらしまくる、とか誰彼かまわずにらんでしまうとか、たいへん暴力的とか、そういうのでは全然ない場合)、私を強烈に激しく嫌う理由というのは考えられないですかね? (不潔、相手にとって生理的に受け付けない顔だった、そして性格が極めて悪質である。あるいは、怪奇的・危険な雰囲気を漂わせている。以外の場合で、) もうひとつです。 回答者さんは、自分が正しいと思うことをしたのにもかかわらず嫌われた・疎まれた(と感じた)場合は、相手との相性が悪かったとか、相手が悪く受け取る人、相手を裏切るタイプの人だったとか、そういう風にお考えになると思うのですが、そうですか?(要するに、私の中に多くの人に「嫌われる必然」があると考えるよりは、自分ではどうしようもない「運」や「間」が悪かっただけ、と考えるのですか)

noname#130062
noname#130062
回答No.1

自分にも思い当たるフシはあります。 落ち込んで精神科に行くことを勧められた時は総合失調症と診断されました。 私自身だと結局は「好かれたい」の裏返しだと思っています。それを乗り越えるのに「自分らしくあろうとすること」と考えると何度も空回りしたので「人間らしくあろうと足掻くこと」にしてます。 あとは「なるようにしかならないのだからどうせなら自分のやりたいことをなるべくやる」ようにしたいのですがナカナカうまくいきませんね(笑)。

ta999
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >「なるようにしかならないのだからどうせなら自分のやりたいことをなるべくやる・・・ これは、人目を気にしすぎてしまうということでしょうか。

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