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一面的(表面的)な見方への悩み

いま、自分が生きているとき、「ふざけんじゃねぇよ」みたいな批判を果たして自分が完全に言えるのか疑問に思い質問させて頂きました。 ある一人の人間が犯罪を犯して、僕は「ふざけるな」と思ったりするのですが、その犯罪をした人がそうなるまでには様々な人生の過程があったと思います。その人を育てた親、そして、その親たちを育てた親、そして親たちが作り挙げた社会、ルールなど、実に様々な事があります。 また、お金持ちの人の高級な靴を見て、「そんなの必要ないだろう」と思うと、実は、かなりの貧乏の人から見ると、僕の靴も贅沢品に見えたりしたりします。 最近、マルクス系の資本主義の本を読み、ショックを受けましたが、実際の人間関係の気持ちの面などを考えると、希望を持てたりします。 自分が今見ていることが、実に表面的な事しか見れていなくて、そして、それを見て批判すると、自分はどうなのか?というシッペ返しにあったりします。実際、自分は悪意を持って政治家や犯罪者など完全にすべてを否定することはできないような気がします。 そうなると、どんどん口をつぐんでいく自分がいます。元来、性格的に「ふざけるな」などという言葉を発する人間で、それを言ってすっきりする時もあります。また、友達やテレビなどでも「ふざけんなよ政治家」などと言っているのを見てすっきりすることもあります。 「明石家さんま」さんなどのお笑いの人や、実際の社会でも表面的な物事を見てバカにして笑ったりしますよね。自分もとても楽しい気分になります。それは、たぶん人をバカにする事への悪意の有無の違いだと思います。こういう悪意が無い批判は面白かったりもします。 そういう事に関して、皆さんはどう思いますか?やっぱり、口をつぐむしかないのでしょうか?そのような事に答えと言ったものは存在しないと思いますが、教えてください。そういった本なども教えてくれると助かります。よろしくお願い致します。

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  • C25
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回答No.4

>自分が今見ていることが、実に表面的な事しか見れていなくて、そして、それを見て批判すると、自分はどうなのか?というシッペ返しにあったりします。 実際、自分は悪意を持って政治家や犯罪者など完全にすべてを否定することはできないような気がします。 あなたは何になりたいのですか? 審判者ですか? 何であなたがジャッジするのですか? 何故相手の意見だけでなく、存在そのものまで否定する必要が在るのですか? 犯罪者だろうと、自己利益取得に走る有害な政治家だって、あなたが批判することはできても、何の権限があって否定するのですか? 彼らには彼らの理屈がありそれに基づいて動いている。 しかし、社会に重大な障害をもたらす可能性があるから、社会から制裁を受けて排除されるのが犯罪者です。 なんで、あなたが個人的に否定するかどうかを判断されるのでしょう? >「ふざけんなよ政治家」などと言っているのを見てすっきりすることもあります。 それには根拠があるわけでしょう? 納得いかないことがあり、もっと別のやり方があるんじゃないかと考えるがゆえに不満が溜まる。ごもっとも それを否定と一緒にするのは間違い。 別の方法論を提案すればよい話ですね。 ふざけるなと批判するだけの人間を私は軽蔑します。 相手を批判する以上、それ以上の方法論とだいかえ案を提案できないのに批判することはできない。 犯罪者については、ここの犯罪者に事情があるのでなんともいえない。 ただし、事情があっても犯罪は犯罪 だけど、罪を償った後は人間性で判断しなければいけないと私は思う。 過去の経緯だけで、判断してはいけない 人間は過ちを犯すもの 今、どう考えどう行動するかが問題なんです。 だから、人を批判するのは安易にするべきではないが 批判していけないというものでもない 否定と批判を取り違えないでください。 否定=相手を打ち消すようなおごった意識  は肯定できませんが 批判=相手の意見とは別の意見があるのだ と主張することは建設的意見を伴う場合がある

その他の回答 (5)

  • taka-aki
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回答No.6

矛盾を創造的に解決するところに進歩があるのです。 相手をバカにしてるだけでは進歩がありません。 単なる批判ではなくて、創造しましょう。 世界を自分たちの手で作るのです。 では。

回答No.5

そういうことがわかって、間違って居たらしっぺ返しが来ることを理解して、 でも自分のわかっている範囲で何かに対して、批判をしたり、注意をしたり、駄目出しをしたりする行為は必要だと思いますよ。 自分が知りもしないことを考えて何も言えないのだとしたら、 誰も何の話しも出来なくなります。 他人を思いやることは大事です。 他人を思いやり、他人の立場に立って考えて、最後は自分の立場で自分のために行動をする。 そうしないと誰も何もいえないし何も出来なくなります。 知らないことは知らないことと割り切ることは必要です。 ただ、知らないことを知らないのと、知らないことを知っているのは大きな違いです。 知らないことがあるけど、知っていることで考えで判断して行動をしていくしかないですよ。 そして、行動しているうちにまた新しいことを知ります。 知ったらまた考えを修正すればいいんです。 知らないことを知っているふりをすることは、知らないことを知らないと言って知っていることだけで判断するより良くないことです。 だから自分の知っていることで考え判断して批判したり、注意したり、駄目出しをしていいですよ。 ただ、それに対して自分で責任を持った行動をとる必要がありますよ。

  • unicpp
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回答No.3

自分に他人を「ふざけるな」と罵倒する資格があるのかと思われたのですね。 私は、「ふざけるな」的憤慨のほとんどが八つ当たりだと確信しています。 八つ当たりとは、いうまでもなく怒りの原因とは違うものに怒りの矛先を向けることです。 牛肉偽装から、例の秋葉原の事件まで、およそ事件の当事者でない者による非難のほとんどが八つ当たりだと思っています。 ヒヨコが生まれて初めて目にした動く物体を母親だと認識するように、虫の居所が悪いときにたまたまテレビで目にした「悪」をみて、それが虫の居所が悪い原因のように思い込んでしまう、そういう倒錯があると思います。 こんな風潮を招いてしまったのは、何らかの理由で「本当は自分が何に怒っているのか」と問わなくなってしまったからだと思います。 ストレスの原因が個人の力では太刀打ちできないほど圧倒的なために、あえて鈍感になることで我が身を守っているのでしょうか。 もともとヒトの脳はそのくらいルーズなのだという説もありますが、「分別」という言葉もあるくらいですので、もともとは八つ当たりは忌避するべきという規範意識はあったはずです。 もし、「今、さんまのいったことに対して腹が立ったように感じたが、もともと今日は虫の居所が悪かったから、本当はそのせいじゃないのか?」と自分の感情をモニターするもう一人の自分を設定できれば、八つ当たりはかなり減るはずです。 また、この反省を重ねることで、本当にこれが原因で腹を立てていると断言できるほど怒りの原因を突き詰めることができ、相手(あるいは自分自身)に落ち度があると確信できたら、口をつぐまず堂々と非難してもよいと思います。そういう非難は世の中を良くするものでしょう。 それが無理な場合は、穏便なストレス発散法によって八つ当たりを回避すべきです。 なかなかややこしい問題ですが、たまに似たようなことを考えている人はいますよ。

回答No.2

なるほどこれが中間層の人間の物の見方なんですね たとえば1番さんのいう芸能人は批判されてナンボだということが書かれていますけれども、そのぶん一般人より好い思いもしてるということですよねなぜ批判に耐えられているのかということでしょうか 自分の位置がどこにあるかということが理解っている人は口をつぐむ必要もなく、自分の持っている目線で物を語れるだろうとおもいます 理解っていない方はしっぺ返しされた時に恥をかくということになるので口をつぐんでしまうということでしょうか ということで自分の位置を受け入れることのできる人は知っておくべきだということですね耐えられない人はそのまま現実逃避して笑われていればいいということですね

  • nomori
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回答No.1

>自分が今見ていることが、実に表面的な事しか見れていなくて、そして、それを見て批判すると、自分はどうなのか?というシッペ返しにあったりします。 ここの部分がおかしいかな…。 なんで批判されたら「自分はどうなのか?」という話になるんでしょう…。 私の身内に芸能関係の仕事をしている人間がいますが、批判されまくりですよ。そりゃあもう、言うのは容易いと言わんばかりに批判の嵐です。私は内部を知っていますから、その批判が如何に理不尽か知っていますが、批判する人に対して身内は(まして私は)じゃあおまえやってみろよ!なんて言いません。 やるのは本人ですから。 批判までひっくるめてひっかぶるのが、プロです。政治家になる人間は批判する人間に「じゃあおまえやってみろよ」なんて言いませんよ笑。犯罪者だって、同じ状況の人間なんかたくさんいるわけです。結局犯罪を犯すかどうか、それは本人の意志です。親とか社会とか最終的に関係ありません。 ただ、自分の見ていることが表面的かもしれない、という認識は正しいと思います。 どんな本でも猜疑心なしに信じてしまうだけでは、思考力は身につきませんし、薄っぺらい人間にしかなりませんから。 報道に関しても同様です。 マスコミの語る言葉すべてを信じてはいけません。 「ふざけるな」と言うのは自由です。 それが主観的な発言か、客観的な発言か。 そこが問題です。