• 締切済み

害虫などの駆除でも生き物を殺すことが結構辛いです

私は神経質なのか、ゴキブリなどを駆除する事でさえ、生き物にとても申し訳ない気持ちで一杯になってしまいます。生活に必要な事だとわかっていても、やはり苦しみつつ昇天していく何も悪さをしていない(食物を探しにきただけの)ゴキがいたたまれず、運が悪かったと思って許して欲しいと思ってしまいます。衛生面もあり、そのままにもしておけませんし、見つけるとやりきれない気持ちでスプレーしています。 (気持ち悪いのもありますが、やはり可愛そうと思ってしまいます) 以前、魚釣りで釣った魚を逃がしてしまい、同行者にヒンシュクを買ったこともあります。自分はたくさんの生き物の命で生きながらえていることもわかっていますが、牛や豚や鶏はとても痛くて怖い目にあって食用となっているのだろうと必要以上に思ってしまったりするのです。 世界には、野生もあれば、貧困もあり、そんなこと思うことなど贅沢のきわみ、或いは虫についても考えすぎなのかもしれませんが、そんなことを考えたり、ショックを受けたりする自分はどこかおかしいか、精神が病んでいるのでしょうか。皆さんはどのようにお考えでしようか。 また、このような気持ちをどのように処理していったらいいのでしょうか・・何かお気づきの方教えてください、宜しくお願いします。

みんなの回答

  • lily-lis
  • ベストアンサー率37% (3/8)
回答No.10

こんばんは。 文章を読んで、素敵な方だと思いました。 長文になりますが、私も同じようなことを日々考えているので、答えさせてください。 私は虫が嫌いですが、それでも殺そうとは思いません。 ゴキブリが家に出ても、なんとか外においやろうとしたこともあります。 蜘蛛も普通に手で触って外に逃がしますし。 それどころか、生き物でなく全ての「物」にそういうことを感じていますから、生活しにくいです。物に当たることができませんから。しかも、この前はついに、ゴミに愛着を持ってしまいました(その後ちゃんと捨てましたが) また、私は馬や牛、鶏も普通に見て接して育ちましたが、馬肉・牛肉・鶏肉は食べられます(けれども、うちの祖父は鶏→鶏肉になる過程を見たことがあるらしく、肉を食べられません) 「いただきます」「ごちそうさま」はそのためにあるんですよね。 命を奪ってまで、生きようとしている私。 きっと、この19年、私が奪った命は相当な量のはずです。 だからこそ、この命が尽きるまで一生懸命に生きたい。 質問者様のような考えがもっと広がれば、自殺者は減ると思うのです。 ちなみに、動物の肉を食べない、菜食主義者の中には「生き物を食べてない」と自慢げな人もいるみたいですが、私にとっては植物も生きているので、特に威張ることはないと思ってます。 質問者様の考えは贅沢ではないです。むしろ尊敬します。 ちょっと難しいかもしれませんが、視点を変えてはどうですか? たとえば、私たちが動物を殺して生きることについては、 「私たちが食べなければ動物が増える」「動物が増えたら植物が減る」「植物が減ったら酸素がなくなる」「地球温暖化がすすむ!」 別に最後は環境問題につなげなくてもいいのですが…。 私たちは生態系の頂点として(←この考えすらおごりですが)、動物を食べて一定の生態系を維持する義務・使命があると思います。 「生きるためには最低限の殺しが必要である」 これは私の考えです。賛否両論が巻き起こりそう。 山奥の民族はきっと今日も狩猟で生活しているでしょう。けれど、それは仕方がない。「生きるため」だからです。また、そういう狩猟民族は、食物の貴重さを知っているから食物を無駄にしない。そういう殺しは、私は認めるべきであると思ってます。 けれど、「乱獲」はどうでしょう。これは生きるため、でしょうか?「乱獲」をする人は生きるために乱獲をするのではありません。生きるためならば、必要最低限の数を獲得すればいいじゃないですか。儲かるから「乱獲」するんですよ。これは認めがたいものだと思います。 「命をもらうから、私と一緒に生きて」 って。そう思って、美味しく食べればいいと思います。 弱肉強食を理解できていないのは私たち人間だけですから。 ちなみに虫には感情はないそうですよ。

m3o3m
質問者

お礼

ありがとうございます。文章によるとlily-liさんは19歳なのでしょうか。りっぱな考えをお持ちなのですね、若い方でもちゃんと命を慈しむ心をお持ちで、地球温暖化もちゃんと意識されていて、偉いなあと、ところどころ涙が出そうでした。そしてそのような考えもあるんだなと思いました。その通りで人間とて自然の中で生きる生き物ですものね、生態系がありました。必要以上に食べ物を無駄にせず、大切にしていれば飽食や肥満からの病気もなく結果的に健康でいられるのかもしれませんし、健全な地球に貢献できるのかもしれません。 家の中に迷い込んだ虫を無事に外に誘導するのは私もやります(笑) ハエとかまで・・。夏の夜に街灯に集まって踏みつけられがちな黄金虫などは気の毒で仕方ないですね。ゴミはスゴイですが、物を大切にしようというお気持ちは理解できます。私も野菜くずなどなるべく出したくないです。人差し指くらいのサボテンも可愛がっています。でも時々、同居中の猫を甘やかしすぎてはいまいかと、思ったりもしますが・・。 >馬や牛、鶏も普通に見て接して育ちましたが・・ やはり小さい時動物に触れる機会が多い人の方がそのような気持ちになるのかもしれませんね。私も、よく夜店のひよこを鶏に育てたり、家にはずっと生き物がいました。大学では馬術部でした(そのせいか馬肉はほぼ食べられません)おじい様みたいに、お肉になる過程を見てしまったらさぞお辛いでしょうね・・絶対ダメになるかもしれません。 狩猟しかない極寒の民族もまだまだ世界にはありますし、こんなことを 考える私は何かにもっと必死にならなければならないのかもしれません。自分が少し恥ずかしくなりました。せっかく頂く命であれば、おいしく食事を頂いてより良く生きていかなければいけませんね。 回答どうもありがとうございました、感謝致します。

回答No.9

私もm3o3mさんと全く同じです。 今日、テレビ番組でタレントが牧場を訪れ、「これ、●●牛(ブランドの食用の牛肉)になるんですか?」と問いかけ、牧場主が「いえ、解体は・・・」と語り始めたところでテレビを消してしまいました。 この会話の直前には「うわ~、かわいい~。目が優しそうですね」と言っていたのにこの会話・・・。 聞くに堪えませんでした。 私は肉、魚、貝類など・・・かつて命があったものは決して口にしません。 外食でそういったものが出てきたら、同行者の注文したものであったとしても「私はこの命を消した・・・」と罪悪感に苛まれます。 初めて食事に行った人は「肉、魚などは食べない」と言ったらかなり変な目で見られますが、それはもう気になりません。 植物においても同様で、引きちぎるのはもちろん、踏みつけることにも抵抗があります。 自分の内心での処理ですが・・・ 「ごめんなさい」と死んでいった生き物たちに謝って、罪悪感を抱えて生きています。 私は口にはしませんが、私と同じ人間のために命を奪われた生き物たちの命を背負っているつもりでいます。 でも、それが重荷になっているというわけではなく・・・ 心の中で浄化されるまで、その命と共に生きている、という感じでしょうか。 「殺した」「命を奪った」 そういう感覚もなく、当たり前のように肉や魚を好んで食している人たちには理解されないし、話しても「言わないでよ・・・」と現実を見ようとしません。 でも、奪われた命のことを想い、痛みを感じることのできるm3o3mさんになら理解していただけるのではないかと思います。 長くなってしまいましたが、少しでも参考になればと思います。

m3o3m
質問者

お礼

ありがとうございました。やはりそのようなお考えの方がおられるのですね。しかも食されないというkikyou-neonさんは、私みたいに口だけでなくすごいと思いますし、これは人がなんと言おうと、変人とかではなく個人の本能的な問題かと思います・・また家畜を育てている方も本音はきっと同じで、本当に大切に育てた命を手放す時はいちいち言ってはいられないけれど、いたたまれないのだろうと想像しますし、そうであって欲しいですよね。鳥インフルエンザなどで養鶏所の鶏が何万羽も狭い檻の中で感染したといって、消毒薬で皆殺しにせざるを得なかったりするのも悲しくて仕方ないですね・・。また、活き作りや踊り食いなども私はとても残酷な気がしてとても正視に堪えません。あれは日本文化なのでしょうか・・。毎日私たちの食の糧になってくれている動物、植物を思い感謝する気持ちを忘れないでおくことは悪い事ではなく、必要な事だと今更ですが気づいて良かったです。私もkikyou-neonさん同様、植物や動物を大切にして生きて生きたいと思います。 回答どうもありがとうございました。

  • ecoyan
  • ベストアンサー率40% (68/166)
回答No.8

精神的に病んでいるなんて、そんなことは全くないと思います。ただ、生真面目で繊細で、生き物の身になって考える慈悲の心の深い方なのだと思います。 お釈迦様も、多分全てのものに恵まれていたせいもあったのでしょうが、自分が地面を歩くだけでも虫たちを殺している、殺生せずには生きられない人間という存在に悩み苦しんだといいます。 私も若い頃は、虫はおろか雑草を抜くにも罪悪感を感じたりしたこともありました。でも、毎日の生活に追われているうちに自然にあまり気にならなくなりました。 お釈迦様は修行の末に、あ、そうだったんだ!と悟りましたが、私には未だその悟りの内容は分かりません。 もし神様がいるとすれば、なぜ人から忌み嫌われるゴキブリのような動物を創造したのか、その答えも未だに私には分かりません。 仕方がないので、ごめんなさい、と手を合わせて殺したりします。 食肉も、今の時代は動物が苦しむ姿も見ずにパックに入ったものを食するだけですが、以前トサツ場の近くで殺される時の悲鳴を聞いた際には、もう絶対口にするのは止めようとも思いました。 アメリカのインディアンを含め昔の人は、捕獲した動物に対して、自分の身を捧げて人の生きる糧となってくれることに感謝の祈りを捧げて食したといいますが、質問者さんがそういう時代に生きておられたら、こういうことで悩むこともなかったかもしれませんね。 ・・・でも人間は殺すだけじゃなくて、生かすことも沢山します。例えば植物や動物を育てるとか、子供を作って育てるとか、優しい言葉をかけて人に元気を与えるとか、プラスのことをしようと思えば無限にあります。そちらの方に注意を集中すれば良いのではないでしょうか。そうしているうちに、すごく悩むほどには気にならなくなるのでは、と思います。 逆に、人はなぜ殺さなければ生きていけないのか、・・というようなて疑問に関しては哲学的な問題として、あるいは自分に与えられた課題として、色々本を読んだり徹底的に追求してみるのも良いのではないか、と思いました。  とりとめのない答えになってしまいましたが、何かのお役に立てば幸いです。

m3o3m
質問者

お礼

ありがとうございました。慈悲の心など大層なものを私が持ち合わせているかは不明ですが小さい時からとても動物が好きでしたので、それもあって感情移入してしまうのかもしれません。 本当に生には不思議が一杯でこのような問題はおっしゃってくださっているように、哲学的な問題で深いテーマですね、これを機会に関連の書物など読んでみたいです。 以前見たテレビで、ウサギを食べる国があり、捕獲した袋から出す時に乱暴に扱ったので足の骨を折ってしまい鳴かないウサギが悲鳴を上げた場面がありました。食するということは、ある意味残酷なことで毎日並んでいるお肉パックの影にどれだけの恐怖と痛みがあっただろうと思うようになりました。 私も実家の近くにトサツ場があったのですが、悲鳴を聞くのが怖くて子供心に見ないふりして通りすぎていました。やはり悲鳴もすごいのですね。家畜も怖くない、痛くないわけないと思うのです・・でも、この前の神戸の震災の時、丁度実家(九州)に帰省しており、何台も緊急支援トラックがトサツ工場から出て行っているのを見て、ああ、動物も辛かったろうけど役に立ってるんだなあ、って思ったりしてました。 >アメリカのインディアンを含め昔の人は、捕獲した動物に対して、自分の身を捧げて人の生きる糧となってくれることに感謝の祈りを捧げて食した そうなんですね、現代の日本では賞味期限とか使いまわしとか、無農薬とかの方が問題で命はあんまり出てこないですね。出てきて狂牛病でしたっけ。。 ecoyan様は心優しく、雑草も抜けなかったとのこと。やはりそういう感情をお持ちの方もおられるとのことで私だけが過敏というわけではないことがわかりました。アドバイスを受けてもう少し産み出すことにも意識を向けて過ごしてみようと思います。この時代あまりトサツなどの現状を知る機会がないですが、できるだけ感謝の気持ちを持って生活しようと思いました。ご回答ありがとうございました。

  • MYZWKD
  • ベストアンサー率16% (4/24)
回答No.7

m3o3mさんは感受性豊かで、優しい方なんだと思います。 よって、人よりも苦労することが多そうではありますが… 自分もたまに思います。 そう思うこと自体は悪いことではありません。 下の方も仰ってましたが、食べ物となった命に感謝することだと思います。 「命を頂いて自分の命がある、これは人の業だと思う」 まぁ美味しんぼにあった言葉なんですが; ゴキブリ云々ですが…輪廻転生って聞いたことがあるでしょうか。 生前、悪いことをした人は、地獄・餓鬼・畜生になるという仏教の思想です。 ゴキブリも、もしかしたら生前悪いことをしまくって、その罪でゴキブリに生まれ変わったのかもしれない。 となると、死んでその罪を償ったゴキブリは、生まれ変わってもっといいところに行ってるかもしれませんよね!? 人が交通事故で亡くなるのも、ゴキブリが害虫として駆除されてしまうのも、その命の天命なのかもしれません。 と、思うのはいかがでしょう。

m3o3m
質問者

お礼

ありがとうございます。確か変なところが神経質だと思います。 >「命を頂いて自分の命がある、これは人の業だと思う」 今日はこのサイトに質問して深いテーマを勉強しました(美味しん本でも)。 なるほど、輪廻転生も含め生命には何か理由があるから、他の生き物の命で生きながらえて、種もたくさんあったり、運命があったりと不思議な事がたくさんあるんでしょうね。自然を受け入れ、素直に生を受け入れることで良いのかも・・と少し心が整理された気がします。 ご回答感謝致します。

noname#63315
noname#63315
回答No.6

お気持ちもありますが、世の中は弱肉強食のピラミッドから成り立っていることを意識しないといけなでしょう。 中には、ベジタリアンになればいいと意見も出てくるかもしれませんが、植物も生きています。 自分がそれら生物を糧として生きていることをしっかり意識し、無駄にしないように心がけるだけでいいでしょう。

m3o3m
質問者

お礼

ありがとうございます。わかりました、もっと生物としての自分に素直 に生きていいのだと思いました。他を哀れむようなたいそうなものではないはずなのです・・。いつか恐竜時代みたいに生物の立場が逆転することもありえるわけですしね。

  • Roman0
  • ベストアンサー率18% (118/628)
回答No.5

 毎日何千万の細菌を体内で殺し続けているあなたらしくも無いですね。それとも、細菌は平気でも虫はダメですか?  仮にそうだとしたら、その線引きは何なんでしょう?  いずれだとしても、所詮は感傷です。  あなたに余裕があるから、並より多く長く感傷を引きずっているに過ぎません。  無論それもヒトの個性ですから、別に良し悪しではなく、単にそういうものだということに過ぎませんが。  対処としては、感傷が不快だったら慣れましょう。多く殺せば殺すほど慣れます。農家の皆さんなどは、それこそ敵と思って虫を退治していますし。  さして不快でないとか頻度が高くないから対処するほどでもないのなら、毎回感傷を抱くたびにとほほと思いましょう。 > 牛や豚や鶏はとても痛くて怖い目にあって食用となっている > のだろうと  擬人化のしすぎです。  本当に動物が「怖い」と思うかどうかは、誰にも分かりません。ただ、ヒトにはヒト以外の動物にでも、非生物のモノ(人形など)にですら感情移入できるので、勝手に想像してしまうだけの話です。  また、痛いかというと、最近の屠殺技術は進んでいて、たいがいはほぼ即死させますから痛みを感じる間もないか、一瞬です。屠殺設備だって処理時間が短いほうが生産性が上ですし、相手が暴ない方が機器の減って経済性あがりますから、そういう工夫が常にされ続けているのです。

m3o3m
質問者

お礼

ありがとうございます。確かに動物や虫でないので、痛みや感情の真相はわかりません。最近の屠殺技術が進んでいて、たとえ即死でも、犬や猫が保健所で殺される前に殺気を感じて怖がるように、家畜も恐怖を感じるだろうとか思いますが、すべて想像に過ぎませんし、考えても仕方ないことなのだとはわかっています。そうでないことを祈り、感謝して頂くようにします・・。野生のサバンナではもっと残酷な生の営みがあるわけですしね。生き物はなぜ他の生き物を殺して食べて生きるしかないんだろう(野菜でもいいけど)とかまた変な事を思ったりしてしまうのです(だぶん私は変なのでスルーしてください)。 細菌との線引きは、知らないうちに殺してしまっているのと違い、自主的に殺してしまったにも関わらず目に見えるし、苦しいのではないかと矛盾して辛くなってしまうところです。いずれにしても感傷に浸っている程余裕も暇もないのですが、感情が感じてしまうので心の病かもと思ったのです。でもたまにしか出てこないから余計かもしれませんね、、 ご回答は大変現実的なもので大変参考になりました、ありがとうございました。

  • suunan
  • ベストアンサー率14% (224/1569)
回答No.4

仏教のお経を唱えれば虫も成仏することになっています。 大声でお経上げるわけには行かないでしょうが、 しらべればそれに準じた行為がなにかあるとおもいます。 たとえばチベット仏教にはマニ車という小さな道具があって 回すとお経を唱えたことになるそうです。

m3o3m
質問者

お礼

ありがとうございます。「南無阿弥陀仏」でもいいでしょうか。 スプレーで感覚が麻痺してくれていればまだいいのでしょうが、やはり死んでしまうまで少し時間がかかるので、虫も痛かったり、苦しかったりするのでしょうか・・。なるだけ手を合わせるようにしたいと思います。

  • nomori
  • ベストアンサー率32% (64/195)
回答No.3

宮澤賢治のような方ですね。質問文を拝読していて銀河鉄道の夜の蠍の話を思い出しました。(いちおうリンクを貼っておきますね) あと、「以前、魚釣りで釣った魚を逃がしてしまい、同行者にヒンシュクを買ったこともあります。」とありますが、魚釣りを楽しむ方の中には「釣り」を楽しむだけで釣った魚はふたたび返す、という方も多いです。お気になさる必要はないと思いますよ。 No1の方も仰られてますが、気持ちの処理をどうするか、と言えば、それは、常に「感謝する」ということです。 食事の前に手を合わせて「いただきます」を言い、食べ終わったら「ごちそうさま」を言う。ゴキちゃんを殺しちゃったなら、素直に「ごめんなさい」と謝りつつスプレーをかけましょう…。 まあ私は迷わずスリッパではたきますが…。いかんな。

参考URL:
http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/456_15050.html
m3o3m
質問者

お礼

ありがとうございました。宮沢賢治とは恐れ多いですが、確かに自分は弱いくせに、災害とか貧困とか助けてあげたいという気持ちはなんだかいつも本能的に常駐してる感じです、別にいつも蟻とか眺めて暮らしているわけではないんですが・・。リンクありがとうございます、後でよく読みます。ジョバンニのように心がウルウルした純粋さかはわかりませんが、どこか私は子供なのかもしれません。 >まあ私は迷わずスリッパではたきますが…。 こちらが、わりと普通と思うんですが(笑) その方が潔くゴキちゃんも即死できて楽なのかもしれません。 魚釣りの件も今少しホッとしました、デリカシーがなかったのかと思って結構長い間心に引っかかってましたので。 皆さんちゃんと貴重なアドバイスくださって質問してみてほんとに良かったです。

noname#108916
noname#108916
回答No.2

回答になってないかも知れませんが。 m3o3mさんは心が広いんですね! そう考える事は凄いと自分は思います!だってそう考える人は少ないですから。 自分もたまに思う事ありますよ! そう考えるのは自分はいい事だと思います。 だから、その気持ちを処理と考えるのでなく、自分の長所と考えたらどうですか? それでも、気になるなら無理かも知れませんが少しだけしょうがないと思うしかないと思います。 自分はそうしています。 すいません、全然回答になってませんね。

m3o3m
質問者

お礼

ありがとうございました。自分は逆に心が狭いか、自分の身勝手さに同情するウザイやつかと思ってましたので、少し安心しました。今日も小さめのゴキブリを退治した時、仰向けで両手足(6本)を丸めて、それでも死に切れない姿をティッシュで包むときに、もうやりきれなくなって質問してしまいました。そうですか、こんな気持ちがあって良いのなら鈍感にならずに、仕方なく殺してしまった時は、この気持ちのまま拝んで見送るしかないのかもしれません。小さい虫がお風呂の淵をさまよっていても、落ちないように逃がしてあげたりしてしまいます、私はバカなのか出家でもしたほうがいいのか、前世に何かあるのか・・時々あきれるときがありまして・・回答感謝します。

回答No.1

おかしくないです。 質問者さんはお優しい方なんですね。 虫でもなんでも生きています。 殺すのが可哀想だと思うのは普通です。 ただ、殺してもなんとも思わない人がいる事も事実ですが、その人はその人、貴方は貴方です。 ですが人間、他の生き物を食べないと生きていけません。 ですが、貴方が食べるということは、その生き物の命をもらってるんです。 「可哀想可哀想。」 と思っていたらなんだか、命をくれた生き物に失礼じゃありませんか? 「命をくれてありがとう。」 そう思いながら食べてみては…? 命をもらっているんですから、お礼の気持ちさえあれば、大丈夫です。 古い感じになりますが 呪われる話などあっても、貴方は呪われたりしませんよ。 無闇に殺したり、ご飯もいらないから残したりする我侭な人が呪われます。 余計に分かりにくいかもしれません…

m3o3m
質問者

お礼

ありがとうございました。なんだか涙が出そうです、その生き物達の命をもらって自分が精一杯生きる事がせめてもの供養なのだと気づきました。ゴキについては、とりあえず家へは出てこないで良い環境にしようと思います。大変参考になりました。

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