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最近の柔道の質の低下を嘆く(技・ポイントの判定)
柔道経験者で、二段です。最近、と言っても、特にアトランタオリンピック(1996年)の頃からですが、全日本選手権以外の大会で、「一本」「技あり」「有効」、さらに国際大会では「効果」を取る「取りどころ」とでも言うのでしょうか、「これなら一本」などと審判が取るところが、私が経験したり習ったりしたのと違ってきているというか、ずれてきているように感じるのです。 言葉で説明するのがなかなか難しいのですが、例えばアトランタオリンピックで野村忠宏選手が金メダルを取った決勝戦で「一本」が決まった場面ですが、私が審判だったら、せいぜい「有効」です。何だか、相手を背中に担いだまま、自分も一緒にその上に乗っかるようにしてジャンプして、そのまま畳についたら、それがポイントとして取られるのか、というのが、私には「技」として不十分に思えて、不満なのです。同様のポイントが、最近の試合に多いように思うのです。背負い投げ、肩車のときに多いですが、アテネオリンピックの内柴正人選手の決勝戦のときには、そのどれともつかない技「のようなもの」で、相手を一旦畳から引っ張り上げて、そのまま手を離してドン、と畳に落としただけで「一本」になるとは、嘉納治五郎先生やら木村政彦氏らが見たら目を覆いたくなるのではないか、とさえ思います。 「一本」は、「相手を勢いよく投げて、畳に背中をつける」、となったときに取られるべきもの、と認識しています。そして、「技あり」→「有効」→「効果」は、順に「それに準じるもの」として定義されているはずです。要するに、私がポイントとして認めるべきもの、と考えるのは、「技で投げたとき」にのみ限定すべき、というものです。早い話、背負い投げで相手を担いだ体勢で、相手を前に投げれば、私はそれで「一本」として文句はないのですが、最近の判定では、相手を担いだままジャンプして後ろにドン、と相手と一緒に畳に落ちるとか、横にゴロンと一回転しただけで「有効」とか「技あり」とか、ひどいときには「一本」とかが与えられる傾向にあります。 長々と書きましたが、まず、ひとえに審判の質の低下があり、それにつられてというか、甘えてというべきか、選手もそのような技(もどき)を仕掛け合うように、最近の柔道が変わってきたと思います。それでは私が何を望むかというと、オリンピック・世界選手権などで審判を務める人たちにライセンスを与えるには、古来の日本柔道の、「これぞ一本」というようなビデオを見せるなりして、研修・指導を徹底する、ということが必要であると思います。そうすると選手も、しっかりと技を磨くようになると思います。そうでないと、日本としては金メダルの数が増えてラッキーだったかもしれませんが、アテネでの内柴選手のような「技」で金メダルを取って喜んでいると、柔道の質の低下を招くことになると思うのです。 柔道にご意見をお持ちの方、上の私の意見に共感してはいただけないでしょうか。「一本を取る柔道」が美しく、真に強い武道の精神を追求することになると思います。現に私も、それを目指して苦しい稽古に耐えてきました。特に経験者の方のご意見を伺いたいです。乱文・長文でしたが、よろしくお願い致します。
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- arayata333
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先ほど気がつきましたが、 まだ締め切られていなかったので、 迷ってることを付け加えます。 鈴木選手が外国選手に負けた試合はテレビで録画ですがチラっと見ています。 内容はよく憶えていないのですが、斉藤コーチが執拗に抗議していたのが印象的でした。 明らかに技が決まった後のゴロンと回転しただけの形で背中を付けられてしまったことによる 敗因だったと思います。 しかし、どこまできっちりたたきつければ相手が反撃できないかという想像上の闘いのルールでは、実際には戦場では下からも反撃は可能なのですから、投げた後の油断無さも武道の内という点から考えると、この場合には もしかしたら外国の審判にも一理合ったのかな という印象もその時には受けています。 これは、外国の審判の勉強不足等について まだ知らない段にての印象だったので、いまでは また違った感想を持ってはいるところですが、 その油断のあたりの問題は むしろ今のほうが強く気持ちの中でゆれるものを感じてしまうところなんです。 フィギュアースケートでは 技術と演技構成点それぞれの相当に専門的で細かい評価のポイントがまさに専門の審判達によって付けられるわけですが。 柔道も格闘競技でありつつ、武道の表現構成の世界を「一本」のみならず「技あり」→「「有効」→「効果」の中にもさらに検討してゆく必要があるのかなといった感があるのです。 この前 崩しの部分≒力の必要な部分とかいう私自身の体からの印象や反省とかについて書きましたけど、 たしかに柔道に限らず、何ごとによらず技術の世界はベテランになるとむしろ力を抜いた技の方が大きなパワーを発揮したり、その技こそが発展していったりすると思います。 柔道という名称は その修行も含めてのことと思います。 でも だからこそ試合では力も使っていいし、時には強引さもあっていいのではとも思うのです。 レスリングの力任せの技法を学んでそれを生かしても 反則技でないかぎりOKでいいと思うのです。 それに勝ってこそ 柔道の技であり スピードとタイミングという柔の部分の工夫だと思います。 外国人の研究自体は、むしろ発展への契機とも捉えるべきところもあるのではと私は思います。 木村選手とエリオとの試合 ビデオで見たことがありますが、どきどきしました。 打たれるものがありました。 今回の問題を機に、 よりすばらしい柔道の復活が生まれるといいですね。 最後に差し出がましい事を書くことになるかもしれませんが、ありがとうポイントについて触れたくなりました(笑)。 ありがとうポイントを付けないと「該当者がいなかった」とう形で締めくくる形式となっていますが、 これで私も 最初の頃、迷いに迷ってOKウェーブに質問したり、その面で同じ迷いの人はいないか調べたりしましたが、今では、たいていはありがとうポイントは付けません。 その代り 回答者がお一人の場合はたいていポイントをつけます。 よくよく見ると ほとんどの回答者のご回答にはそれぞれ奥のある長所があったりします。 そこに優劣つけられるものではないですし、まして「ありがとう」という気持ちはみなさんにたいして同じ気持ちになります。 お礼文にて、その気持ちはわかっていただけてるところでしょう。 ですのであえて、どのように思われるかはいざ知らずとも、わたしは たいていはありがとうポイントはつけません。 今回の場合も もし私が質問者であったとしたら、 とても誰かのポイントをつけることは困難です。 私の場合は たくさん回答する機会が出来てしまいました。 しかし肝心の審判について けっきょく私自身、回答者なのに迷いに答えが出ていない、出せないでいたりします。 それを避けての回答のようなものとなってます。 私の回答にも長所はあるでしょう。 しかし、今回のここの御回答はそれぞれ学ぶところは多かったです。 あくまでこの規準は この場合は個人個人であるはず、柔道やフィギュアーのポイントのような客観的厳密性がなんらある世界ではないでしょう。 でも そのへんもし迷いがあるのでしたら、何かの参考になるかかなと思って付け加えさせていただきました。 ここの回答者様たちの場合特に、柔道が純粋に発展して欲しい方達ばかりだと思いますからポイントのことなんて忘れてると思います。 それにもう充分 礼節あふれるutu-re様のお礼の心 みなさん深く解ってると思います。 回答に 技術の深さとかとか関係ないですしね。 技術の深さを 今問うべきなのは 柔道の技と ポイントの判定ですからね(笑)。 以上です。 こちらこそ、いろいろ学ばせていただきました。 ありがとうございました。
- arayata333
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わざわざのお心遣いありがとうございます。 >そろそろ、この質問を締め切ろうかと思いますが、まだ言いたいことがあれば、おっしゃってください。 次ぎの回答までお待ちいたします。 いつも礼節あふれる温かいご配慮ありがとうございます。 また、 >まず、身の周りの生活をやりくりすることが必要ですが、精神は気高くありたいですね。 ともにその精神を保って、日々をいきてまいりましょう。 励ましのお言葉、 いつもありがとうごさいます。 書きたいこと自体はたくさんありますので(笑)、最後にお言葉に甘えてすこし付け加えます。 ビデオの録画案、今の私には「夢」でもありますが、 あきらめたりはしません(笑)。 補足というのは、別のことですが、 力を無視してるというわけではないあたりを、このサイトを訪れた一般の方に補足しておいたほうがいいのかなと思ったのです。 柔よく剛を制する というのはたしかにその通りでもあるとおもうのですが、 その柔の概念のあたりについて、若い頃の私のイメージは間違っていました。 たしかに、それはいざ崩しやつくりが充分な体勢にまで持ち込めればあとは ほんとうに一の力で十の力のものを投げることが出来るわけですが、 その体勢を作るまでの間には 時として相撲以上の[力」も必要な世界なのだという ことは、私の高校までの柔道体験の中では教わりませんでしたし、 生半可な私の頭では、そのまま柔道の柔とは 力は要らないのがその理想なのだいう概念がこびりついたままでした。 そうではなく 柔とは 力も含め体と心の全力でスピードとタイミングを追いかけてゆくうちに養われてゆく、柔軟でたくましい心身のことを言っているのだという その深い意味合いを私は その頃は気がつくことも無く、また教わることもなかったところなんです。 相撲も四つに組んでからは力が必要ですが、 むしろ投げの体制は流れで自然に生まれます。 柔道の方が投げの体制を作るための揺さぶりには力が必要なはずだというイメージや、 そのへんの大切さの感覚が あれだけ一生懸命やったのに若い頃には解りませんでした。 あの「禁止技」→「両足浮かし落とし」は、 これにはたしかに力は要らないという特徴がありました。 スピードとタイミング、あとは技の正確さ、これだけでよかったということです。 そのおかげで 後々柔道だけでなく格闘技全般に興味を持つようになってからは、 そのスピードとタイミングの世界の大切さも解ってくるようになったのですが、 あくまで、柔道が強くなりたいのならば、 力も(ガチガチの力とか、アンバランスな力とかのことではないですが、 詳しいわたしなりの考えも略しています。)必要ということは 付け加えておきます。 イメージとしては相撲以上だという点もあると憶えていいと思っています。 が、その上にて、やはりまさに「技で勝つ」という主張を私は確かに持っています。 そしてそのへんのところで、今回あの禁止技のお話が出来たことを有意義だったと思っております。 このページを読まれた方が そんなふうに理解していただけたらありがたいなと思い付け加えました。 けして全体の構成としては力が不必要なのではないということなんです。 なお、ヘーシングと神永の試合、私はちょうど武道館で見ていました。 一体何が起こったのか 会場ではよく解りませんでしたが 突然とてつもないような大きなことが起こったことは感じられました。 あとからテレビで事の次第を知った(笑)という感じでしたが。 doskoii様の紹介くださったサイトからも、なつかしくその会場の空気をいろいろ思い出します。 ヘーシングが木を運ばれたりして働きながら柔道もやられていたこと、またそのサイトの一部にてのヘーシングの質問からも おそらく力も必要だというあたりの柔道界への疑問もあったことが推理されたり、 その力を自然を相手に柔軟に鍛えようとしていたところ等々、 そのへんも 多いに参考になりました。 あるいは、別な方のヘーシングへの特殊なご回答では、 当時まさに「精力力善用」の「精力」の面で 荒くれ者とかもいたのではないかというそんな気もしてきました(笑)。 木村先生には 心技体全て劣っても、 けっこう強い年寄りとか荒くれ者とかはいたのかもしれません。 そんなのが やがてみがかれてゆく世界が柔道に限らず格闘技の1つの良さ、 そのへんも現代日本柔道の失われたパワーの世界かもしれないと ふと思いました。 示唆に富んだ、ご回答の1つとして読ませていただいています。 すみませんわたしに、まとめる資格なんてないですけど、 ちょうどこれで最後となるのであれば、 感想となってしまうところです。 みなさん この質問に対してそれぞれ気迫のこもったご回答を寄せていましたね。 それに対して 結局は まさに柔道の「礼に始まり礼に終わる。」の精神が全体に貫かれた、 すばらしい質疑の場となったと思います。 すこし 本来の柔道の精神のすばらしさを ここを訪れた方に示せたのではないかと思います。 質問者様の人格の技でもあったのでしょう。 多くを学ばせていただきました。 ありがとうございました。 utu-re様も、いつまでもお元気で、 お体を大切に、 おたがいさらに精進してゆきましょう。
お礼
ご回答誠にありがとうございました。お礼が大変遅くなり、誠に申し訳ございません。 柔道への熱い思い、そして、理論的に柔道や力と技を分析しようとする試みなど、頭が下がります。 なお、ヘーシンクと神永選手の試合を武道館でご覧になっていたとのこと、大変驚きました。まさしく、生き証人ですね。さまざまなご回答をいただいたこと、誠に光栄に存じます。 それでは、そろそろ質問を締め切ろうかと思います。締め切るときに、「ありがとうポイント」を選ばないといけませんので、今すぐにではありませんが、予告なく締め切ると思いますので、ご容赦下さい。最後に、ご回答下さいました皆様、誠にありがとうございました。柔道というものが、素晴らしい競技であり、武道であることを、考え直させられました。皆様もどうぞお元気で、心からお礼を申し上げます。誠にありがとうございました。
- arayata333
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哲学カテですと、さすが哲学する脳を持った生物が人間ですので(笑)、個性あふれる考えの人が ああでもない、こうでもない、とこのQ&Aの議論が混戦してくる時があるようなのですが、 スポーツですと、個性の強すぎる論議にはみんな遠慮してしまうという所もあるような気がして、こうした大勢の人が参加して欲しい問題については、書き続けるのが私自身気が引けてしまいます。 また、その分、意義のある回答をという責任も感じてしまいます。 doskoii様(相撲とりみたいな感じの名前ですね。相撲の世界にも詳しいのかもしれません。)に言われる 「みんなで柔道を考える」HPですか、その充実したサイトの立ち上げ案、 もし私にその面の頭の柔らかさがあるならすぐにでも始めたい気持ちがあります。 私の場合は 自分もそういうサイトの場作りを積極的にやってみたいという希望はもっています。 哲学のほうからの、総合的で客観的なスポーツ全般を扱う形の中でですが、 だからこそ、武術から直接、総合格闘技の研鑽の後に生まれ、総合格闘技スポーツの基礎ともなっている柔道の その道たるゆえんは、 スポーツ全体を考えても、これがもともとの創始者のすぐれた精神を失ってはおかしいのだということを 訴えられると思うのです。 発生としては ほとんどのスポーツが戦争状態の闘いを平和な神経の尊い状態の中でも生かすべくその知恵から生み出してきたものと考えられます。 歴史的にはそうではないスポーツにしても、 精神的は そこに巨大な価値を見つけるべきところなのです。 すこし横道にそれますが、わたしは子供の頃、南京の大虐殺に直接手をくだした人から そのお話を聞いたことがある者です。 虫も殺せない多くの日本の素朴な青年が やがて、震える手で仲間を少しでも守るために銃で敵を殺し始め、 それがとうとう威嚇的に 子供達まで生き埋めにしていったあの大虐殺の現場での神経となっていった姿を、彼は子供にも解るようにお話してくれたのです。 あってはならない世界が戦争です。 それを肯定するのが哲学なのではないです。 でも、そんな中にて武術家たちは、 強かったからこそ心に涙のゆとりがあったのです。 あるいは惻隠の情、 同じ人間が見えたのです。 でありつつ日本の武士の世界では、その頂点に立つようの人達からは、其の刃の下に飛び込んでそこに自他ともに生きるすべを見出そうとしました。 それが合気道へと繋がる日本の武術の世界です。 切るという動きは、スポーツ剣道の動きでは出来ないそうです。 もともとの合気道では、3年、特殊な打ち込みをやってからでないとその技を教えなかったそうです。 でないと成りたたないのが合気道だと思います。 そうした下地の上に、起当流でしたか(すみません、私は知識はあまりありません。)そうした他の武術との交流からのさらなる工夫から柔道は生まれたわけですが、 こうした根本を語れるのが哲学の世界のはずだと思うのです。 殺し合いの気迫とか、精力善用とかの実際を 平和時には誤解する人もいるでしょう。 そんなきな臭いのがスポーツでなく 楽しく参加できればいいのだというふうにです。 その楽しさという点には さまざまな価値があります。 でもだからこそ 其の奥にさらなる価値がある世界を 私達は語り継ぐ必要があります。 とくに柔道の世界を愛する私達は。 すみません、 抽象的になってしまい、話が中途半端になってもいる気がします。 あの[禁止技」ですが、名前は覚えていません。 というよりも名前があったかどうかも憶えていません(笑)。 小内刈りの一種とも言いがたいですし、名前を仮に付けるならば「両足浮かし落とし(笑)」といったところでしょうか? 私の説明で一番解りにくいところは、やはり両足を相手の右足の送り込んでぶつけるあたりだと思いますが、 これは剣道のすり足と似ていて、たぶん実際にはもっと簡単に上達するところのようです。 ともかく45度の角度でぶつかるという動きが、相手がちょうど並行に足をそろえた瞬間に出来るような位置にそれとなくこちらの体制や足の位置を持っていっていればいいのであって、 こちらの右足云々はあまり考えないでください。 45度の角度と、両足でのぶち当たりが可能であれば、いいということです。 意外と実際には そのスタート地点にそれとなく自分の足を歩かせることができます。 さとられないように あとは、むしろこちらも其の前の段にての右足の動きなんか気にしていないほうがいいかもしれません。 ともかく 木(多少リアルな重みもあるダミー人形)を相手の練習でそのとおりやれば、軟弱な私にもできたのがその「両足浮かし落とし(笑)」だったわけです。 でも、この技や[山嵐」の復活自体が目的ではないところです。 楽しみは 両方とも新鮮に楽しい技法の世界ですが、 私が現在魅かれる理由は それが日本の柔道の新しい研究熱に繋がったりするあたりのことです。 また、内股とか その禁止技とか、あるいは払い腰の変形の世界(追い討ちをかける動き)とかには、日本の武術の香りを感じるからです。(また抽象的な言い方となりましたが、 紙数がありません。) こうしたことを、実際にビジュアルにも伝えられるようなHP、 ワーキングプアーのネット音痴ながら、その「夢」だけは 捨てないでいようと思っています。 もちろん、他の人が土台は作ってくれ、それに、文章や、実際の動きとかで参加できるならそれが一番樂ですし、年寄りとしては、それを期待はしますけどね。 たぶん、そちらと同じ気持ちもあります。 ただ、私は子供の頃 何度も重い肺炎で死の床をさまよったせいか、 生きてる限り夢の映像の中には実際にはいない「友」の哲学というか 人間が生きる意味は、そういう[存在]の中で[夢」を捨てないことなのだという気持ちが強いです。 それは60歳になっても 同じですね。 何も出来ないかもしれないですけどね。 心はそんなふうにして生きてます。 おたがい、さらにがんばりましょう。 そちらも「みんなで柔道を考える」サイトの夢捨てないでください。 ドスコイ様も(笑)。 以上です。
お礼
ご回答ありがとうございます。お礼が遅くなり、申し訳ありません。 arayata333様の熱い思い、よく分かりました。arayata333様は、古武道からの柔道、合気道への由来などに、お詳しそうですね。大変参考になるお話でした。 「両足浮かし落とし」、なかなかよく技を言い表した名前だと思います。ビデオでこれを後世に残せれば、いいですね。この技をビデオで撮って、その映像を講道館なり全柔連なりに大切に保管してもらって、後世に伝えていければ、それは大きな財産となることでしょう。力だけではなく、「技で勝つ」という精神が、大切だと思います。 お話はよく分かりました。ところで、もうお話し尽くされたでしょうか。そろそろ、この質問を締め切ろうかと思いますが、まだ言いたいことがあれば、おっしゃってください。次のご回答までお待ち致します。 arayata333様もどうぞお元気で。まず、身の周りの生活をやりくりすることが必要ですが、精神は気高くありたいですね。ともにその精神を保って、日々を生きてまいりましょう。ありがとうございました。それでは、質問を締め切ってよいかどうか、次のご回答でご返事くださいませ。
- arayata333
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アラヤタ333です。 大歓迎とのこと、ありがとうございます。 今回も遅くなりましたが さっそく「幻の禁止技」書かせていただきます。 通常の、右手で相手の襟を持ち、左手で相手の右の袖を持つ、右利きの体勢での説明をします。 その古い本でもそうなっていました。 いつその技をかけるのかというタイミングが大事な技なのですが、 ともかく相手の足が 自分の正面にて左右平行にそろった瞬間にかける技です。 自然にも乱捕りの最中に何度かは そういうチャンスがあります。 相手の左足が前に出るときに何かをしかけるフェイントとかで、そのような体勢を作るという方法も多々あるかと思いますが、 それは本にも出ていませんでしたし、私もそのことはその研究まではしていません。 ともかく その相手の両足が平行のそろった瞬間に、自分の両足は相手の左足に対して斜め45度の角度でぶつけるところに自分の右足をそっと持ってきておきます。 そしてその瞬間に そのこちらの右足を機関銃のように(古い本にもそんなふうに書いていたと思います。)発射します。 その斜め45度の方向の左足にたいしてです。(この角度が大事なようです。) そしてその左足がぶつかる瞬間に実は右足もいっしょにその左足に両足そろえてぶつけるのです。 真横でしたらちょっとでもすかされれば こちらがひっくり返ってしまうわけですが、 これですと返し技もかけようが無いですし、やってみればわかりますが、 けしてこちらの体勢が不安定になるということもありません。 そして、相手の左足は、その時斜め後ろにではなく、 これが面白いのですが真横に上がっていきます。 その古い本でも、その「左足跳ね飛ばし」の形からは、その最後までを実際には一瞬にかけるのがコツなのだとかいてありましたが、 まさにその通りであるところ、 そんなの自分には出来そうに無いと思いつついざ木を相手に動いてみたら これもすぐコツはつかめました。 ここまでを(1)とします。 次ぎを(2)とし、その次の極めを(3)とすると、 この(1)(2)(3)がほとんど同時という感じです。 でも説明は、そうはいきませんね(笑)。 では、(2)の説明です。 (1)にて相手の左足が上がり始めた瞬間、相手の体を少し押します。これは簡単です。これを軸となった一本の右足だけで抵抗できるような力を持った人はいないでしょう。 つまりこの体勢ならば、どんな力の無い人でも相手の体を もっとも小内刈りしやすいように崩せるのです。 または「つくり」ができるのです。 もちろん、と同時に小内刈りをしかけます。 きちっと「作られた」体制からの小内刈りはもちろん簡単にきれいにかかります。 ここまでが(2)という説明となっています。 でも(3)は、実は小内刈りの時の腕や手の普通の要領と全く同じなのです。 右手を大きく円をえがくように右にまわす あの要領です。 つまり普通の小内刈りを知ってる人ならば、要は(2)までであとは自動的に相手の両足は、その小内刈りで 両足が自分の肩の上まで上がって肩から真後ろに相手はすっとんでたたきつけられるみたいになってしまうのです。 (2)を仕掛けて(3)をほとんど同時にしない人はいないでしょう。 ですので、問題は (1)でバシッと両足で相手の左足のぶつかった瞬間に フっと押しバシッと自分の右足の反動で相手の右足の軸足を小内狩りしてしまう時に、 そのずべてを一瞬でやるという感じの技であるわけです。 ほんとに相手の左足がまだ 浮き始めたばかりの間に相手の右足も小内刈りに刈れるので、両方の足の勢いが上にに向かっていってしまうというそういう技です。 自分の方は安定した体勢で相手から腕や手を右前にまわすので 相手の体はほんとうに浮き上がってしまうのです。 といくら説明しても、たぶん、やってみるまではわからないとおもいます。(笑)。 たぶん、木村先生とかも知っていたはずの技です。 もちろん嘉納治五郎先生が工夫されて生まれた技の1つであるわけです。 でも、このままでは、おそらくむち打ち症のなってしまう人がでてきそうです。 わたしでさへ その通りにかけることができるのならば、名人級の人がこれをそのまま使ったらどうなるかを想像すれば、これが禁止技となったよすがもまた想像できるところです。 しかしながら、たしかに 相手の両足が平行になったとたん、相手の両足が浮き上がり自分の方は安定した位置にいるのならば、すこし落ち着いて考えるなら、何も右腕や手を大きく前にまわすまでも無く、 ちょっと押しただけでも相手はすくなくともドタンとは倒れてしまうとおもいます。 そこを試したことがなくて残念です。 でも理屈から言えばそうなりますよね。 自分の両足が浮き上がってしまってる状態から返せる人はいないでしょうから、 そこであとは、合気道のような技も使えるのでなないかという想像が働くこととなったのです。 肩車というのは、 そこからさらに踏み込んで、後ろにではなく普通に肩車をするということなのですが、 そうなると普通の肩車というよりも、まさに合気道のように大きく棒でも扱うようさらにきれいな一本をしかも安全に(通常の受身さへできるなら)とれるのではないかと思ったわけです。 この技と そちらの書いてくださった山嵐の技をあわせて いろいろ技の構成を考えてゆくと やっぱり、何か希望はでてきますよね。 優秀な若い人達が これらの技と 日本の武道の精神を身につけて、自在な闘いの境地を身につけるならば、 きっと世界中の柔道愛好家がルールに関しても日本のきちっとした指導を受け入れるようになると思えてしまうところです。 ビジュアル化、 いい面もたくさんあると思います。 そのへんは柔軟でいいと思います。 でも審判の研修・指導の徹底、そのへんがおかしかったらビジュアルも何も無いと思います。 そちらのお考えに大賛成です。 これがもし そのための何かのやくにたつならばと、思って書いてみました。 上記の技ですが、どこかに今でも文献とか あるいはネット上にもあるのかもしれませんが、私自身 まだ他の情報源からは聞いたことも無い技(笑)ですので。 つたない筆ですが、ともかく書いてみました。
お礼
お待ちしておりました。ご回答、拝見致しました。 「幻の禁止技」、読ませて頂きました。次の二点が、分かりませんでした。 ●自分の両足は相手の左足に対して斜め45度の角度でぶつけるところに自分の右足をそっと持ってきておきます ●そのこちらの右足を機関銃のように(古い本にもそんなふうに書いていたと思います。)発射します しかし、この二点を読み流して最後まで読んでも、だいたい技のイメージがつかめました。 「木村先生とかも知っていたはずの技」、「嘉納治五郎先生が工夫されて生まれた技の1つ」、ということですか。創意工夫のあとが見られる技ですね、なるほど。 >でも、このままでは、おそらくむち打ち症のなってしまう人がでてきそうです。 わたしでさへ その通りにかけることができるのならば、名人級の人がこれをそのまま使ったらどうなるかを想像すれば、これが禁止技となったよすがもまた想像できるところです。 まさしく、むち打ち症になってしまいそうな技ですね。禁止技となったゆえんですね。期待通りの「幻の禁止技」、ご紹介くださり、誠にありがとうございました。こうやって、インターネット上に残すことは、後世への財産となることでしょう。 ところで、私の方も、「山嵐」のビジュアル化されたサイトを見つけました。ウィキペディアで「山嵐」を検索していて、たどりついたサイトです。 http://www.kodokan.org/j_waza/yamaarashi_j.html 写真入りで、「山嵐」の技が説明されています。この技で、オリンピックで一本を取り、金メダルに輝くことが、私の夢でしたが、今は、それを実現してくれる日本人選手が誰か現れて欲しい、と思っています。 ありがとうございました。最後に、今回の「幻の禁止技」の、名前は何ですか。相手を一瞬空中に浮き上がらせて、次の瞬間相手は畳に叩きつけられる、という感じなので、私も今その技の名前を考えているところです。「空気投げ」というのは別の技がありますし、どういう名前がふさわしいのでしょうかね。技の名前がお分かりであれば、ご教示ください。 それでは失礼致します。ご回答、誠にありがとうございました。次のご回答があるまで、まだ締め切りませんので、技の名前か、ほかに分かったことがあれば、書き込んでくださいませ。失礼致します。
- arayata333
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いそがしい仕事(設備業)の合間に、それぞれ別な内容の4つのプログを始めてしまい、さらに忙しくなってしまっています。 全てのブログを大幅に短くする形にするビジョンでいますが、今それぞれにテーマとして取り上げてることを中度半端にしては無責任ですから、あと何日かはこの状態のまま続けるという形となってしまっています。 他の方からの回答がついてないようですが、このQ&Aは哲学カテなどに真剣な質問があると、質疑応答の議論が白熱化し、No60とか70になってもまだああでもないこうでもない、こんな参考文献がある、それにたいしてわたしはこう考えるとかとかの火花が続いている時もあります。 その時の運にもよるのでしょうが、 けっこうそれなりの専門家も見ていたりはするようです。 その可能性がある限り、出来る議論は書いてみるにこしたことはないと思います。 人生と同じで、いい仕掛けいい行動、いい質問はねばり強くつづけたりチャンスを待ち続けるのも多いに価値的なことと思います。 私の場合も 少しの暇にたまたま覗きにきたら(笑) 自分のブログでもとりあげている内容のことをとりあげておられたので、 偶然、思わず回答した形です。 重要な質問とか いい質問とかが、一律に奥へ引っ込んでしまうところが改良されたり、 検索しやすくなったりすればもっと価値的なQ&Aサイトとなるかと思いますが、 ここはこの状態にてもそちらのねばりに賛成です。 それ自体を闘いの心と受け取らせていただきます。 よけいなことまで書いてしまいましたが、 「山嵐」について書いていただきありがとうございます。 でも その技ですと、一般の我々はそれを取り入れるのが難しいですね。 講道館の型として残っているのを昔写真でみましたが、それですと肩車のように両肩に担いでしまっていますので、 足の指や握力の力とは関係なくなります。 それに対して 実在の西郷四郎の技としてのそちらの小説や先輩が語ってくれたという技は、足で相手の脛とかをつかめれば、 たしかにそのままでもさまざまに有利な連続技にも変化できるでしょうし、 払い腰とかをなんとか横に逃げるような形で逃げようとしても すぐにその足にひっかかって、そのぶん綺麗に回転させられてしまいそうで、なるほど強力な技でしょうが、 一般の柔道愛好家がつかえそうにないままでは、これで金メダルを狙うというのはむずかしそうですね。 道着ならなんとかつかめるかもしれませんが、 足の握力が弱いのに道着を掴んだりして引っ掛けても かえってすかされてしまいそうです。 こちらがバランスをくづしては意味がありません。 足指や握力の一般人にも出来る訓練方があるといいのにと思いましたが いまのところ思い当たりません。 ですが、これが出来たら確かに技は多彩になりますよね。 井上康生選手のように内股が得意なら、 その入り方から入っておいて次に相手の体勢や反応に応じて、どんどんちょうどいいピッタシの技に変化させてもいけそうです。 大内刈りに変化するには一度足をはずさなければなりませんが、これをそのまま小内刈りの形で手前に引けば、あとは上半身は小内刈りの要領で通常の小内刈り以上にタイミングよくその技に移行もできたりすると思います。 言いたいことは「しかし西郷四郎しか使えないのでは、この柔道問題を解決する技としては、そのままでは役に立たない」ということです。 こうなったら、 ここでも、ともかくあの講道館初期にはあった禁止技を公開してみます。 それは、高校時代図書館でたまたま見つけた柔道の古い本にでていたのですが、 それは、角度まで正確に書かれていて、さらに偶然にも当時山を散歩してるうちに人に似た形の大きな枝が転がっていたので それで書いてある通りに練習していったら、 たった三日で実際の乱捕りでも その形となった瞬間には書いてあるとおりに投げることのできた技です。 虚弱体質で特に握力の弱くなってしまった私が たった三日で出来るようになってしまったのです。 それならば、それを変形させれば、だれがやっても安全で強力な技となるかと思うのですが、 紙数のつごうでいっぺんにはかけそうにありません。 変則的ですが、 次回にわけて書かせていただきたいと思うのですがよろしいでしょうか。 その古い柔道の本には 西郷四郎の生涯についても書いてあり、それによると西郷四郎は 晩年には弓道9段でもあったそうです。 彼自身は その技によって自在な境地を開いたのだと思います。 そちらが書いてくださったその技は、そんなじざいで的確な技の世界を連想させるものでした。 その何がしかでも復活できるといいですね。 以上なのですが よろしくお願いいたします。 またすぐには書けないかもしれませんが、もうすこし書かせてください。
お礼
ご回答ありがとうございます。私の方も、しばらく忙しく、お礼を書けないでいました。済みません。 全文を拝見しました。私の「ねばり」の意図を善意にお汲み取り頂き、誠にありがとうございます。ねばった甲斐があります(笑)。 arayata333さんのご回答ANo.11に対する、私の山嵐の文章を克明に読んで頂き、誠にありがとうございます。arayata333さんのご覧になったお写真は、肩車のように肩にかつぐ形だったのですか。山嵐が私の書いた形の技ならば「一般の我々はそれを取り入れるのが難しい」、しかし「これが出来たら確かに技は多彩になりますよね」ということですね。内股の得意な選手が技の入り方が似ていることから応用できそうだという点、そして、特に小内刈りへの連絡などは、さすがご経験者らしい分析・応用の仕方だと思いました。 「あの講道館初期にはあった禁止技」、出ましたね。次回にお書き頂けるのですね、大歓迎です。 だんだん面白くなってきましたね。どうぞ十分にご準備頂いて、幻の禁止技を、ご公開下さい。それが公開されるというお約束のある限り、締め切りませんので。 文字だけでは分かりにくいので、その技が載っているサイトなどがあれば、リンクが貼れて、他の人にもよく分かってもらえるでしょうにね。写真のようすを文字に置き換えるのは、骨が折れることでしょう。時間をかけて、いいものをご公開下さい。お待ちしております。
- arayata333
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No10です。 すみません、肩車の禁止に関する私の疑問はしばらく前に下記の記事を一部として読み流していたことによるものです。 ネット音痴なもので一度見た記事をもう一度探すのが大変なため確かめもせずに、公の文に記載したことをお詫びします。 ∞∞∞∞∞ 2000年02月23日(水) 全柔連 肩車を指摘 全日本柔道連盟は、2月15日、審判委員会を開き肩車をかける際に前後に巻き込んだ場合の危険性が指摘された。 欧州では巻き込んで投げた選手自身が畳に頭から落ち首に重傷を負った例があり、国際柔道連盟でも危険な投げ方を禁止する方向で検討している。 ∞∞∞∞∞∞ 国際柔道連盟でも あくまで肩車自体ではなくて前後に崩れた体制とかからの崩れた巻き込む感じでのともかく肩にひきつけた「一緒に転がる」という技のあたりの危険性にたいして、そういう入り方を禁止する方向で検討しているということであったわけです。 もうしわけございません。 まず「肩車」自体が禁止されるということは無いとおもいます。 申し送れましたが 丁寧なお礼文こちらこそありがとうございます。 言い足りないというか、 日本の柔道の幾つもの美点「精力善用」「きれいな一本の意義」「武士道の魂」「礼節」等々の美点が、国際スポーツ化とスポーツ柔道の商業化の流れのなかで失われてゆく姿を日本人の一人として何とかしなければという思いからの筆ですので、書きたいことは山のようにあります。 いや、書きたいというよりも 実際に変革したいのです。 ルールや審判についても、その方向とかあり方に私なりの主張したいこともありますが、実は今それを書いていて紙数がなくなりました。 ここは そちらが目指していた[山嵐」の技と、その技がもし復活すればすべての変革が大きく動き出すのではという希望に集中したいと思います。 utu-reさんは、 柔道で[山嵐」の技を使って金メダルと取るのが夢だったとのこと、 私は、具体的な「山嵐」の技の動きをよく知らないのですが、 もし何らか具体的にもその動きについて知っておられましたら教えてください。 私自身はそれが肩車に似てる部分があることと、合気道のバランスの世界と関わるという推理がこれはどうしてもそう思えることと、 あと学生時代にある哲学者から「それは、単なる技法のことではなくて、日本の弓道の究極がつねにリラックスした心身で、その場その場に正しく全身全力でことに的を射ていく人生道であるのと同じように、どんな場にも対応してゆくバランス技の象徴が『山嵐』なんだ」といったことを聞いているだけで、印象深かったのでそこからいろいろと考えたり推理したりするようになってしまっただけなのです。 もともとの柔道は すべての当時の格闘競技を研究してそのスポーツ化を目指して生まれたと聞きます。 その中で当然合気道も研究されたことでしょう。 しかし、もともとの合気道もそれ自体をスポーツ競技にしてゆくのは困難だと思います。 なぜならほとんどの技は 切り込むようにして全身の勢いをぶつけてくる(剣道の動きでは人を切ることはできない)相手の刃の下にくぐってのスピードとタイミングの技ですから、今の合気道がどうなってるのかは知りませんが、 もともとの合気道(岩間の合気道)では、3年間はある打ち込みだけを(3年もです。)やってからでないと成り立たない武術だったのです。 その代り 精神はまさに本物の日本の伝統の世界でした。 実は 相手の切り込みの勢いを利用しなくても講道館柔道の初期にはあった足技を使えば合気道の理合いは生かせます。両足を一気に肩の上まで刈りあげてしまう技で、これをそのまま足技として使うとたしかにきれいな大技なのですが、受身もとりづらい危険な技となってしまいます。 でもこの両足が完全に浮き上がった状態に対して、肩に引きつけるのではなくて、フットワークで相手の下の入りこみ、手の操作で自在に操るならば、こちらの体勢は合気道のようなバランスを保持しつつまさに山嵐のように自在にしかも安全にきれいな一本がとれるのではないかと推理しているのです。 もしこんな技が 実際に復活するのならば、世界中がこの日本の柔道の注目するだろうし、そこで日本のもともとの柔道の精神も再びより信頼と権威をえて教えることが出来るようになるだろうし、 となれば、utu-reさんの知識と私のこの知恵を合わせたらと つい力が入ってしまったところです。 相手の両足が実際に一気に肩よりも上にあがって吹っ飛んでしまうこと自体は学生時代 単なる好奇心から実験して成功しています。 どうせ禁止技でしたし、私自身は体がなんとか健康になればとしか考えてなかったのでそこまででストップしてしまったのですが、 その技については 具体的にここでは公表してもいいと思います。 たしかにそのまま使えば危険ですが、 これは柔道を正式に習っている足技の基本を知ってる人でないとどうせ使えません。 柔道を実際に習ってるかたには、これもどうせ実際に使えるような危険性を抜きにした技としてすべての人に開拓改良してほしい技ですし その志を理解してくれるものと信じます。 くだらない喧嘩への応用よりも、そこに巨大な理想への道や勝利への夢が生まれるわけですからね。 それに何も日本人がその理想を最初に実現しなくたっていいのです。 しっかりルールやその道理を理解してさへくれるならば、研究熱心な外国の人が最初にそれを復活しても その努力の向こうには必ずその人は日本の真の伝統の世界も同時に学んでくれると信頼できるからです。 いずれにしても 目的である真の武道スポーツである柔道の美点が一刻も早く復活して欲しいですね。 明日の子供達の平和と繁栄のためにもです。 以上、 また熱くなってしまいました(笑)。
お礼
再度の「熱い」ご回答、誠にありがとうございます。 >utu-reさんは、 柔道で[山嵐」の技を使って金メダルと取るのが夢だったとのこと、 私は、具体的な「山嵐」の技の動きをよく知らないのですが、 もし何らか具体的にもその動きについて知っておられましたら教えてください。 山嵐は実在の技ですが、私はそれを、二通りの方法で知りました。一つは、大学時代の柔道部の先輩から、もう一つは、柔道小説の中でもバイブルと言うべき、富田常雄の小説「姿三四郎」の、新潮文庫版の「解説」(昭和48年[1973年]、尾崎秀樹筆)に書かれてあった記述からです。 大学の先輩によれば、手は片襟(かたえり)に組み、背負い投げのように肩に担ぎ、脚は内股・払い腰・跳ね腰と同様に踏み込み、軸足でない方の足の裏を相手のすねに密着させ、足の裏ですねを「握り」ながら跳ね上げて投げる、という方法です。このときに、「足の裏で相手のすねを握る」ということは、足が猿の脚のように、手と同様にものを握ることができないとこの技ができない、と教わりました。この技を得意とした西郷四郎の足が、猿の足のようであったために可能であった技だ、と聞きました。 もう一方の、小説「姿三四郎」の「解説」の文章を引用します。 「西郷四郎が得意とした技は『山嵐』だった。右自然体に組んだ場合、右手で相手の右衿(みぎえり)をとり、左手で相手の奥袖(おくそで)をつかみ、半身(はんみ)になって相手をひきこむ瞬間、全速力で肩にかけ、相手の右足首をすくうようになぎ払うものらしいが、しかしこの技は誰にでもできるものではなく、西郷にだけ許された得意技だったようだ。西郷の足の指が熊手のように下をむいているため、払い腰にはぴったりだったことも幸いしていた。」 お分かりでしょうか。 arayata333さんが頭に描いておられる山嵐を、書かれた文章から想像してみました。arayata333さんは合気道にも通じておられると見え、それらを融合した、すさまじい技ですね。それを、おっしゃるように、「実際に使えるような危険性を抜きにした技」として、開拓改良されることは、意義深いことだと、私も考えます。 ご回答・ご意見誠にありがとうございました。まだまだ、言い足りないことがあれば、まだ締め切りませんので、書き込んでくださいね。それでは失礼致します。
- arayata333
- ベストアンサー率30% (35/113)
私自身は 中学高校と6年間しか柔道歴もない、しかも極端な虚弱体質となってしまったゆえに体を何とか普通にもどしたくてなんとか先輩達についていっただけのなまくら柔道の経験しかないものですが、 それ以後の長い人生は再び格闘技のすばらしさにたいする哲学に目を向けさせてくれたと思っている者です。 そして哲学のほうから 実はいくつかのブログを立ち上げ、その中でスポーツの時事についてもその観点から物を書き始めていたのですが、そのスポーツや「心身の健康」という「文化の扇の要」のような世界の問題の中でも やはり今一番の自身の関心でもあり 世界的にも大きな問題はこの柔道の問題だと思っていたところなんです。 それで、実は肩車が禁止されるというわさについてから このQ&Aサイトにて質問してみようと思って久しぶりに覗いてみたら utu-reさんの質問に行き当たったというわけです。 根幹においてはおなじ問題意識を持った方が こんなにも多くこのサイトにちょうどこられていたのですね。 みなさんのご意見も今読ませていただいたところです。 ここでは肩車の問題は すでにもう詳しくは書く必要はないと思いますがそれはこういうことです。 いざ肩車に背負ってしまえば、相手は踏ん張ったりバランスをとったりする土台を物理的に失っているのだから、こちらが体のバランスもとり、そして正しく安全に投げることが出来ないなどということはとても考えられない。 またその体勢からわざわざ危険な方向へ方向転換してポイントとかを稼ぐなどという必要はなく、そこまで来たらよほどの体力差とかでもない限り、一本をとれないなどということも考えられないはず、 普通ならば肩車がこの道理からは危険である理由は浮かんでこない。 ならばこれは まさに最初から無理な体勢でともかく不安定なまま肩にひきつけておいて、後ろや前とかに転がるような今のポイント稼ぎの柔道の中でのとても肩車などと呼べない崩れ技が 危険だということを意味しているということなのだと思う、 これで肩車自体が禁止されるならこれはもうむちゃくちゃなことではないのか? そのうわさの真相を知ってるかたがおられたら教えてください。という内容のものだったのですが‥。 この真相は確かに知りたくもありますが、どうやら柔道界の乱れ自体は 私がテレビを観て大会を見て感じ方向にいってること自体はもはや明確で質問もする必要もないことのようですね。 だだ、講道館柔道の流れ自体にも弱点があるという疑問は私にはありませんでした。 山下先生が ビゼール会長の圧力でともかく、発展途上国の援助とか柔道の教育的価値を高める努力を教育/コーチ理事の責務にて実績を積んできたにもかかわらず、会長のいきのかかった候補に敗れた話は聞いていましたし、いよいよ本家の日本柔道は逆境に立たされるとの認識もあったのですが、 だからこそ今日本の指導者達は一枚岩で立ち上がろうとしてると思っていました。 みなさんのご意見を読んでいてやはり、もっと草の根単位で 連帯をとり対話を進めていくべき時なのかなと考え直しているところです。 ネットでいくつか指導の上のほうの団体とかに問い合わせしてみましたが、ネット音痴の私にはわからない断り書きがあり届かないかもしれないような窓口だったり、ともかく返事が得られずに話を進めてもいけなかったところです。 もし真剣ならば もっとしっかりした討論の窓口を開くべきところとも思いました。 実は この肩車の話は、次ぎへの布石としての話だったのです。 ネットを通じての柔道の日本の責任者の方々へのメールでの質問も その奥へと進んでゆく布石としての質問でした。 簡単に言えば、その肩車の技こそ、講道館柔道に形として残されている「山嵐」の技と似ているわけですが、もともとそれは技の柔らかい自在性の根本の象徴として語られてもいる柔道の理想を意味してると聞いているのですが、 その肩車や「山嵐」の形の 現在の哲学や、その歴史は講道館ではどうなっているのでしょうという質問。 答えられる人は、もういないという事も考えられますよね。 これは、肩車にかぎったことではないです。 ある講道館柔道に昔はあって今は無い足技の大技についての質問とか、 井上康生選手の得意な内股の新しい可能性とのその三つの技の共通項に昔の武士や もともとの合気道との関わりを問いかけたり その技の理合いを話し合ったりするべき地点は、まずは、こうした民間の有志たちの連帯の中での研究であるべき地点なのかもしれません。 そうそう、これでへんな理由からその肩車もなくなってしまったら日本のもともとの柔道の復活も何もないですからね。 ともかく 現在私は肉体労働者の1ワーキングプアーにすぎませんが、微力ながらも知恵の力ではなんとか応援したい気持ちで さらに胸がいっぱいになっています。 わたしもがんばります。 若い皆さんにも なんとか頑張ってほしいことだと思っています。 機会があれば、もう少しお話をここでも進めていきたいなという気持ちもありますが、 ともかく私としては 読ませていただき うれしかったです。 ありがとうございます。 ともにがんばりましょう。
お礼
ご回答・ご意見を拝見しました。誠にありがとうございます。熱い思いが伝わって参りました。 肩車が禁止される、というのは、本当なんですか。確か二、三か月前頃に、朽木倒しが禁止されるというのを、新聞記事で読みました。肩車が禁止されるというのは初耳です。そうだとしたら、大きな問題ですね。それに反対する理由や、その理論など、熱い思いは、ここに書き残して、後世の人に読んでもらいたいものです。ありがとうございました。 arayata333さんも、柔道の元となる武道の精神を守り、保ち続けるべきだ、という意味では、私と同じ気持ちだと受け止めました。この質問は、もうしばらく、いろんな意見が書き込まれるのを見ることにして、締め切らないでおこうと思っています。まだ言い足りないことがあれば、書き込んでやってください。「山嵐」について触れられていたのは、あとからキーワード検索したときに、結構目につくと思います。余談ですが、私が柔道に励んでいたときの夢は、将来オリンピックで、伝説の技「山嵐」で一本勝ちし、金メダルを取る、というものでした。ぜひ日本選手で、それを実現する人が現れて欲しいものだと思っております。 熱い思い、返す返す誠にありがとうございました。暮らしの形はいろいろありますが、精神は誇り高く、ともに頑張って参りましょう。arayata333さん、どうぞお元気で。
- furupai
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わたしは柔道家ではありませんが本来”一本”とは「一人殺した」という意味です。 「本」という字を分解してみてください。 一、人、十 となります。 十は死を意味いたします。 相手を地べたに叩きつけて殺せるぐらいの技でないと”一本”とはいえないのではと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >本来”一本”とは「一人殺した」という意味です 私も、そうだと思います。押さえ込みで、30秒で一本となるのも、30秒押さえ込むうちに、刀で相手の命を断つ事ができる、ということだと習いました。 >相手を地べたに叩きつけて殺せるぐらいの技でないと”一本”とはいえないのではと思います この精神を、最初に国際化するときに、広めるべきだったと、私は思います。元は武道であること、戦場で武器を失ったときの格闘手段に発したこと、一本を取るとは、相手の命を取るという意味に発していること、などの精神を教えることが必要だと思います。技ありが二回取れば一本になるということも、「もう少しで一本だ」というような瀕死の重傷を相手に負わせるような攻撃が技ありだ、ということも同じです。現在の国際試合で、背中がゴロンとついただけで一本とか技ありが乱発されるのも、そうして教育することで見直されることと思います。 短い言葉で適切に指摘してくださいました。貴重なご意見、誠にありがとうございました。
- fukkatsu-biz
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心情的には質問者様と同意です。ただし、柔道の国際化する上で判定の客観性をどうするか、という問題を解決せねばならない以上ご質問の問題は起こるべくして起こるといえるでしょう。一説に柔道はサッカーに次ぐ競技人口を持っているとか、「いきおい」「はずみ」というように翻訳しにくい日本人の価値観を圧倒的多数の外国人に理解させるのは簡単ではありません。柔道に比べるとかなりポイントが明確なレスリングですら大きな大会では誤審騒ぎは頻出です。 余談ですが石井選手の五輪選考にはガッカリですね、満場一致ということは柔道界のお偉方もかけ逃げを奨励しているのか?公平性をうたうならヤワラちゃんも落とすべきでしたね。 余談続きですがヘーシンクについては#7の方に同意です。木村政彦氏の著書によればむしろ日本人がヘーシンクとの稽古を避けていたとか。東京五輪の結果は記録映画を見る限りヘーシンクの圧勝、神永選手を責めるより日本柔道界の石頭とご都合主義が非難されるべきです。
お礼
ご回答ありがとうございます。「柔道の国際化する上で判定の客観性をどうするか、という問題」、これがネックですね。私は、まず美しい投げの形を、国際試合の審判の資格を与える際とか、有資格者でも定期的に、ビデオを見せて、「こういうのが勢いがある投げ方です」と、視覚的に教えることが必要だと思います。同時に、過去の微妙な判定の試合のビデオも数々見せて、「これは、この審判は『一本』と取りましたが、本来は一本ではありません。なぜなら、この選手が仕掛けた技ではないからです」などと、解説つきで説明するようにすれば、かなりわかってもらえるようになると思います。それには、まずその基準作りをしないといけません。柔道は日本で始まったものですから、まず全柔連の審判員などの間で、お手本となる試合について、「これは一本」「これは技あり」などと、協議して合意を作り、そうしてできた基準に沿って、外国人の審判たちに教えていく、という風にすれば可能ではないかと思います。そうすれば、シドニーオリンピックの篠原-ドゥイエ戦などのようなとんでもない誤審は、なくなっていくと思います。 余談の石井選手のことについてですが、あれからいろいろな意見が出ているようですが、私は、満場一致というのがちょっとひっかかりますが、選考会で優勝した石井選手を出場させて、妥当な結果だと思います。「公平性をうたうならヤワラちゃんも落とすべきでしたね」、これには賛成です。選考会の結果というものを、もっと重視すべき、そうして、選考をすっきりすべきと思います。「過去の実績」というものが、あまりにも重視されすぎだと思います。かつて、バルセロナだったかアトランタだったかのオリンピックで、ロス五輪四冠のカール・ルイスが選考会で優勝できなかったというだけで選考から外された、というくらい明快に決めるべきだ、と私は思います。そうでないと、選手もどの選考会に照準を合わせればいいのか、混乱してしまいます。 それから、ヘーシンクのことについては、私もfukkatsu-bizさんと同意見です。柔道が国際化する上で、避けては通れない道だったような気がします。 ご意見ありがとうございました。
- doskoii
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>ちなみに、「ヘーシンク」はある特定の日本の柔道家とは、絶対に練習や試合を >しませんでした。私の父はへーシンクの事を、特に強くない、乱捕りに行くと >逃げてばかりでぜんぜんだった。といっており講道館柔道の精神を理解していない >と言っていました では、なぜその弱いヘーシングに日本代表の神永は負けたのでしょうか? なぜ投げることができず押さえ込まれてしまったのでしょうか? 袈裟固めを返せなかったのでしょうか? 日本は弱い代表を五輪に送り込んでしまったのでしょうか? なぜ他の強い講道館の方々が代表に選ばれなかったのでしょうか? 私が聞いた話、読んだ証言、文章ではみなへーシングは強かった、体力は化け物並みだったというものばかりです。特に自然を相手にした体力トレーニングの逸話には驚きました。また技について非常に研究し精通しているだけでなく、東京五輪で勝利した瞬間、興奮して試合場に駆け上がろうとした同国人を制するなど、礼にも厚い人物としても知られています。 本質を理解せず人を見下し、誰々は弱いと簡単に言うところが傲慢でありそこから日本柔道の堕落がはじまったのだと思います。もし言葉通りへーシングがおかしいのなら、なぜ当時の講道館の方々はそのことを指摘、指導することができなかったのでしょうか?それも理解できません。特定の日本の柔道家と乱捕りをしなかったことが本当かどうか知りませんが、イコール逃げたことにはなりません。自分の手の内を見せたくなかったのでしょう。弱いという侮りが日本柔道の敗北の一因です。私は少なくとも複数のメディアの意見の方に耳を傾けます。 http://www.golfdigest.co.jp/gdo/column/tsuredure/020508.asp http://gotaro-y.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/post_0647.html http://www.nikkeyshimbun.com.br/030821-73colonia.html
お礼
参考サイトを拝見しました。ヘーシンクに関する美談などですね。前の回答者さんが、そのお父さんのお話を引用されて、ヘーシンクが逃げていた、というのは、私もあまり信じられませんが、ひょっとすると回答者さんのお父さんは、すごい柔道家だったのかもしれません。参考意見としておきましょう。 私の見聞きしたところでは、doskoiiさんと同じく、ヘーシンクはとてつもなく強い、というものでした。木村政彦先生の「わが柔道」でも、日本に練習に来たヘーシンクを、日本人柔道家たちが遠巻きに見つめるだけで、誰も乱捕りを挑もうとしなかったことを嘆いていました。対照的に、ヘーシンクは、山で木を運んだりして働いて、その上で柔道の練習をしている、と、木村先生もヘーシンクを褒め称えていました。doskoiiさんのおっしゃる、当時の日本柔道陣の傲慢、堕落も、言い得ていらっしゃると思います。 ご意見を出してくださった皆様にお礼を申し上げます。ありがとうございました。
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お礼
あっという間に時が過ぎ、締め切る前にご回答を頂いてしまいましたね(笑)。全文を拝見しました。 鈴木選手の試合での、外国人審判の判定のご意見には、深くうなずきました。私も同感です。この部分です。↓ >投げた後の油断無さも武道の内という点から考えると、この場合には もしかしたら外国の審判にも一理合ったのかな という印象もその時には受けています。 最後に、ありがとうポイントについて、ご意見頂きました。ありがとうございます。実は、締め切るのに時間がかかっていたのも、このことでした。おっしゃる通り、甲乙つけるのは至難の業ですので、「該当者なし」として、締め切らせていただこうかと思います。私の立場までご考慮くださって、本当に親切心を感じます。ありがとうございます。「心が通じる」とは、こういうことなのかと思いました。 arayata333様以外の皆様も、いろいろ貴重なご回答、誠に感謝いたします。柔道を愛する心を持つ方々として、感謝いたします。ありがとうございました。