今よく行われているキックに似た背足やすねで蹴る回し蹴りは、昭和39年に大山道場(極真空手)とムエタイが試合をした前後に導入されたと思われます。
キックの生みの親とも言える野口修氏がタイ人を日本に連れてきた、タイ人はボクシングジムや大山道場に来たことがある、タイ人が大山道場でサンドバッグを蹴った時のフォームに驚いた、という証言があります。(タイ人と実際に試合をした誠道塾の中村忠先生、新空手の神永先生の証言。両先生とも大山道場出身)
野口修氏はムエタイの実力に驚き、国内のいろんな空手道場にムエタイとの試合を持ちかけましたが、いずれも拒絶され唯一引き受けたのが大山道場だったのです。大山道場からは、黒崎健時先生、中村忠先生、大沢昇先生の三人がタイに渡り試合をしました。結果は2-1で大山道場が勝ちました。
大山倍達先生の著書には、昔は前蹴りと横蹴りしかなかった、しかも帯以上、へそ以上の高さを蹴ると邪道といわれたそうです。ですが大山道場では中足による回し蹴りは行われていたようですし、沖縄出身で首里手、那覇手をともに修行された先生の著書(昭和42,43年)にも回し蹴りが紹介されています。ただ狙うのは脇腹とされ同じく中足での蹴りです。回し蹴りは今日では蹴りの花形とも言える代表的な技ですが、昔は前蹴りや急所蹴りが主であり、回し蹴りは変形技といった捉え方だったのかもしれません。型には今日のようなフォームの回し蹴りはありませんが、沖縄では型になくても他にさまざまな蹴りを修行したようです。(蹴上げ、関節蹴り、後ろ蹴り、二段蹴り、三角跳びなど)
ちなみにもともと本土では突いたり蹴ったりすること自体が大変危険視されていて、本土に唐手(空手)が紹介された時、唐手(空手)をやる者を警察に登録するようにという訴えが柔道家から出たくらいでした。それくらい本土の人間にとって突き蹴りに対する拒絶感情がすごかったんです。江戸時代までは神前や藩主の前で演武する際、高い蹴りはとても失礼なこととされていました。ましてや蹴りで頭を蹴ることは大変無礼なことでした。江戸時代にいろんな中国武術が導入されたと思われますが、しかしやはり日本的なもの、「柔(やわら)」に作り変えられています。ですから骨法が上段回し蹴りを一子相伝で伝えているという説にはすいませんが疑問を感じます。流派は互いに影響し合い、そして必ず枝分かれするものです。骨法と似たような技を持つ派が昔無かったところを見ると残念ながら信憑性に欠けると思います。
極真で最初に背足の上段回し蹴り(ハイキック)、背足やすねの下段回し蹴り(ローキック)をやったのは芦原英幸先生だと一説では言われていますが、添野義二先生のインタヴューによると、その芦原先生に蹴りを教えたのはタイで試合をした大沢昇先生だそうです。また芦原先生は黒崎先生の影響を強く受けたそうですから、やはり実際にタイに行った極真の人たち主導ではじまったのは間違いないと思います。
後ろ回し蹴りは、極真の初期の大会に出たテコンドーの選手の影響で大石代悟先生たちが修行研究を重ねたこと、加えて大山茂先生がアメリカで見たテコンドーの技術が元になっています。昔邪道視した他流派も今や極真のまねをして前蹴り、上段回し蹴りや後ろ回し蹴りなどの高い蹴りを出しています。
黒崎先生は目白ジムを興し打倒ムエタイを目指します。そして藤原敏男さんを育て上げ、昭和52年タイのチャンピオンを倒すことに成功、翌年にはタイのタイトルを獲得しています。キックの創生期に極真の果たした役割は大きいと言えると思います。
ムエタイの発祥の歴史についてはいろんな説があります。中国武術、フランスのサバット、ビルマ拳法に影響を受けている等、、、手技は明らかにボクシングからですが、足技については他国からの影響だけでなく国民性もあると思います。手に武器を持ちながら時に足で勇敢に戦ったということもあったそうです。
お礼
回答ありがとうございます。 なるほど、甲冑や和服による制限ですかー! そういう、文化的背景による要因があるとは考えた事がありませんでした。 ムエタイも元々戦争がらみで発展した(捕虜になった国王がムエタイを駆使して脱出したとかいう逸話があったはず)ようですが、タイは薄着だから回し蹴りも使えたんでしょうね…でもタイにも刀みたいな武器はあったはず…うーん。