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ミシシッピ・デルタ・スタイルのブルース
ミシシッピ・デルタ・スタイルのブルースは、非常に原始的で、アフリカ的、ホラーに近い、などと本で読みました。その理由として、黒人の割合の多さ、また白人による抑制が激しかったためとなっていました。 他の理由として、「デルタ」という地域環境は何か関係はなかったのでしょうか?「ミシシッピスタイル」ではなく、わざわざ、ミシシッピ「デルタ」スタイルと名前がついている以上、何かわけがあるのかなぁと思いました。 ご存知の方、また意見がある方はよろしくお願いします。
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今日ではクラシック・ブルースとして分類されるデルタ・ブルースの研究者は非常に多く、北米では民俗学の研究論文となるほどなので、発祥に関しましても諸説あります。 ただ、‘20~30年代に行われた国立図書館の巡回録音や‘50年代に行われた発掘調査の記録を見ると、当時の状況がある程度見えてきます。 ブルースとゆぅ音楽の源流であるデルタ・ブルースは、ある意味アフリカ的でありプリミティブな楽曲ですが、決して故郷を思う民族音楽でもワーキングソングでも無かった様です。 1.奴隷階層(労働者階層ではありません。その下です。)で流行った、ギターやハープ(ハーモニカ)を伴奏に用いる音楽に『ブルース』とゆぅ名前が定着しだした20世紀初頭、ブルースマンはマジメに額に汗して働く事を放棄した『ヤクザ者』と見なされており、ブルースは子供が聞く事を許されない『いかがわしい娯楽』とされていました。 今日デルタ・ブルースの創始者とされているチャーリー・パットンは、偉大なアーティストとゆぅよりはレコード会社の連中のご機嫌取りが上手な『見世物師』であり、同じく今日ではスライド・ブルースの父とされているサンハウスは、本職はバプテスト教会の伝道師でしたが、ブルースを演奏した為に教会から厳しく目をつけられていました。 また、エリック・クラプトンやミック・ジャガーは勿論、今日のブルース・ロック・ミュージシャン全員に影響を与えたと言えるロバート・ジョンソンは元々サンハウスの『追っかけ』で、18歳にもなって畑仕事もせずに1日中飲み屋(ラジオもジュークボックスも無かった当時、BGM代わりにいつもブルースマンが演奏していました)に入り浸っている、町では評判の良くない不良だったとゆぅ記録があります。 これらの事情から、少なくとも奴隷階層が1日の仕事のあと、輪になってみんなで楽しむ健全な音楽、とゆぅワケでは無かった事が伺いしれます。 ついでに。 ロバート・ジョンソンはクロスロード(交差点のこと。ブードゥ教では現世と霊界の接点とされ、死体を埋葬したりしていました)で悪魔と契約し、今日ブルースのスタンダード・ナンバーとなっている24曲を手に入れた、と言われています。その為かどぅか、ロバートは若干27歳で毒殺されてしまうワケですが、こんなところからも、当時ブルースが如何に『邪教に魅せられた悪魔の音楽』と見なされていたか、が見て取れます。 2.デルタ・ブルースが、怒鳴ったりカナキリ声で歌うパターンが多いのは事実です。しかしこれはアフリカの民族音楽から来たワケでもホラーっぽい歌だからでもありません。 当時のデルタ地方には巡回の薬売りとゆぅ商売があり、町々を回ってインチキくさいクスリや雑貨を売り歩きました(余談ですが、だから今日の北米のドラッグ・ストアは、クスリばかりでなく日用雑貨も売っているワケです)。 さてこの巡回クスリ売り、各町で客寄せの為にメディスン・ショーなる興行を開いており、当時のブルースマンにとってはこのショーが重要な活動の場となっていました。 このメディスン・ショーで雇用主にも観客にも、圧倒的な人気を誇ったのがサンハウスです。後のインタビューで彼は語っています。 『アンプリファイヤやマイクロフォンが無かった当時、とにかく精一杯大きな声をハリ上げて出来るだけ注目を集めなければ、雇い主から給金をもらえなかった』 ・・・・デルタ・ブルースで食っていくには、まず大きな音を出せなければならなかったワケで、必然的にその様に全力でギターを弾き、そして全力で歌う歌ばかりになっていきました。 3.この当時のブルースがデルタ・ブルースと特に言われるのは、hirokiti5様御指摘の通り、肥沃なデルタ地帯の綿花畑で流行ったからです。本来、ブルースはデルタ地帯だけの局地的な音楽でしたが、主にチャーリー・パットン(史上最初にブルースをレコードに吹き込んだブルースマンと言われています。レコードが発売された事により、もっと裕福な地方でもブルースが聞かれる様になりました)によってミシシッピ川を北上し、やがて当時既に大都会でラジオの放送局もレコード会社もあったシカゴにたどり着きます。 立派なスタジオもライブハウスもあるシカゴではブルースが段々洗練されていき、やがてデルタ地帯から成功を夢見て流れてきた一人の黒人により、ラジオで全米放送されるまでになるシカゴ・ブルースが完成します。その男こそ、マディ・ウォーターズです。 4.長くなりましたが最後に。 デルタ・ブルースは事情がよく判っていない音楽評論家により『とにかく怒鳴っているだけ』『ホラーみたいな音楽』と紹介されるケースがありますが、実際に聞くとそんな事はありません。チャーリー・パットンは他愛もない歌詞が多く、サンハウスには聖書の教えを説く歌さえあります。(バプテスト教会に集う黒人の多くが文盲で聖書が読めず、当時の教会では既にゴスペルとゆぅ聖歌で教えを説いていましたが、サンハウスはこれにブルースを利用したワケです。) ロバート・ジョンソンには『クロスロード』などやや怪しげな歌もありますが、しかし概ねラブソングであったり『イッパツ当てて大儲けしよう!』とゆぅ感じの歌であったりで、悪魔の音楽であると明確に指摘出来るモノは極少数です。 また、‘50年代の発掘調査のおかげで‘20~‘30年代に活躍したデルタ・ブルースマンの晩年の映像も残っています。 機会がありましたら、一度それらの音楽を聴いてみる事をお勧め致します。それらは彼等の人生の過酷さを写し出した、正に『魂の歌』であり、その激しい感情移入は、今日のブルース・ロックが歌謡曲に聞こえてしまうほどです。
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- hirokiti5
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「(ミシシッピー)デルタの平坦で高温な綿花地帯」。そこで過酷な労働に従事していた黒人たちが、故郷のアフリカを思い、うめくようにして生まれたのがワークソング、ブルース。ブルースの生まれた地という意味を込めて、ミシシッピーではなくミシシッピーデルタスタイルという名前をつけたのではないでしょうか。 ちなみに、手持ちの「ブルースの詩」サミュエル・B・チャーターズ(中央アート出版社)に、ちょっとだけそんなことが書かれていました。「」の部分が引用部分で、あとは私の推測です。