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戦時中の国鉄、路線について(福井・大阪間)

現在、福井→大阪への列車移動は、 【JR福井駅――JR特急(雷鳥、サンダーバード)――JR大阪駅】 のという直通経路が一般的です。 戦時中にも、このような直通経路(鈍行列車?)があったのでしょうか? その場合、 【国鉄福井駅→列車名?→国鉄大阪駅】 だったのでしょうか? (戦時中は「国鉄」と表現していたか? 列車名は何か?) JR広報に問い合わせる時間がないため、 こちらで詳しい方にいただきたく、質問投稿いたしました。 よろしくお願いいたします。

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回答No.3

すでに出てますように、戦後になって日本国有鉄道が発足するまでは、現在のJRに相当する鉄道は、大日本帝国政府の直営でした。 戦前ならば鉄道省で正解ですが、昭和18年に鉄道省が逓信省と合併し、運輸通信省となりましたので、戦時中なら鉄道省では不正解の場合もあります。省線という呼び方もありましたが、戦前の新聞を見ていると国鉄という表現もあります。(おそらく国営鉄道の略でしょう)省線としておくのが無難なような気がしますが、その当時の大阪~福井の移動は、実質的に国鉄以外の手段はありませんから、特に省線で行くとか、国鉄で行くとかは言わなかったでしょう。日常的な会話の中では「○時の汽車」とかで十分通じていたと思います。 列車に愛称を付けるのは主に戦後の習慣で、戦前は東京~下関の1等特急「富士」、2・3等特急「櫻」、東京~神戸の1・2・3等特急「燕」「鴎」しかありませんでした。これらの特急も戦争中にすべて廃止されましたので、戦時中末期には列車名はなかったです。急行は戦前からずっと無名でした。戦時中の旅客列車は、どんどん削減されましたので、初期か末期でぜんぜん違いますが、それでも長距離普通列車はそれなりに残ってましたので、大阪から富山とか新潟とか青森とかに直通する普通列車はあったはずです。ただ、制海権を失った戦争末期となると、国内輸送は貨物船から鉄道に切替えられ、北陸本線は北海道産の石炭を京阪神に運ぶ貨物輸送の一大幹線として旅客列車を削減し、貨物列車の大増発をしていますので、旅客列車の本数は極端に少なかったはずです。 戦争中の時刻表は、jtbが復刻版を出してますから、大きな図書館に行くと意外と蔵書にありますよ。

bachaoo
質問者

お礼

お礼が大変遅くなり、失礼いたしました。 >日常的な会話の中では「○時の汽車」とかで十分通じていたと思います この点を特に知りたかったので、大変参考になりました。 有難うございました。

その他の回答 (3)

  • mukaiyama
  • ベストアンサー率47% (10402/21783)
回答No.4

>戦時中にも、このような直通経路(鈍行列車?)があったのでしょうか… 鈍行も急行もありましたよ。 もっとも、急行は昭和19年4月に廃止されていますけど。 >その場合、【国鉄福井駅→列車名?→国鉄大阪駅】だったのでしょうか… 福井始発があったとは考えにくいです。 もっと長距離です。 ルートは、もちろん米原経由ですが、今庄-敦賀間、敦賀-木ノ本間は現在線とは異なります。 列車名はなく、列車番号で呼ばれていました。 列車名が付いたのは、昭和25年の「北陸」と「日本海」が最初です。 以下、私の研究ノートからの抜粋です。 【昭和2年8月1日】 東京-敦賀港間の欧亜連絡国際列車を週1便復活。 【昭和4年9月15日】 時刻改正。従来の神戸-青森間急行505・506列車を廃止、大阪-青森間急行列 車501・502列車(2等寝台車、和食堂車連結)を新設、青函航路1・2便に接続、所要時間は502列車の24時間14分(1時間34分短縮)、ほかに大阪-青森間503・504列車を運転。 【昭和9年12月1日】 全国的に時刻大改正。大阪-青森間急行列車501・502列車(2等寝台車、和食堂車連結)は所要時間を2時間5分短縮、下り21時間25分、上り21時間5分。503。504列車は配列を変更、速度を向上、車中2泊を1泊とする。 【昭和7年7月1日】 時刻改正。大阪-青森間急行列車501・502列車を大阪-富山間で1時間短縮、所要時間13時間30分とする。 【昭和9年12月1日】 全国的に時刻大改正。大阪-青森間急行列車501・502列車(2等寝台車、和食堂車連結)は所要時間を2時間5分短縮、下り21時間25分、上り21時間5分。503。504列車は配列を変更、速度を向上、車中2泊を1泊とする。 【昭和13年10月1日】 時刻改正。大阪-富山間511・512列車を延長、大阪-青森間505・506列車を増発、同区間は急行1往復、普通2往復とする。 【昭和14年11月15日】 時刻改正。上野-金沢間(信越本線経由)急行601・602列車を延長し、上野-金沢-大阪間(2・3等寝台車連結)とし、所要時間16時間50分。上野-米原間603・604列車を上野-大阪間(上りは池田発)とする。 東京-敦賀港間欧亜連絡国際列車を月2回とする。 【昭和15年11月1日】 東京-敦賀港間欧亜連絡国際列車をを廃止し、米原-敦賀間北鮮航路連絡列車を月2回運転する。 【昭和18年10月1日】 時刻大改正。決戦ダイヤ実施。急行旅客列車の削減および速度低下し、貨物列車を増発。上野-大阪間急行601・602列車(2等寝台車連結)、大阪-青森間501・502、505・504列車(いずれも2等寝台車連結)、507・506列車の3往復運転。 【昭和19年4月1日】 時刻改正。決戦非常要綱実施。1等車、寝台車、食堂車の全廃と急行列車の削減を実施。上野-大阪間601・602列車。 【昭和19年10月11日】 時刻改正。戦時陸運非常体制実施。貨物列車通勤列車を増発、急行列車削減と速度低下を図る。大阪-青森間501・502列車、507・506列車(下り上郡発)の2往復を運転。 【昭和20年11月20日】 時刻改正。旅客列車の第1次復活(26%増)。昭和19年10月における列車運行程度に復する。大阪-青森間2往復、大阪-新潟、直江津間各1往復、上野-大阪、米原間隔1往復などの普通列車を運転。 【昭和22年4月24日】 急行列車および2等車復活。大阪-富山間に1往復の復員列車を設定。 【昭和23年7月1日】 大阪-青森間急行501・502列車を設定、所要時間26時間22分。 【昭和24年9月15日】 時刻改正。大阪-青森間急行501・502列車、2時間短縮、所要時間24時間30分。 【昭和24年10月22日】 上野-金沢間急行601・602列車を大阪まで延長。 【昭和25年10月1日】 上野-金沢間急行601・602列車を大阪まで延長。 【昭和25年11月2日】 全国の急行列車に愛称名を付ける。上野-大阪間急行601・602列車を「北陸」、大阪-青森間急行507・508列車を「日本海」とする。

bachaoo
質問者

お礼

お礼が大変遅くなり、失礼いたしました。 福井・大阪間には、このような歴史があったのですね……。 大変参考になりました。有難うございました。

回答No.2

 今ほど頻繁ではなかったでしょうが、直通列車はあったでしょうね。もちろん、ほとんどが鈍行列車だったのでしょうが。  列車愛称など、なかったはずですよ?確か戦前の愛称つき列車って、「富士」「櫻」「燕」ぐらいじゃありませんでしたっけ?どれも、北陸地方とは無縁の列車ばかりですね。  あと、戦前には湖西線はおろか、北陸トンネルさえも開通していないので、大阪~福井間といっても全列車米原経由のはずで、長浜~敦賀~今庄間も現在とは異なるルートだったはずです。長浜~敦賀間はいわゆる「柳ヶ瀬回り」と呼ばれるルートですかね。

bachaoo
質問者

お礼

早速のご回答をありがとうございます。 北陸本線自体は、明治時代からあると聞いていたので、 大阪方面に向かうときも、この線を使っているのかと思いこんでいました。 そうなると戦前は、福井から大阪に行く場合は、 米原経由の直通列車(鈍行)を利用したということなのですね。 助かりました。 ありがとうございました。

回答No.1

国鉄は戦後です。 戦前も呼称していましたが、「鉄道省」が正しい呼び名です。 都会では省線、省電などと呼ばれていました。 国鉄福井駅・・等の名称は国鉄民営化後に呼ばれ始めました。 JRと区別するために使われだしたようです。 ですから鉄道省も国鉄も、福井は「福井」そのままです。 私は元駅員ですがいまだに国鉄と言っていますよ。 福井~大阪の列車は多数あったはずです。 戦前は〔戦後昭和30年代まで〕意外な駅から発車する列車が多かったようです。 ただ列車名は不明です。すみません。

bachaoo
質問者

お礼

過日は有難うございました。 疑問点が解決しましたので、締めさせていただきます。 また鉄道関係の質問をさせていただく際は、よろしくお願いいたします。

bachaoo
質問者

補足

早速のご回答をありがとうございます。 >戦前も呼称していましたが、 ああ、なるほどと納得しました。 文献を読むと、戦前にもかかわらず「国鉄」との表現が使われている例があったため、よく分からなかったのです。 現在は「JR○○駅」と表現しますが、 戦前は「鉄道省○○駅」と表現したのでしょうか?? あるいは、呼称を用いて「国鉄○○駅」と言ったのでしょうか? お手数ですが、補足質問にもご回答いただけますと、助かります。 よろしくお願いします。

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