肯定派の論拠は1点に集約されるようですね。「汝自らを知れ」と。
歴史を学ぶ態度としては良いのですが、歴史以外の視点を落としている点で、納得いきません。
では肯定の皆さんに異論を出しましょう。
現行の学習指導要領では小学校6年、中学校1~2年で歴史教育を行ないます。
今年施行の学習指導要領で、中学校の歴史は、事実上日本史になりました。
さらに、現在の高等学校地理歴史科は、世界史必修、日本史・地理から1科目選択必修です。
中学校で日本史、高校で世界史が必修であれば、なぜ高校で日本史を必修にする必要があるのか。
これほどにつめこんで、なお「自国の理解が足りない」というのであれば、さてどうすれば理解したことになるのか。日本史を必修にすれば、歴史嫌いにはますますきついカリキュラムになるということを、教育学的にどう説得するのか。
むしろ、「自国の理解」という主張のみをする人は、国民国家溶解という現在の社会状況に対する認識が欠如している、という批判は免れますまい。
扶桑社の『新しい歴史教科書』は、「歴史教育」を勝手に「日本史教育」にしてしまいました。
これは、日本の歴史を教えるためのそれですよね。
教科書それ自体が一つのメッセージになっています。
詳しくは、教科書それ自体をご覧あれ。教科書販売所なら、714円で買えますから、高くないと思います。買ってみて下さい。勉強になります。
(これで社会科が嫌いになる人もいるんだろうな。肯定派にはたまらなくよい本だけど、教育学的配慮は、ここの回答者の意見にはありませんね)
新しい歴史教科書についてはいろいろ意見がありますが、私は、歴史学的観点よりも、教育学的観点から使用には問題ありという意見です。ぶっちゃけ話、どうでもいいことまで書きすぎていて、難しすぎます。
なお、これのアンチテーゼが小森陽一・高橋哲哉編『ナショナル・ヒストリーを超えて』(東京大学出版会)です。でなきゃ、一歴史学者批判に1章を裂くこともない。
また、戦前は日本史は「国史」と呼ばれていました。
「日本史」と「国史」、「日本語」と「国語」を対比させると面白いでしょう。
(参考:イ・ヨンスク『「国語」という思想』岩波書店)
国民教育の現状を見ず、国民国家の枠を疑わない歴史教育論争は、結局不毛なものになります。
(公教育は、つまるところ「国民教育」です)
あらゆる歴史教育の可能性を見ないと。
ちなみに、ドイツの歴史教科書の情報が手に入ると良いですね。どういうことかは伏せますが。
ここの回答で、「日本史必修」肯定の論拠が十分だとは、まったく考えられません。
「自国の理解」の一点張りでは、あまりに論拠が貧相です。
それなら、現在の教育でどこに問題があるのでしょうか。
肯定意見の批判をしてみました。
私の異論に再反論してみて下さい。
ちなみに、「新しい歴史教科書をつくる会」ホームページもどうぞ。
批判的にご検討下さい。