• 締切済み

人を信じるということ

重病(?)ということでもないんですけど。ご意見お聞かせください。 僕は、人の信じ方というのが、よく分からなくなってきちゃいました。 ある人を信じるとき、自分が信じようとしたその人に裏切られても、 その傷を最小限に押さえるために、ある程度、疑ってかかってしまいます。 自分がかわいいために、疑った方が気が楽というか、100%信じられないんです。 ウソをつける動物である人間を信じるということに、 ちょっと疑問を持ってしまいます。やさしいウソっていうのもあるんだろうけど。信じたいけど疑いたい。そんな自分の弱さが、辛いです。 皆さんは、どのように人を信じてますか? また、信じた人に裏切られても、信じた自分が悪かった、と思えますか? 変な質問でしたらごめんなさい。 ご回答下さった方々をも、信じられないかと思ったら、辛いんですけども。 元も子もないです。ごめんなさい。

みんなの回答

noname#5808
noname#5808
回答No.7

こんばんは。 完全回答は、僕には無理なんで、アドバイスでご勘弁下さい。 信じることって、ある種、「賭け」ではないかと思うときがあります。 自分が直面する未来は、ある意味、未知の世界です。 だれも明日自分がどのように生きるか、或いは安全で居られるか、 確証をもって生きているわけじゃないですよね。厳密に言えば。 交通事故、通り魔、火事に遭い、死ぬかもしれない。 けど、今死でも同じだけど、今も生きている・・・・、これってある意味、 「自分が生きているはずだ」 と言う前提で、つまりその前提を”信じて”生きているわけですね。 物事に絶対とか、永遠とか言うものが無い。そして、100%絶対Yes、 100%Noと言うものも無い。 それを乗り切るため、私達は、無意識のうちに、一種の賭けをしているんじゃないでしょうか。 生物としての人間は、 例えば子供を作るにしても、SEXで、男は精子っを一度に何億個も 放ちますが、これは、女性の卵まで、1個の精子だとたどり着けないかもしれないし、 正常に動作しない負の可能性があるから、何億個も放出します。 女性の卵だって、卵母細胞がたくさんあって、一回の受精に失敗してもバックアップの卵子が 次の月に生産されるようになってます。 ですから、ある意味、必ずしも絶対と言う事が存在しないから、次にどうするべきか、我々自身、 知らず知らずの内に、目的を達成するため「確立」を高める努力をしています。 人間を信じる・・・、これは、「その人が自分が期待している結果を出してくれる」 事に、賭ける事じゃないかなと思います。。 どんな善人でも、間違いや、失敗はありますよね。 信じた事により、その人が裏切っても、それで自分が不利になっても良いか、 被害をこうむっても良いか。 そんな被害をこうむっても、自分は良いと思う心のあり方が、「信じる」事ではないでしょうか。 その人を信じる、それは信じるに値するかどうかではないでしょうか。 そのためには、勇気も必要ですし、決断も必要です。 もしリスクが存在するのであれば、事前にそれに立ち向かうバックアップ体制 も必要です。(心の余裕、財産の余裕、時間の余裕etc) だから、ある意味、「信じる」って、自分が不利になる事、何かを失う事を覚悟できるかどうか、 と言うことにつながるかもしれませんね。 そして、その「信じる」べき事が、自分の考え通り、予想通りになるよう確立を高めるように する一連のアクションが「努力」・・・じゃないかな。 と愚考しております。

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質問者

お礼

書きこみ、ありがとうです。 なにか人の奥底の根本的な事を書いて下さって、とても深く考えさせられました…。 >物事に絶対とか、永遠とか言うものが無い。そして、100%絶対Yes、 >100%Noと言うものも無い。 >それを乗り切るため、私達は、無意識のうちに、一種の賭けをしているんじゃな>いでしょうか。 とても感銘を受けました。やはり、無意識の一種の賭けをしてしまっているんですね。信じるということは、その事自体、未来。正にその通りだと思いました。未来には誰にでも不安はありますよね。その不安がある限り人は人を信じる術が無いのかなと思ってしまうと、やっぱり人は個人として独りなのかなと思ってしまって、とても寂しく辛いです…。ちょっと極端ですが。 ennuiさんのご意見を読んで、信じるということを自分なりに組み立てられそうです。とても勉強になりました。ありがとうございました。

  • latipes
  • ベストアンサー率36% (63/173)
回答No.6

こんにちは    人を100%信じるって、難しいことだと思います。 例えば、母が子どもに対して、信じたいと思って信じる場合。  これは、きっとその母はだまされているとわかっていて、 『信じよう』とか、『自分が信じなくては他に信じる人がいない』って思って信じるわけです。 そこには、騙されてもいいっていう、『覚悟』とか『開き直り』みたいなものがあるような気がします。  だまされてるってわかって信じるっていうのは、 ある意味信じていないって事にもなるのではないかと私は思うのですが、とても勇気のあることだと思います。 信じるというよりも、相手に賭けている。望みを託しているって感じに思います。  false_nameさんは、疑ってかかってしまうと書かれていますが、その程度によって、それが一般的なものと、そうでないかが変ってくると思うのです。  誰に対しても、すごい疑惑を持つのであれば問題でしょうが、例えば、親しい友人に対して、 『Aさんは親切だけど、たとえどんなにAさんが親身になってくれたとしても、この人は自分が1番大事なんだ。』 と思ってしまうことを、自分がAさんを信じていないと感じるならば、それは全然疑ってることにはならないですよね?(*^-^*)  信じるって、すごく複雑だと思うのです。 個人個人みんな、それぞれの生活や、 さまざまなしがらみの中で暮しているのだから、 それによって、だますつもりでなくても、 どうしようもなくてそうなってしまう (だましてしまったと感じたり、騙されたと受けとめられてしまったり)ことってあると思うのです。 感情なんかだと、その時は本心からそう思っていたことが、 変ってしまったという事もあるだろうし、 その変化を、騙されたと思う(思われる)、 裏切られたと思う(思われる)って事もあるでしょう。  でも、普遍なんてあり得ないから、 変ってしまう心に対して、 また、気持を表した言葉にたいして、 真実であった、そうでなかったって区別をつけるのは 難しいと思います。  私が100%人を信じているかといったら、 そんなことはないだろうと思います。 疑っているという表現ではないけれど、 人との距離をとって、冷静に相手を見ているつもりです。 でも、疑うって言葉を使うならばそうなるかも知れません。  でも、それって、悪いことではないと思うのです。 いい人もたくさんいるのは事実であるけど、 そうでない人もたくさんいるのだから、 ある程度疑うというか、距離を置いておくということは 大事なことだと思うのです。  例えば、ある宗教を本当によいものだと思って 勧誘してくる友達は、誰かを騙すつもりではないでしょう。  そこで、友達が信じているものはいいものだと信じてしまえば自分もカルト集団の犠牲者になってしまいます。  でも、信じてしまう前に、それが正しいものかどうか吟味する力があるなら、もしかしたら自分だけでなく、友達を助けることが出来るかもしれませんね。  信じるっていうことは、鵜呑みにすることとは違うので(私はそう思っている)、ある程度疑う(吟味する)ってことを伴うものなのではないかと思います。  だから、信じる時に疑ってしまうっていうのは、 悪いことではないって思うのです。  だって、何度も何度も裏切られる人に、同情はするかもしれないけれど、 『10回も20回も同じ事で裏切られるほど人を信じることが出来て素晴らしい人だ!!』とは私は思わないし、  むしろ『おろかな人だな』って思ってしまうかも知れないって思います。  もうすでにそういうことをふまえての質問でしたら、 なんか、たくさんいろいろな例を出して書いてしまって申し訳ないです。  書いているうちに、なんか、論点がズレているかもと思ってきました・・・。   質問への回答ですが、 1.皆さんは、どのように人を信じてますか?   私は状況をよく考えて、何度も自分の頭の中で検証してみて、   それが信じるに値するものなら信じます。   (もしや、騙されているかも、騙されるかもと思う場合は。でも、騙される可能性があるのなら私は切り捨てるタイプだと思います。冷たいかな・・・。)      他には、『この人は積極的に自分に不利益をもたらすような人でない。』と普段の付き合いで思う場合は、 結構そのまま言葉どうりに受けとめてしまう。かな?  でも、おかしいって思うことは、やっぱりなんか わかってしまうので・・・。 2.信じた人に裏切られても、信じた自分が悪かった、    と思えますか?   はい。   信じた自分に見る目がなかったって思います。   騙されたことよりも、信じるに値しない人を信じてしまった自分が悔しい。  積極的に人を食い物にするような人とは付き合わないし、おそらく周りにそんな人はいないって思ってしまう。 (そこがまだちょっと“あまちゃん”なのかもとも思うのですが・・・・。(*^-^*))  蛇足ですが、騙されないように用心している人ほど、 コロって騙されるっていう話があるんですよね。  (『嘘』について書かれている本によく取り上げられてます。興味があったら読んでみて下さい。)  たしかにそれは、『そうだな~』って思うのです。  こんなに慎重な私が騙されるわけないって思っているから騙されるのだろうな~。  騙すのと裏切るっていうのも違うから、難しいのだけれど、裏切る人って、その行為の重大さを知らなかったりする人が多いのかも・・・。 どうしても仕方なく裏切ってしまうっていうこともあるとは思うけど・・・・。  100%信じるって人っているのかな? 私はいないんじゃないかなって思うのですが・・・。  100%信じたいって思う人はたくさんいると思います。 *100%信じるって人がいたらごめんなさい。

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質問者

お礼

ご意見ありがとうです。 なんかとても気持ちが楽になった気分です。 なるほど、やはり信じるというのは、覚悟とか開き直りとか、賭けという分類になってしまいますね…。そして、そんなこともどうでもいいように、信じるって事は複雑なことですね。 僕にとっては、latipesさんのご意見は、とてもやさしいのもを感じました。 とてもありがとうです。スッキリしました。

  • sponta
  • ベストアンサー率26% (54/207)
回答No.5

悪徳商法とか、結婚サギとかは別にして、 一般的な人間関係の中で、信じるとか、裏切られるという用語を使うことに問題の根っ子があるような気がします。 「相手を信じる」ではなく、「相手を愛している」 ならば、「裏切られた」は、「報われない愛」だ。 わたしは恋人に、年齢を詐称されていたことがありますが(笑)、そのことを聞いたときも、裏切られたとは感じませんでした。 嘘をつくのはたいへんだったね。 という素直な感想と、 辛かったね。 ということです。 だます、だまされる。という視点ではなく、お互い生きていくのは辛いよね。 そういうに思えたらいいんですけどね。 なんか、楽観論ですみません。 質問者が抱えている問題が、とても深刻なものだったりしたら、私の意見はまったく見当違い。単なる気休め。 自分に自信を持って、プラスのオーラを身にまとえば、人をだますようなマイナスの人は近寄ってきません。(これも悪徳商法、邪宗教は捨象) 楽しく、明るく振舞っていきたいものです。

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質問者

お礼

ご意見ありがとうです。 うーん、なるほど。なんか、とてもキレイだと思いました。 人を信じるということが、考えて行動するというより人を愛するということのように自然な感情で湧き出てきたらいいなと思いました。 ありがとうございました

回答No.4

疑うってどの程度なのでしょうか?何について裏切られたら怖いのでしょうか? 絶対こいつは裏切るだろう、と誰に対しても考えているのなら問題有りの ようですが、比較的信用できる人がいるなら特に気にするものでもないの ではないですか。 思いっきり信じて裏切られたらずばっと傷付く、ではだめですか? 全員信じなくても良いので、たった一人でもそういう風に思える人がいれば 良いんじゃないかと思います。

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質問者

お礼

ご意見ありがとうです。 どの程度とか、何についてかとかは、僕もあまりよく分からないんですけども(すみません)、人を信じるとき、誰に対しても「絶対こいつは裏切るだろう」とは考えてはいないのですが、「裏切られてもいいや」と思ってしまうんです。結局は、その人に裏切られることを見越しているんです。だから、やっぱりその人の事を信じてはいないのかなと思ってしまいます…。そこがちょっと、寂しくて怖いです。 あ、でも比較的信用できるって言うのは、こういう事かな。気にしなくていいのかも…。ちょっと分かったような気がしました。

noname#1916
noname#1916
回答No.3

私はいろいろ人生の経験を積むことで人のいっていることがだいたい嘘なのか本当なのか分かるようになってくると思います特に子どもの嘘はだいたい分かります、あまり人に打撃をあたえる嘘はだめですが自分でも少々の嘘をついてみるのも経験の内です又嘘だと分かっていてもだまされてみるなんて言うのも気持ちに余裕があればいいと思います 「皆さんは、どのように人を信じてますか? また、信じた人に裏切られても、信じた自分が悪かった、と思えますか? 」 については特に意識して信じるとかそでないかはありませんがケースにもよりますがだまされたり裏着られたりすると次はこんな風にするとそうならないのではないかと検討して良い勉強になったと思うようにしています。

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質問者

お礼

ご意見ありがとうです。 ウソだと分かっていても騙されてみる、っていうのは、とてもすごい事だと思いました。ウソつく、つかないも勉強ですね。 なるほど、信じるというのは、意識してするもんじゃないかもしれませんね。 信じるという「行動」ではなくて「状態」にもっていきたいです。

  • soba
  • ベストアンサー率12% (23/185)
回答No.2

女性問題に関してだけ私の経験上申し上げますと、 「こいつになら騙されてもいいかー」 と思う場合もあります. 物を売り買いする場合も、営業マンに対して「こいつならいいか」と思う場合と似てますね. 裏切られてショックを受けるなら信じない方がいいですね. よって、裏切られても悔いは無い!と思う場合にだけ100%信じては?

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質問者

お礼

ご意見ありがとうです。 そう、僕が考えてしまうのは、sobaさんの最後の文、まさにそこなんです。 人を信じるときに、裏切られても悔いはない!と思う場合は、自分がその人の事を100%信じきれていないから、「裏切られてもいいや」とタカをくくってしまうというか、半ば中途半端に信じている(?)のかなと…。裏切られることを見越しているというか…。ああ、よく分からなくなってしまいました。 ありがとうございました。

  • jun95
  • ベストアンサー率26% (519/1946)
回答No.1

たとえば、様々な解釈はあるにせよ、夏目漱石の「こころ」なども、「信じると言うこと」をテーマにした作品と言えるかもしれません。 まあ、学生時代は、損得が関係しないので、比較的そういう問題はないのですが、「裏切るとかいうつもり」はなくとも、第三者が絡む場合、結果的にどちらかが裏切られるということはありましょう。 しかし、一旦社会に出ると、かなりシビアな人間関係になってくると思われます。 ご老人の方が、たとえば、「抵当証券」の購入で裏切られる事件をはじめ、豊田商事から霊感商法まで、人をだます商法は後を絶ちません。 そういう意味でも、社会に出ると100%人を信用できなくなります。趣味の会でさえも、競争があり、比較的信じられる友人を得やすいと言うものの、学生の頃のようにはいきません。 100%信用できる人を求めて、恋愛や結婚に行き着くという側面もありましょう。それさえも、心変わりから、不倫や離婚が多い現在、100%信じられるのは、「神様」のような「架空」の対象しかないのかもしれません。 少しの疑いをもっておられるとしても、仕方のないことだろうと思われます。

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質問者

お礼

ご意見ありがとうです。 人間関係って、難しいですね。社会に出ると、もう頭がこんがらがってきちゃいます。100%信じられるっていうのは、やはり自分の内にある信念のようなものでしかないのでしょうかね…。それ以外には、少しの疑いを持っても仕方がない。 やっぱり、そう思っていても、なんか寂しくなってきちゃいますね。

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