広辞苑によると、
「聖職」とは、神聖な職務。
「神聖」とは、尊くて侵しがたいこと。
「職」とは、仕事。
よって、聖職とは、「尊くて侵しがたい仕事」ということだと思います。そういった意味であるなら、世の中のいわゆる「まとまな仕事」と呼ばれるものはほとんど聖職といっても過言ではないかと思います。ただ、教師は教育者であって利益追従の商人とは違います。もちろん、商人は尊くないというのではないけれど、特に教師の場合には「人を教え導く」という部分を強調したニュアンスとして使うために、聖職と呼ぶことがあるのだと思います。
しかし、尊くて侵しがたいのはあくまで「仕事」なのであって、教師自体が聖職なのではありません。というか、上の解釈を前提とすれば「教師は聖職」というのは日本語が間違っていると考えられます。教師は「人」を指し、聖職は「仕事」を指すからです。つまり、「人は仕事ですか?」というのと同じなのだと思います。
なので、「教師は聖職」ではなくて「教師は聖職という仕事を行っている人」という方がより合っていると思います。
しかし、教育者としてのプレッシャーを与えるためにあえて「教師は聖職」というある意味分かりやすい言葉を用いることもありだと思います。将来の大人達である子供達に教師が与える影響は甚大です。ですから、「俺達は聖職者じゃないんだからテキトーでいいや」となるぐらいなら、気を引き締めてもらうために自分達は聖職者なんだと自覚してもらった方がいいと思うからです。一方、子供たちも「偉い人」に教わるほうがワクワクするはずです。子供達に肩書きは関係ないかもしれませんが、一種のカリスマ性がある方が人を教え導くには必要だと思うからです。そして、親達もその方が安心できるのではないでしょうか。今バカ親が増えていると言われますが、そのバカ親たちから「聖職」カリスマ性というバリアで教師が守られる気もします。また、教師達に「俺達は聖職者なんだ」という自信を持ってもらえると思います。
ただし、自信は思い上がりにつながることもあります。しかし、それも「聖職者」とすることで逆に防げると思います。今この瞬間から、「はい、あなた達は聖職者です」とすれば問題ですけれど、初めから聖職者とすれば、教師の採用試験も変わってくるはずですし、聖職者とすれば、尊敬の眼差しが集まります。尊敬の眼差しが集まるということは、裏を返せば、皆の監視が働いているということです。皆の眼差しが集まる芸能人が離婚などすればすごいニュースになるけれど、何でもない人が離婚したって、誰も興味が湧きません。もちろん、教師が離婚してはいけないと言いたいのではなくて、つまり、眼差しを集められた教師は悪いことをするわけにはいかなくなり、結果聖職者にふさわしくなるような気がします。芸能人が聖職者とはいえないかもしれませんが、少なくとも、聖職者と扱わなければ聖職者になるわけがないと思います。そして、教師は「教育者」ですから聖職者たる行動あるいは振る舞いを多少なりともするべきだと思います。また、尊敬されなければそもそも教育が成り立たないと思います。
ですから、教育のために、「聖職」と呼ばないとしても、少なくともそういった雰囲気作りは教育の義務のある大人達がする必要がある気がします。教師は、教育の義務ある大人達の代表なのですから、教師ではない大人達は教師達のために、良き教育環境という舞台作りをしてあげるべきかなと思います。
ちなみに、「師」という字自体には、導師・牧師とう意味もあります。そこから、転じて聖職者と呼ばれたのかもしれませんね。
お礼
>一種のカリスマ性がある方が人を教え導くには必要だと思うからです。 私もそう思います。 昔と違って今は教師の地位や威厳というものが低下著しいですね。親も大卒・院修了が当たり前で、下手すると教員よりも良い大学出てたりして教師を見下す保護者も少ないないのかもしれません。 おっしゃるように尊敬がなければ教育は成り立たないと思いますし、保護者が子どもの前で教師を蔑むような言動をするのは有害なことだと思います。重箱の隅をあげつらうのは簡単ですが、ひるがえって自分はそんなに立派な親なのかと問えば怪しいものがあると思います。 雰囲気づくり、それはとても大事なことかもしれないですね。 ありがとうございました!