子供の葬式が普通と違うのは、ほぼ全国的な習慣です。今では薄れてきましたが、ご質問のように平服で行ったり、墓へ行く葬列の並び順が違ったり、精進あげをしなかったり・・・という具合に、簡素かつイレギュラーであることを強調するのが特徴です。
その理由として基本的には、(1)子供は大人と違って大がかりな弔いが不要だと考えられたこと、(2)儒教的な家観念のなかで、親を子供が弔うのが自然な葬式と理解されたこと、が挙げられると思います。
(1)について。
子供といっても年齢によりますが、基本的に昔の「子供」という存在は、現在のものとかなり違います。
赤ん坊や幼児の死亡率が高かった時代には、子供はちょっとしたことですぐ死んでしまうもろい存在でした。つまりあちらの世界から来たばかりで、まだこの世に充分定着していない、不安定な存在として受けとめられていたのです。
例えば「七歳までは神のうち」という言葉が残っている地方がまだありますが、数え七歳、つまり満5~6歳まではまだこの世に定着していない、という風に受けとめられていました。
実際、このくらいまでは病気にも弱いのが現実です。江戸時代中期、18世紀ぐらいの日本の幼児死亡率(5歳未満で死亡する割合)は、推計で約200パーミル、つまり5人に1人という高率で、現在の100倍以上にあたります。
かつての日本人にしてみれば、突然理由もなくこの世を去りがちな子供たちの生命は、文字通り「神の手中」にあったわけです。
余談ですが、そんな不安定な子供たちの魂(タマ)をこちらの世界にとどめておくために、例えば「食い初め」だったり、「うぶ祝い」であったり、いろいろな行事を行って魂を強化する必要があったのですね。生まれてすぐまず仮の名前をつけて、5歳ぐらいになったら(つまり七五三の七歳になって氏神の公認を得られるようになったら)、改めて正式の名前をつけ直したという地方も結構あります。
ともかく、幼児の死は今とは比較にならないぐらい多く、またその魂はなかば「あちらの側」にあるように受け止められていた為に、ほとんど葬式らしい葬式をしなかったのが現実です。
これは子供を差別したというよりも、むしろあちら側(つまり命がやってきて、またそこへ帰る場所)に近い子供の魂はさっと向こうに返すべきだ、という感覚から行われたのだと思います。むしろ大げさな弔いをしないほうが、「まだこっちのものじゃなかったのですよ」ということになって、向う側にすんなり帰りやすい、従ってまたすんなりと新たに生まれ変わってきやすい、という感覚があったのでしょう。
逆にいうと、ちゃんとしたお葬式というのは、大きくなってこちら側に定着した魂がこちらで生活したことで身にまとった「穢れ」を落としてきれいにしてあげる浄化の儀式でもあったのですね。
子供は半ば神のうちにあって、この世の穢れと無縁と考えられたからこそ、子供が死んでも親は喪に服す必要が有りませんでした。また、神事で子供がお稚児さんになったりできたのも、この世の穢れがないと考えられたからですね。
(2)について。
これには儒教的な感覚を考えないといけないでしょう。
日本の葬送や供養は、江戸時代以降、基本的に家観念のなかで発達してきましたから、子が親を弔うのが基本型とされました。子供が自分の世代という長い年月をかけて親を弔うことで、親の魂が浄化されてきれいになり、やがて温和な先祖霊になって子孫を見守る存在になってくれる、という先祖崇拝型の仏事が一般化したのですね。
従って、親を弔う場合は、喪主になる=その家の新しい戸主になる、というのがいわば当然とされたのですね。今でも「喪主」という意味で「位牌持ち」という地方は多いのですが。
いずれにしても、親や先祖供養の大役を果たせずに若くしてこの世を去るホトケは、遺族の感情はさておいても、家代々の縦の系列のなかでは、残念ながら「はみ出し者」たらざるを得なかったのです。ちゃんとした葬儀や供養を受けることは、家の代々の系譜の中にきっちりと位置付けられるものの特権のようになっていったのではないでしょうか。
上記(1)、(2)の感覚が歴史のなかで徐々に混交して、7歳うんぬんの境も実感としてはっきりしなくなり、やがて「子供の葬式は簡単に、ひっそりと」という感覚だけが伝わり、ご質問のような状態に至っているのではないかと思います。
お礼
ありがとうございました。母親として、とっても納得しています。 全てにおいて、気遣いや心配りが大切ですよね。