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人のために行動することってあるのですか。

『人のため』に行動することってあると思いますか?  時の人になっていた、鈴木宗男さんを見ていて思いました。 彼はもともと貧しい農家の出でした。もしかしたらはじめのうちは彼は本気で地元を潤そうと思って地元のために必死になって公共事業を引っ張ってきていたのかも知れません。 それがいつのころからか、『地元のため』と思っていたのが、『自分のため』に変わっていったんじゃないのかなぁ。  僕の大学のサークルでは2,3年前まではかなり上下の区別がはっきりしていました。そしてよく上回生は『お前が社会に出たときのため』に厳しく接しているんだといいました。  でも、そもそも『人のため』なんて正しい日本語なんでしょうか。本当に『その人のため』を思っているんでしょうか。もしかしたらそれらは全部『自分のため』じゃないのでしょうか。 おぼれている人を見て、その人のためといって飛び込む人がいるとしても、それはあとから「その人を見捨てた」という罪悪感を持ちたくないからではないでしょうか。 『子供のため』・『家族のため』・『仕事のため』といった言葉も結局は自分のためでしかないのではないかと思うのです。 自分でも何を言っているのかわからなくなってきましたが、要するに『~のため』といっても結局は全部自分のためにやっていることなのではないかということです。 皆さんは、どう思いますか。

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  • cse_ri
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回答No.7

>自分でも何を言っているのかわからなくなってきましたが、要するに >『~のため』といっても結局は全部自分のためにやっていることなの >ではないかということです。 フム、よくわからなくなっているのは、「自己中心主義」と「利己主義」を混同しているからだと思いますよ。この点ではNo.1の方と同じ見解です。 その上で私の見解を述べますと、『~のため』つまり利他的な行動というのは、自分では意図していなくても、結果として全て自分のためになります。 詳しくは 「利己的って・・・」http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=152690 のNo.8で述べています。 『情けは人のためならず』ということわざを聞いたことがありませんか? このことわざは「人に情けをかけてもその人のためにならないよ」という意味ではなく、 「人にかけた情けはめぐりめぐって必ず自分に返ってくるから、情けはどんどんかけなさい」 というのが本来の意味です。 昔の人はうまい言い方をしたものですね。

参考URL:
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=152690
azari
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >『~のため』つまり利他的な行動というのは、自分では意図していなくても、結果として全て自分のためになります。  これが、僕が質問をした時に感じていたことだったのかもしれません。  結局『~のため』という大儀名文をを振りかざしても、それは自分のためにやっていることなんじゃないかなと、感じていました。  それが「悪いことだ」なんていうつもりは毛頭ありません。  ただし、情けをかける方が、つまり『~のため』と優しくしてあげることは、自分のためにもなっているのだからと思えるようになれば、もう少し暮らしやすい世の中になるのかなと思いました。  どうもありがとうございました。

その他の回答 (20)

noname#1753
noname#1753
回答No.11

オレは「自分のため」に生きてみたい。 鈴木議員がなぜあんなに嫌われてしまうのか。 それは彼が「自分のため」に生きているからでしょうか。 一歩引いた視点がら見るとそれはむしろ逆で、彼は「自分のため」に生きてこなかったからではないでしょうか。 困っている人を助けるのは、見捨てて罪悪感を持ちたくない、つまり「自分のため」との指摘ですが、僕はこの自尊心を生きていく上で最も大切なものだと思います。 誰かが貴方のために何かしてくれても、その人が他人の悪口ばかり言う人なら貴方はその人を信頼できますか。 しかし自尊心は自分の周りの人だけでなく、もっと広い範囲で発揮できるものでありましょう。 本当の信頼というのは、相手にその自尊心を強く感じるかどうかではないでしょうか。 オレは「自分のため」に生きてみたい。 このセリフは20年くらい前、友人に向かって言ったのを覚えています。 その時友人は僕の目を真剣に見てくれました。

azari
質問者

お礼

回答ありがとうございます。  この質問をしてみて、一番印象に残っているのは『自分のため=自己中心的』というわけではないというところです。  うーん、僕が思っていた以上に、この問題は深いのかと思いました。ありがとうございました。  

noname#4793
noname#4793
回答No.10

その通りです。 誰かに何かをしてあげたいと思うときは、自分がそれをしたい時です。 あんまり、人の為だとかそういうことは考えないでいいと思いますよ。 自分のやりたいことが、誰かの役に立つのはいいことです。 それ以上の意味を持たせる必要はないと思います。 自分の為に(達成感や満足感を得る為に)した行為が結果的に相手の為に なっているという事は、素晴らしいではないですか? 昔何かで読んだことがありますが、人には脳内モルヒネが出るのは 美味しい物を食べた時や出産時など色々あるけれど、もっとも強く出るのは 人の為に何かをした時だそうです。 そもそも人間ってそういう風に造られているのでは?

azari
質問者

お礼

回答ありがとうございます。  そうなんですよね。  これは『自分のため』にやっているんだ。という風に考えれれば、それに対する見返りなんてなくたって、何とも思わないのでしょう。  結局はあれは全部自分のためにやっていたことなんだという風に思えるようになればいいのですから。  人間は本能的にそういう風になっているのかもしれません。  ありがとうございました。

回答No.9

 azari さんこんにちは、  すばらしい質問ですね。なかなかそこまで考えが及ばないと思います。  結局は自分の利益になるというような自分の行動なり何なりを「自己回帰的」といいます。No.7の cse_ri さんのおっしゃっている通りです。  5世紀のころにヴァスバンドゥという名前のお坊さんがガンダーラのペシャワールにおられました。「自己回帰的な生き方をしていると、その人の人生は空しいよ」とおっしゃた方です。  わたしたちはついつい無意識で自己回帰的に生きてしまいます。それを仏教では「煩悩」というみたいです。煩わしい悩み、という意味ですね。  そんなことで azari さんのご質問は人類永遠の問題をはらんでいるのですよ。どうすれば自己回帰的でなく、空しくない人生を生きられるか、考えてみたいとおもいます。ありがとうございました。

azari
質問者

お礼

こんにちは。 回答ありがとうございます。  そうですね。自己回帰的でないとか、煩悩がない生き方ですか。それができたらいいなと僕も思います。  みんながほかの人のことを思いやって、そんな人間がこの地上に満ちたらこの世の中はどうなるのか見てみたい気がします。  ありがとうございました。   

noname#2218
noname#2218
回答No.8

 私の経験です。私は重度痴呆老人の介護を仕事にしています。もちろん生活の為に正当な報酬をいただきますし、時には自分の利益の為にスタンドプレーになってしまうこともあります。それでも高熱を出して苦しんでいる方がいれば少しでも楽になって頂きたいと自分の睡眠時間や食事の時間を削ってしまうのは理屈ではなく自然な感情です。  今は新人を教育していますが、私の指導は厳しいです。もちろん人の命に関わる仕事ですから厳しくてあたりまえですが、それ以上に私がもっと勉強をしていればと過去に何度も悔やんだ経験があるからです。今は苦しくてもそれが彼の為になると絶対の自信を持っています。  学生さんのようですが、頭で理屈をこねまわさずに色々な社会経験をされたほうが良いと思いますよ。自分のためとか他人のためとか明確に区別できないことのほうが多いです。極端な話、利己的な動機から他人を助けたとしても、結果は他人を助けたことになります。大切なのはその動機や理屈ではなく行動だと私は思いますよ、

azari
質問者

お礼

回答ありがとうございます。  僕の浅はかな質問でもし気分を害されたようでしたら、ごめんなさい。謝ります。   >大切なのはその動機や理屈ではなく行動だと私は思いますよ  僕もそう思いますよ。  ただ、僕が問題だと思うのは「私はこんなに頑張って、あなたのためを思って行動しているのに、あなたは何もしていないじゃないの」というようなことを、言ったり、思ったりすることは正しいのかなと思うのです。  『~のため』に行動することそれ自体は素晴らしいことだと思いますが、それに対して見返りを期待する人はいると思います。そうなってしまうと、もうそれは『人のため』とはいえないのではないかと思うのです。  ありがとうございました。  

  • FRO-SK
  • ベストアンサー率17% (6/34)
回答No.6

回答ではないのですが、これと似たような話を聞いたことがあります。なにか考える材料になるかも知れません。 現在、多くの企業で「地球に優しい」商品づくりがなされ、世間ではそれがもてはやされています。「地球のために」「地球に優しい」というのは、しかし、本当でしょうか。地球は極論、砂漠になっても死の星となっても、困ることはありません。「困る」と理性をもって考えることのできるのは、ただ人間ばかりです。「地球のため」ではなくて、「自分のため」ということですね。ちょっといじわるな考えかも知れませんが。

azari
質問者

お礼

回答ありがとうございます。  個人的には人間がすべて消滅したほうが、そこまで行かなくても人間がかなりその数を減らした方が、『地峡のため』になりそうな気がいますが。  「~のため」というのが商業と結びつくとかなり怖いなと思います。ありがとうございました。

回答No.5

人のために何かすることが,自分のためになっているんだと思います。 私の場合,欲がないというか,他人の関わらない自分だけの問題になると 「どうでもいいや」と思うことが多いです。 それが,自分がすることによって他人が喜ぶとか助かるとかいう問題になると, その人を喜ばせるために,自分が出来る最大限のことをしようと努力できます。 他人がいないと何も出来ないことの言い訳にも聞こえますけど…(^^; 自分のしてることが他人のためになっていると思うだけで私は幸せを感じます。 そうすることで自分自身が高まるのではとも思います。 だから「他人のためイコール自分のため」になると思いますけど… 鈴木宗男さんの例に当てはまるかはわかりません(爆)

azari
質問者

お礼

回答ありがとうございます。  素晴らしい人ですね。僕は自分だけの問題になったほうが自分ができる最大限の努力をしようと試みます。  あなたのような方が地球に満ちれば地球の未来はきっとバラ色なものになるでしょう。いや、地球とまでは行かなくても日本に満ちてもこの国はだいぶ違ったものになるのではないでしょうか。  ありがとうございました。

noname#1764
noname#1764
回答No.4

ご質問の内容に対してご回答になればと思い書き込みます。 私は、消防業務に従事するものです。 消防はご存じのように、火災、救急、救助と、人命に関わる仕事をしておりますが、何故かと正直に申しますと、自分のためとなります。給料をもらうことにより、自分の生活ひいては家族の生活のために働いていることになるでしょうね。 我々は、119番があれば、否応なしに出場しなければなりません。それが、小さな事故でも、大きな災害でも同じです。イヤなら仕事を変えればいいだけですからね。 他人のために、ホース1本に命を預けて、仲間と一緒に炎の中に飛び込む時は、恐怖心で一杯ですが、それ以上に、この災害を最小限度に止めたい、これ以上災害に泣く人を減らしたい、という気持ちが我々に勇気をくれます。 先だっての米国貿易センタービルの同時多発テロでは、数百人の仲間が犠牲になりました。我が国でも殉職する職員がおります。その仲間が死地に赴く時は、全員とはいいませんが、他人のために何かをしたいという気持ちがあったと思います。それだけ災害現場は恐ろしいんですよ。 現場へ出場する時は、恐怖心よりも、他人のために何とかしたい。その気持ちがあることは理解してください。

azari
質問者

お礼

回答ありがとうございます。  下の医療関係者の方のお礼にも書きましたが、僕の何気ない質問でそういう他人に奉仕することを第一義としている方(消防・警察・医療等々)の方々の気分を害するつもりは質問をした当初は、まったく考えておりませんでした。これについては素直に反省します。ごめんなさい。  僕なら小火程度ならとにかく、「バックドラフト」の映画のように燃え上がっている建物の中に見知らぬ他人が閉じ込められているからといって、頭から水をかぶって突っ込んでいくというのは、空想の中の世界でしかありませんが、消防士の方は頻繁にあるのでしょう。     確かにその時に「見殺しにしたら給料が引かれるし、出世にも響くからな」と思うような人はほとんどいないと思います。  個人的には消防士の方というのはもっと社会的に評価されてもいいと思うのですが。  ただ、ひとつだけ言わしてほしいのは(あまりいいたくないのですが)、もしあなたが非番だったときに近所で火事があったとします。  そのときでもあなたは仕事中と同じようにバケツを担いで、燃え盛る炎の中に飛び込んでいけますか?という話です。  もし「当たり前だ、そんなこと聞くほうがどうかしている」と思われるのでしたら本当に僕の考え違いで、僕のような卑しい心の持ち主からすればあなたは神々しくさえあります。僕のようなやつのことなど忘れてください。  でも、もしそうでないならば、、、  この先は言いません。きっと僕の心はすさんでいるからそんなことを考えるのでしょう。ありがとうございました。    

  • bishop0
  • ベストアンサー率12% (8/63)
回答No.3

僕もこの質問をみて考えてみたんですけど、ちょっと僕の文章力(?)じゃ文章にできないので、簡単に思ったことだけ書きます。 僕も結局、『~のため』といっても、自分のためにやっていると思います。 でも、相手のためになることをやってるんだと思います。 ・・・なんかうまく説明できないんですが、自分にも相手にも、両方のためになるんなら、僕はそれが一番だと思います。 なんかまとまらなくてすいません。

azari
質問者

お礼

回答ありがとうございます。  僕自身もこの質問は文章を考えるのに一番時間がかかりました。  僕が言いたいことの半分でも伝わればいいや、みたいな気持ちで出してみたのですが、予想以上に回答が多くてとてもうれしく思っています。   >自分にも相手にも、両方のためになるんなら、僕はそれが一番だと思います。  僕も賛成です。ただ、時折「私はこんなに一生懸命頑張っているのに、どうしてそれが分からないの」という気持ちになる時ってありませんか。  そういう時、僕は『あれは自分のためにやっていたんだから』と無理やり納得させることにしています。  ありがとうございました。

noname#1929
noname#1929
回答No.2

こんにちは。 非常に深い質問で、私も考え込んでしまいました。 私は医療関係者ですので、いつも周りでは「患者さんのため」という言葉が飛び交っています。これはある種呪文や、暗示と同じなんですね。そもそも医療従事者は 「病むひとのため」にある仕事であり、そのために自分たちの存在価値があるので、確認するために日々「~の為」の言葉尻をよく使います。ただし、病む人達のために本当に志高く働いている人は残念ながら、一握りです。最近の医療過誤事件を見れば、歴然です。「患者さんのため」がいつしか「自分のため」にあっさりと変わってしまったのです。医者やナースも人間ですので、生活も掛かってるし、劣悪な雇用状態の中で、壊れてしまうのも当たり前なのですが。 (注:素晴らしい病院や関係者も、いるので誤解はなさらないで下さいね。) 要は、あなたの仰るように、殆どが「自分のため」でしょう。 もともと、人間は自分のことしか考えられない生き物ですが、長い間の歴史で、他人に関わって生きざるを得ない状況を自らあみだした動物、と私は思います。 弱い生き物ですから、「~のため」という状況を作ることによって、自分の存在価値を確認してるように思います。 日本人だけではなくて、「正義の為に」殺戮を続けている国家もありますね。「アラーの神のもとに(為に)」人を殺す人間もいます。 少々、救いを。本当に「人のため」に生きた有名な方はマザー・テレサと思います。(私は無宗教ですが。) 他の方から、沢山の意見、寄せられるといいですね、Good Luck !

azari
質問者

お礼

回答ありがとうございます。  あなたの他にも消防関係の方の意見もありますが、こういう職業についておられる方にとって、僕の何気ない質問で気分を害されなかったか、今になって心配になりました。    さて、一月ほど前『緊急救命士(だと思いましたが)』の人が『気管内挿管』をやっていて、その行為は厳密には法律違反になるから止めるようにと通達を出した県がありましたが、あれも結局は誰のための法律かということになるのではないでしょうか。  日本医師会が医師の特権的な行為を減らしたくないから、緊急救命士にはやらせないのか、それとも本当に彼らにやらせると危ないと思っているのか。  緊急救命士が本当に自分の目の前で死にかけている人を何とか救おうとして気管内挿管をやらせてくれといっているのか、それとももっといろいろなことをやらせてほしくて、そういっているのか。  取材を見ている限りは緊急救命士のほうの言い分が正しそうでしたが。  これは『自分のため』か『人のため』か。どこまでだったら許されるのか。医療関係者ならば思い悩むことも多いのではないでしょうか。  ありがとうございました。  

  • colonel
  • ベストアンサー率42% (33/77)
回答No.1

ボランティアを例に説明します。「何のために」ボランティア活動を行うのかという問いに対して、2つの回答があります。1つは困っている「人のために」、もう1つは「自分のために」です。前者を利他主義(altruism)、後者を利己主義(egoism)と称します。 利他主義でボランティアを行う人は、奉仕の精神のもと、自己の利益を考えずに、極端な場合は自己を犠牲にして、「人のために」ボランティア活動を行います。これこそ純粋な「人のため」の行動です。具体的な例としては、熱心な宗教家による貧者の救済活動があげられます。 利己主義でボランティア活動を行う人は、たとえばボランティア活動を行って自分の技術を磨く、就職のためのキャリアを得る、達成時に満足感を得る、自分が世の中に必要とされていることを感じる、ためなど様々な目的から活動します。現在のボランティア活動に参加する人は、利己主義の方が多いといわれています。つまり自己充実のために活動していることになりますが、しかし、これは一方で、ボランティア活動を通じて「人のため」になっているのです。注意すべきは、利己主義は自己中心主義ではありません。鈴木宗男のケースは、当選当初は「人のため」(限定的にいうと、北海道民のため)と思っていたのが、次第に自己中心主義(金儲け、自分の派閥設立の目論見等)に変わって行ったのではないでしょうか。 少し長くなりましたが、私的意見としては、「人のために」行動することはあると考えます。ただそれは、個人が利他主義か、あるいは利己主義かのいずれを取るかで、「人のため」と「自分のため」のバランスの傾きが違ってくるのではないでしょうか。「人のために」という考え方がなければ、この社会をホッブス的な「万人の万人による闘争」の厳しさから救済できない、と考えます。 的外れな回答でしたら、ゴメンナサイ。

azari
質問者

お礼

回答ありがとうございます。  利他主義と利己主義の説明はとてもわかりやすかったです。  確かに、『自分のため』と『人のため』のバランスが大事になってくるのでしょう。  現代では『人のため』といって、『自分のため』に行動している人が多いようですし。  ありがとうございました。