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学校へのおメダイ、その後
横浜市港南区市立小学校、オプション、カトリック山手教会 まだ、クラスで5人ばかりの子から、おメダイはずせ攻撃を受けております。 反撃(でもないのですが、理解を求めると言った方が適切かも?)文書を作成しましたので、添削おねがいします! ------------------------------------------------- Sもおとうさん、おかあさんもいいおともだちがいっしょで、とてもうれしいとおもっています。 さて、よのなかには、いろんなかんがえの人がいますよね。 それぞれのひとが、みんながしあわせにくらえるよう、いっしょうけんめいにかんがえていますし、そのためにたいせつだとおもうこころをだいじにしています。 Sが、イエスさまのじゅうじかにかかったおメダイをしていくのは、イエスさまをしんじ、いつでもイエスさまといっしょにいたいからです。 おしゃれとかということではないんですよ。 このことをきちんとおはなししていなかったSもいけないですね。 じぶんがしんじていないものでも、しんじるひとのきもちをたいせつにしてくだされば、とてもうれしいです。 みなさま、それぞれのおうちでこれからたいせつなおはなしをきくことになるでしょう。 もしもいけんがちがっても、ひとを、おともだちをたいせつにしていくことはきっとおなじはずです。 しりあえたみなさんがやさしいきもちをたいせつにしてくれるようになれば、とってもあたたかいきもちになります。 ちょっとむずかしいけれど、チェ・ゲバラというおとうさんのこどもたちへのおてがみをさんこうまで。 とりわけ、せかいのどこかであるふせいがだれかにたいしておかされたならば、それがどんなものであれ、それをこころのそこからふかくかなしむことのできるにんげんになりなさい。 よんでくれて、ありがとうございました。
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こんにちは。 以前の時にも見させていただいていました。 お気持ちはすごくよく分かるし、 心の支えとなるものを持つ尊さも分かります。 でもそれは、大人だからだと思います。 理解してもらえれば何よりですが、理解してもらえなくても仕方ないという心の広さも必要かと思います。 子どもたちの心はまだ成長中です。 そのため、学校でもさまざまな物を我慢することがあります。 こどもたちは、それぞれ色々な物に対して、大切だとか、大事だとか思っています。 サッカーをやっている子が、有名サッカー選手と同じミサンガを身に付ける。 有名アーティストに心酔している子が同じアクセを身に付ける。 どれも、自分がだいじに思っている存在をより身近に感じていたいからです。 しかし、学校では一定のルールがあり、 アクセなどは禁止されていることでしょう。 ちょっと知恵が付いてきた小学生、自分のはだめで、 宗教上の物は外見似ている物でも許されると言うことは、 納得しかねるのではないかと思うのです。 人に上下はないと説く教えがあるのであればよけい、 イエス様なら良くて、○○はだめという そういう結論になるのは矛盾してるように思うのです。 今は、子どもの発達段階から考えて全員に分かってもらうのは無理ではないかと思うのです。 その状態は、思春期が終わるくらいまでは続くかと思います。 高校くらいになれば、視野も広がり、他者への許容範囲も広くなってきます。 それまでは、無理に説得すると言うことを考えない方が 安らかな心で過ごせるのではないかと思うのです。 なお、集団生活で金属製の物を身に付けているのは、 危険でもあるので、そちらの意味でも心配です。 アクセが禁止になっているのは、そういった意味でもあるのです。ご承知おきを。 おメダイがアクセと同等に語られることに抵抗があると思いますので、 その点は申し訳なく思います。 宗教批判の意味は全くありませんので誤解しないでくださいね。 お子様が気持ちよい学校生活を送れるといいですね。
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- ruck
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再びすみません。 皆様の回答を読ませていただきました。私も正直に言うと、ルールは守らなければいけないし、できれば波風の立たない解決法(例えば小さな袋におメダイをいれて持つとか)はないか、とも考えました。しかし子供が大切に思っているものをただルールだからと取り上げることは出来ないし、周りとの摩擦を避けるために表面上だけ取り繕っても、何の解決にならないとも思うのです。 他の学校はわかりませんが、うちの子供たちが通った公立の小学校にはきちんとした形での「校則」はありませんでした。中学でさえ、娘の通う私立中学には、生徒手帳に明確に校則が明記されていますが、息子の通う公立中学では、「中学生らしさ」「生徒の自主性」程度の紙が1枚配られただけです。だから小学生でもミサンガをつけている子や、茶髪にしている子も何人か見かけます。低学年の女の子の髪を縛るゴムにはお花やキャラクターがついているし、高学年ではアイドルの下敷きを持っています。ランドセルや通学鞄には、小さいぬいぐるみやキーホルダーがいっぱいついています。そういう風に「みんなやってる」事はよくて、「ひとりだけやっている」おメダイはダメというのはどうなのでしょうか。 以前外国で活躍する若者の特集があり、その中の幼稚園教諭が、「一番戸惑ったのは、日本では『あそぼ』といわれて『あそばない』と答えると、『仲良く遊びなさい』と指導するけれど、こちらでは今は遊びたくない子の気持ちも大事にする事。」というのを聞いて以来、私は子供の見方や指導方法を見直しました。だから相談者様のお子様の気持ちも大切にしてあげたいのです。 ただ残念ながら前回の質問を読む限り、担任の先生はあてに出来なさそうなので、質問者様も他の子供達に理解を求めるにはそうとうの覚悟が必要だと思いますよ。 まとまりがなくてすみません。
- sophia35
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こんばんは。 先のご質問の際にも回答させていただいた者です。 今、質問の方を拝見させていただきました。その上で・・・私も#4さんの回答と、同意見でありますし、尚且つ、この手紙をもって溝が深まる事もあり得ると言う事を理解された方が良いのではと思い、回答させて頂く事にしました。 先ず、我が家の3年生になる子供たちに質問文を読ませて見たところ、正直言って字面は追う事は出来ましたが、内容は理解はできませんでした。その為、私自身がその内容について説明した上で感想は、「意味は分かるけど、学校のルールは守らなければならないでしょう?その学校のルールがあるのに、ルールを守らないことは『ふせい』じゃないの?それを守らないことを誰かが悲しむのは構わないの?」でした。私自身も正直なところ、内容的に一方向からのみのお話のように感じ、だったら「外せ」と言って、社会規律に対して正義を示している子供たちは「悪」なのか?と感じるところがあります。 また、信仰はとてもデリケートなものです。私は神道神職の家系であり、また、母方の叔父に神父を持つ為、宗教に対してはかなりグローバルな視野で物を見る事ができるようにはなっていますが、多くの特定信仰を持たない人たちからは、宗教はある意味「嫌悪」の対象になりかねない場合もありますし、また、ある特定の日本でも結構大きなシェアを誇る新興宗教などでしたら、全く他の宗教は受け入れないように教えとしてある場合もあるのです。ですので、これを子供に渡ししても理解は出来ない分、親にこの内容を聞きに言った時、個々の家庭でどのように捉えられるか・・・それにより、より窮地にお嬢さんが立たされるのではないか、その点を憂慮しなければならないのではないでしょうか。 愚息と同じクラスに、親御さんから代々続く、家族全員が洗礼を受けたカトリック信者のお嬢さんがいらっしゃいます。このお嬢さんのお母さんとは親しくしていて、以前のご質問の際にも、質問内容を話して聞かせたことがあります。 その時彼女は、「確かに心の拠所がある事は大切かもしれないけど、それが彼女(お嬢さん)の所属する場所でルールに反するのなら、我が家の場合はそれを優先するわ。矛盾を感じようが、遺憾に思おうが、それが定められたものなら、それを乱すことの方を神様は許さないと思うしね。常に心に信仰があれば、是が非でもそれを貫く必要も無い。それがルールを侵さない場所でのみ、行えば良いのだと私は思うわ。」と、言っておりました。 親御さんの気持ちは痛いほど分かります。しかし、今、是が非でも通さねばならない信念では無いと思うのです。(それは信仰心ではなく、『メダイを着ける』と言う行為について)意に沿わない回答で申し訳ないのですが・・・同じ子を持つ親として、信仰は何たるものかを少しは知った人間として、私は、娘さんの今後を考えれば、お手紙を渡されるのは控えられた方が良いのではないかと思うのです・・・
お礼
すみません。No.7の方へのお礼の欄で、補足がありましたので、もうしわけありませんが、こちらで補足させていただきます。 質問欄で文字数が足りず、割愛した部分がありますので。以下です。 (これはいらないかも)そんなことはないとおもいますが、いじわるをつづけるような子がいたら、子どもでもゆるしません。 みなさんはまだ子どもだからしかたないので、おとうさんとおかあさんとさいばんというばでおはなしをさせていただきます。 なんて、大事な脅迫文を割愛してしまいました。 とりあえず、配るのはやめといてよかったかもしれませんね。 (でも、物理的な力や、通常の言論の域を超えたら、いつでもその気はあるのがちょっと興奮症ですね。) 電車や病院で携帯電話を不都合に使用する人いたら、いつも注意してしまう習性ですし。そのうち、刺されるかもしれませんね。 23年位前には、飲み屋さんで意見違う人とお話していて、いきなり殴られたので刑事告訴と民事裁判やったこともありますけど、最近はちょっと元気なくなってるかもしれません。 でも、親馬鹿なのか、子どものことになると熱くなってしまいます(^^;
- harun1
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子どもたちへのお手紙は少し待ってください。 この問題は基本的人権に関わる問題だからです。 小学校1年生であっても 理解しなければならない、また守らなければならないルールがあります。 宗教的な物とアクセサリーが同一でない事を学ぶ必要があります。 現行の教育基本法にも、宗教に関する寛容の態度及び社会生活における地位を尊重しなければならない、となっています。 お子さんを教材にするようで申し訳ないのですが、小学生に人権について学ばせる良い機会だと思います。 担任の先生だけでなく学校全体で取り組んでもらえる様に、話し合われたらどうでしょうか。 人権に関する教育の時間は通常2学期に組み込まれていますが、具体的な事例があれば予定に縛られる必然性は無いと思います。あなた自信が特別講師として話される事も可能かと思います。(ただし、公立学校の場合、宗教の授業にならない事が条件です) 子どもたちに手紙を書いても 先生がきちんとした指導をしないと結果は変わらないと思います。
- ruck
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前回おメダイついて回答させていただいたものです。 お父様のお子様を思う気持ちのあふれたお手紙ですね。ただ前にも書きましたが、イエス様が誰かわからないお子さんもいると思いますので、まずはそれを説明したらいかがでしょう。クリスマスは皆知っていると思うので、「みんなが大すきなクリスマスは、ほんとうはケーキをたべたり、プレゼントをもらう日だけではないんだよ。」といった感じで始めたらどうでしょうか。 ちょっと季節外れですが、『イエス様が生まれた』などの子供向けのクリスマスの絵本をクラスに1冊プレゼントして、まず呼んでもらうのもいいかもしれません。飛び出す絵本形式のものなら少し高いですが、子供は興味を持ちます。 チェ・ゲバラという~なりなさい。の部分は、「これはチェ・ゲバラというおとうさんのこどもたちへのおてがみです。」の方がわかりやすいと思います。「なりなさい。」の語尾は、質問者様の言葉と誤解されると、高圧的に取られるかもしれません。 他の方が回答しているように、ひらがなだけでは読みにくので、1年生が今まで習った字は漢字で書いたほうがいいでしょう。ひらがなを多用して書くときは、単語で区切って少し間を空けると読みやすくなります。「おかあさんはおはようといいました。」なら「おかあさんは おはよう といいました。」といった感じです。 ところでこのお手紙はその5人のお子さんだけに渡すのですか?もしそうなら、クラス全員に理解を求めたほうがいいと思います。どの保護者も我が子が可愛いだけにお付き合いも難しく、「こんなお手紙をもらったんだけど。」「うちはもらってないわよ。」「何でうちだけ?」となりかねません。できればお父様がクラスに行って、イエス様の絵本を読み聞かせして、お話できる機会が設けてもらえば、もっといいでしょうね。 よい結果がでるよう、お祈りしております。神様がお守りくださいますように。
- NinjaWhite
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No1さんと同じく、漢字を使ったほうがいいと思います。 読めない漢字でも振り仮名を書けば読めるし、すべてひらがな・カタカナだとよみにくいですね。 あと、小1・2年生への文章なら文節ごと(?)に細かくスペースをおいた方が読みやすいのでは? 小1・2年生の教科書や本はそうなっている物が多いと思います。
読ませていただきました。 漢字の無い文章の読みにくさを改めて感じました。 相手は小学1年生ですが、習った漢字も有ると思いますので、 もう少し漢字を交えたほうが読みやすいかな?という気がします。 ”チェ・ゲバラというおとうさんのこどもたちへのおてがみ” おとうさんの では無く、おとうさんからの にしたほうが分かりやすいと思います。 他の子供たちに理解されない、受け入れてもらえないなら、 その事を受け入れ理解する事も必要な事ではないでしょうか、 相手を変える事が無理ならば、自分が替わる事も時には必要です、 メダイは人目につかない方法で身に着ける工夫を。
お礼
みなさまの回答のおひとつづつが、とても勉強になりました。 いろいろ考えがまた思い浮かび、あらためて考えています。 あわせてお礼とさせていただきます。 ご報告です。 本日、校長先生と担任の先生に手紙を読んでいただき、よくお話させていただきました。 校長先生がお約束してくださったこと。 公教育を預かるものとして、児童の憲法上の権利である思想信条の自由はきちんと尊重し、学校運営を進めてくださるということ。 担任の先生がお約束してくださったこと。 児童を個人として尊重し、他人の権利をも尊重できる子に育っていけるように、すてきな子たちを育てて生きたいこと。 期待以上のお返事はいただけたと思い、手紙配布は控えました。 「さいばんしょ」のくだりは、私も激昂して、勢いで書いた感もありますし、ちょっと頭を冷やす時間をとりたいと思います。 以下、引用です。 「子供たちに生きた信仰教育を行う『教会文化』を創造しよう」 2003年ブロック司教訪問をふりかえって 2004年6月29日 聖ペトロ聖パウロ使徒の祭日 京都司教 パウロ大塚喜直 日本のようなカトリック信徒が少数派の国で、また信仰そのものが疑われるいわゆる世俗化していく現代社会の中で、子どもが成長してゆくにつれて、自分がキリスト者であることを負担や恥じとしてではなく喜びと誇りとして感じるように導くことが、私たち大人の究極の責任です。キリストの教えは、人に不快な義務や重荷を課すのではありません。 わが家は、実は家族の信条も必ずしも一致していません。 娘は無邪気なカトリック信仰。 私、父は、教会や司教団の歴史的な過ちがこころのどこかに突き刺さっていて、でも、今のバチカンと司教団の愛には信頼を置きながらも、「解放の神学」の「現実に飢えている者への霊的な救済を語ることが本当の愛なの?」と日々、揺れ動いています。 母はたまたま行ったプロテスタントの学校で、愛を学べず、「宗教は押し付け」と反発しています。 教会学校も父が連れて行くしかなくて。。。 でも、このサイトで、言ってしまえばなんのしがらみもないはずの、みなさんからの暖かいアドバイス。得がたい愛をいただいたと思っています。家族みんなで真剣に話し合いをすすめていきたいと思います。 本当にありがとうございました。