ボスニアヘルツェゴビナ紛争について
ボスニア紛争についてざっくりまとめてみました。
1)
間違いや、肝心な部分で抜けがあったら指摘お願いします。
2)
なぜアメリカは介入したのですか?
難民の流出を恐れたのでしょうか?
介入によるアメリカ側のメリットなどを教えてください。
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概要
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旧ユーゴスラビアからの独立をきっかけに起こった、
ボスニアヘルツェゴビナの民族紛争。
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大まかな流れ
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1991年 旧ユーゴスラビアからクロアチア、スロベニアが独立。
ボスニアヘルツェゴビナも独立に向け動き出す。
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しかし多民族国家だったボスニア国内では、
セルビア主導の旧ユーゴから独立したいムスリム人(44%)とクロアチア人(17%)、独立したくないセルビア人(33%)が対立。
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セルビア人は自治区を作って対抗しようとしたが、政府には認められなかった。
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1992年 ボスニア政府はセルビア人の反発を無視して独立を宣言。
同年 ECがそれを承認。国連に加盟。
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これを皮切りにセルビア人は軍事攻撃を開始。
同時にボスニア北部を「スルプスカ共和国」とし独立宣言した。(非承認)
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クロアチア人とムスリム人も応戦するものの結束力に欠けた。
セルビア人は旧ユーゴスラビアからの支援もあり優勢に。
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セルビア人は全土の6割を制圧、首都サラエボを包囲。
1992年の終わりまでセルビア人優位は続いた。
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クロアチア人とムスリム人の間でも対立は進み、1993年にクロアチア人は「ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国」の樹立を宣言。
セルビア人と同盟を結ぶ。
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1994年アメリカの介入。
それによりクロアチア人とムスリム人が再び手を結んだ。
NATOからの空爆も始まりセルビア人勢力は徐々に弱体化。
4ヶ月の停戦が実現。
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しかし停戦後再び激しい戦闘が起こった。
その際クロアチア軍を援護につけたクロアチア人勢が優勢に。
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セルビア人が非戦闘地域を攻撃。
NATOからの大規模な空爆によって報復を受ける。
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完全に弱体化したセルビア人勢力は和平交渉への参加を決意。
1995/10/13終戦。
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死者約20万人難民200万人を出したこの戦争は、第二次世界大戦後のヨーロッパで最悪の戦争といわれている。