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村上春樹『ノルウェイの森』のある箇所が判然としません。
第1章の終わりで主人公の「僕」が次のように言います。 「そう考えると僕はたまらなく哀しい。何故なら直子は僕のことを愛してさえいなかったからだ。」 この本を10年以上、何度も読み返していますが、村上作品の中でもとりわけこの箇所だけ、どうしても判然としません。本全体を読んでも、直子は直子なりにワタナベ君のことを(キズキしか本当は愛していなかったとしても)愛していたと思うからです。 この本の特徴の一つは主人公の「よく分からない」という言葉です。全体的にこの「よく分からない」という不可解さの雰囲気が基調となっています。若いときにありがちな将来への不安、アイデンティティの不確かさなどから、それは発せられるものでしょう。最後の「いったいここはどこなんだ?」というセリフがそれを象徴的に表しています。 さて、しかし、先の引用は「今の僕にはわかる」という確信から発せられています。直子が彼を愛して「さえ」いなかったのは「僕」には疑いのない事実のようです。問題はこの「さえ」なのです。「愛していなかったからだ」ではなく「愛して『さえ』いなかったからだ」。この言葉に込められた意味を、どうしてもつかみ損ねてしまいます。 つまり、自分ことを忘れないで欲しいといった直子の言葉が、愛して「さえ」いなかった、と結論付けられることに違和感を覚えてしまうのです。これは何故でしょうか? 皆さんのご意見を仰ぐことができれば幸いです。よろしくお願いします。
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お礼
たいへん興味深く読ませていただきました。 そして少しずつ理解できそうです。理解というのは2種類あって、腑に落ちる理解と、長い時間をかけて理解する(まさにワタナベ君ですが)、僕は今回は後者です。 >好きだったのだとは思いますが、目の前にたまたまいる思い出を共有する知人を好ましく思うことと、一人の異性を深く愛することは全然別です。 気付いたのですが、おそらく僕が問題にしているのは、「愛」の普遍性と偏在性についてです。僕は無宗教ですが、僕が言う愛とは、キリスト教の愛に近いように思います。その辺の齟齬が理解を阻んでいたのかもしれません。人は恋愛感情とは別に他者を深く愛せる存在であると考えます。これは個人の問題なので、横においておきます。 新たな問題は、愛してさえいなかった、つまりは好きでもなんでもなかった、ということにシフトしそうです。 もしそうならば、この物語の哀しさはもっともっと増しそうです。そしてafter 8さんが指摘されるように、このワタナベ君の一言は小説の全体のトーン、あるいは読みの方向性を支配する上でこの上もなく重要なパッセージになりそうです。 僕は男ながら、直子の立場がわかるつもりだったのです。ワタナベ君がよく直子のことを理解していないこともわかっていたし、キズキ以外を愛していない、あるいは愛せなかったこともわかります。しかしそこには直子の立場に立ってみても「友愛」という意味での愛があったように思われていました。 しかし、直子が彼のことをみじんも愛していなかったのだとすれば、本当にまったく救いようがない悲劇ですね。僕はそんなことが起きて欲しくない、と10年も前から願い続けていたのかもしれません。でもそのことをいったん受け入れて、さらに自問自答をし続けることでしょう。 しかし、やはりまだ腑に落ちないことが。「忘れないで」とどうしてワタナベ君に伝えなくてはならなかったのか。「忘れて欲しい」というのなら、分かります。自殺はこの世から消えてなくなることであり、つまりはワタナベ君のように、やはり人は「忘れて行く生き物」だからです。僕が忘れていくことを直子は知っていた…「だからこそ」忘れないで、と伝える。 僕は「自殺」という死への能動的な行為がもたらすさまざまなことをきちんとまだまだ理解していないようです。 さまざまな指摘をありがとうございました。