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紀勢線 阿漕駅

先日、紀勢線の阿漕駅に行ったのですが、無人駅にもかかわらず予想以上に大きい駅舎で感動しました。 また、近くの下庄駅や河曲駅にも行ったのですが、同じ無人駅でもどちらの駅も駅舎が貧弱で、阿漕との格差に驚きました。 阿漕の駅舎の経歴や駅舎を残している理由など、詳しくご存知の方、教えてください。

みんなの回答

noname#23881
noname#23881
回答No.4

一身田駅は、簡易委託駅ですね。 阿漕駅は、昔は隣の津駅よりも賑わっていたそうです。

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%BC%95%E9%A7%85#.E9.9A.A3.E3.81.AE.E9.A7.85
noname#23881
noname#23881
回答No.3

追記します。 参宮鉄道は、明治40年に津-山田間の複線化に着手しましたが、国有化されました。

hota2005
質問者

お礼

詳しく有難うございました。

noname#23881
noname#23881
回答No.2

元来、紀勢本線の津-多気間は、関西鉄道の津支線の開通を前提に参宮鉄道が開通させた区間です。このため、紀勢本線の亀山-多気間は、長い間参宮線となっていました。明治24年に関西鉄道が亀山-津間を津支線として開業し、津以南は、関西鉄道の津支線開通を見越した地元の有力者が南勢鉄道を発起、21年に津-小俣(現 宮川)間の路線免許を申請しましたが、遊覧路線だったために国策に合わないとの理由で却下されました。その後、渋沢栄一はじめ。当時帝大総長の渡辺洪基、日本鉄道社長の奈良原繁、山陽鉄道・九州鉄道・北越鉄道の社長を兼任していた今村清之助などを発起人に加え、参宮鉄道に名称変更の上、22年に申請、一発で認可されました。その後、26年に着工、同年中に津-宮川間が開通しました。 その後、昭和5年に参宮急行(現在の近鉄)が山田乗り入れを行い参宮線の乗客を奪うことになりました。そのため、参宮線は姫路-京都-鳥羽間(山陽、東海道、草津線経由)に食堂車つきの快速列車を走らせるなどして、大阪以外の地域の乗客の獲得に乗り出しました。また、東京からも快速列車を夜行で走らせましたが、この列車にはお偉方の為に1・2等寝台車が連結されていました。しかし、関西線・参宮線の状況は改善しませんでした。 参宮線は阿漕-高茶屋間などの複線化について参宮鉄道時代に着手していたのを引継ぎ複線となっていました。しかし、昭和19年に資材供出の為に単線となり、現在まで複線に戻っていません。また、このときに高茶屋から海岸にあった海軍工廠まで軍用側線が作られました。昭和34年に紀勢本線が全通し、津-多気間は紀勢本線に編入されました。多気駅の分岐が紀勢本線の方がカーブがきついのはその為です。また、戦前に阿漕-高茶屋間は複線だったために、現在も線路敷は複線分あります。

回答No.1

現在関東在住で、現在はよく知りません。 下庄駅などはただホームがあるだけですよね、駅と呼ぶのが憚られるくらいに。一身田は私が高校生時代は無人駅では無かったのですが、現在は無人駅なんでしょね。一身田で降りて、高田本山には行きましたか? 阿漕駅は当時から無人駅でしたが、確かに他の駅に比べれば大きいほうですね。 その近辺にかつて紡績工場があってその影響で比較的大きい「貨物」駅だったらしいです。津駅より賑わっていた。という高校時代に聞いた老人教師から話です。

hota2005
質問者

お礼

ありがとうございました。 あいにく一身田ではスケージュル的に降りれませんでした。しかし駅員は、いるようでした。多分委託か何かだろうと思います。