曹洞宗の僧侶です。
清め塩は仏教の教義に由来するものではありません。神道や、古来の素朴な葬送儀礼によるものです。そもそも仏教でいう霊の所在とか往来云々とは全く関係がありません。
こうした理由から仏式の葬礼、法要では「清め塩は必要ありません」とおっしゃるお寺さんも多くなってきています。
神道では「死」を「穢れ」ととらえますが、これは必ずしも「死体が汚い」とか「死んだ方の霊が恐ろしい」ということを意味しているとは限らないようです。確かに、「死体が腐敗すると汚い」「死霊が恐ろしい」という感覚が働きかけているのは確かですが、それよりも「生」ある者が「死」に導かれた事実、親しい者が失われてしまったという事実それ自体が、まだ「生きている」「残された者」である自分たちを「取り巻いている」状況・状態を「穢れ」と言うようです。
そこで、そうした状況・状態から自分を解き放つために用いられるのが「清め塩」と考えることができるようです。
No.1の方も書いておられるように、これは状況に区切りをつけるシルシのようなものですから、仏教が「死」をどのように考えているか、とは少し違う視点・立場で行われるしきたりのように思います。
私は自分が行う葬儀では、積極的に「清め塩はいりません」ということはありませんが、事前に相談を受けた時には、だいたい上のような事を説明しています。
墓参のたびに使われるのは、少し神経質すぎるかとも思いますが、それで気が済むのであれば、ことさら否定するようなことでもないと思います。
お礼
詳しくご説明ありがとうございます。 >そうした状況・状態から自分を解き放つために用いられるのが「清め塩」と考えることができるようです この考えが今の自分の感覚に合っています。 他の方のご意見も伺ってみたいので、締め切りはもう少し後にしたいと思います。