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皆さんにとって”生甲斐”ってなんですか?
今日、心療内科に行ってきました。自分では鬱病だと思っていたのですが、鬱病ではなく、”鬱状態”だそうです。この違いは良くわかりませんが・・・。この状況を変えるためには、 1.環境を変える 2.自分を変える 3.生甲斐を見つける と言われました。仕事をしている以上なかなか環境は変えれません。自分を変える事もずーっと努力してきています。では”生甲斐”といわれた時頭の中に”?”が出てきてしまいました。生甲斐は人それぞれだと思いますが、皆さんはどう思われますか?
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- binjirin
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pinknail05catさんに同意です。生甲斐を持てなんて、たまたまうっかりそういう表現になっただけだといいですけど。語弊が大きいし自分を変えろとかいうのはちょっと…。そういうのは気付いたら結果としてそうなっていたという形をとるべきです。 相手を義務感で縛るってのは、医者の都合、親や先生の都合、会社の都合で、相手の今の心を無視し幸せなんか考えてない証拠です。他人に強制ごとを迫ると自分にも虚しさが浮かびますよね。がんばれとか言うのも同じく逆効果で、相手を頑張らせその経過や自分の希望の結果を身近に感じる事によって自分が満たされるというエゴです。或いは相手に嫌われまいとする方便です。敏感な人はそのエゴを感じ取ってむしろ寂しくなります。本当に相手の事を思っている人は、がんばれとか期待してるよとか幸せにとかいう言葉は出てきません。でも普段そういう偽善的表現を耳に植え付けられてるため、うっかり口にしてしまいがちです。ただそれでも形の上で互いが繋がっているという僅かな温かさがあるのも確かです。 自分に対しても同じで自分を意識して生甲斐とか使命感とか目標とかで縛り付けても、意識してるって事は本心で望んでない証拠だから幸福感と結びつくどころか虚しさを増します。遠くばかり目を細めて首を伸ばして見つめるので息苦しくなり、身近なものが疎かになりバランスを崩します。物質主義の影響なのか、子供の頃からいい大学へ行けとか大物になれとか無意識に遠くを見させられ、それが良い事とさえ思わされています。それより身近なものにも満遍なく目を配り、もっとすぐ傍にある見落としていた事に気づく事で抜け穴から出られるものだと思います。 どうするかと言うと、全く興味の無かった分野をたまたま齧ったとか、雑誌を読んでいたらたまたまヒントがあったとか、付き合ったことのないタイプの人と偶然に一緒に遊んで影響を受けたりして、失われていたバランスを取り戻すんです。前だけを見ていた力を抜いてふと脇や後ろを振り返る感覚、行きつけの飲み屋でなく今日は他の店に行ってみようとかの気軽な変化です。無理に趣味を始めたり資格を取ろうとか大きな形あるものに執着すると、結果を意識して形に追われ精神面での収穫が無くなります。見つけるのは生甲斐じゃなく時間もお金もかからない一瞬一瞬の些細で無邪気な楽しみと共鳴的な温かさで充分です。生甲斐を置くのは遠くじゃなく真横のすぐ手の届く距離です。
鬱病と鬱状態は似て非なるものですよ。 鬱病は本当に深刻で常に自殺願望と隣り合わせです。 死にたい理由のあるなしにかかわらずです。 生き甲斐と呼べる物を持っていてもです。 さて、生き甲斐探し。これは鬱状態の人にとって一番難しい課題だと思います。 そんな酷な事を言うお医者さんの気が知れませんね。 まあ「理想は…」という意味で仰ったのではないでしょうか。 私の場合、子供を授かった時から子供の成長が生き甲斐になりました。 この子のためにできる事は何でもしよう。 この子を見届けるために少しでも長生きしたい。 そう思うようになりました。 でも今ではたくさんの小さな生き甲斐も見つけています。 気の合う友達と美味しい物を食べたりお酒を飲んだり。 夢中になれる趣味も見つけました。 今では歳をとるのも生き甲斐です。(ヘンな言い方だけど) しばらくはのんびりと過ごされて無理に生き甲斐を見つけようなんてしない方がいいですよ。 そのうちちゃんと見つかりますよ。
- susumufire
- ベストアンサー率22% (86/380)
生甲斐を見つける・・・ 私は何かに打ち込めることだと思います。 それこそ、仕事以外で時間を忘れるくらい集中できることだと思います。 例えば、仕事を終えて家に帰っての晩酌や、 何かのスポーツをやってみるといった具合だと思います。 無論、スポーツを観戦するといったモノでもOKだと思います。 あくまでも、私の考えですが、 「仕事を忘れる」くらいなにかに没頭できるものだと思います。