私の高校のときの国語の先生を思い出しました。
ちょっとわたくしごとの話になるのですが、よろしいですか?
私は学校という公的な場所が大嫌いでした。担任も人間性からして尊敬できる教師には皆無でした。
権力主義、クラスの問題に対しての事なかれ主義、生徒をゆがんだ教育理念の小手先に利用する。そしてあの頃の偏差値教育・・・。
生徒ってそのようなことの、どうしようもない対象者ですから、思春期という鋭い感性もあいまって本質を見抜いてしまうんですよね。その中で私は教育者側から見ればいわゆる反抗的生徒(あくまでも「非行生徒」ではありません)でした。
でも他の生徒はうまーくやりこなしているんですよ。成績に響くからということもあったのでしょうけれど、社会人になる一歩手前の時期でしたから世渡りをそろそろ学び始めるのでしょうね。でも私はそういうことが最も不得手ですし、先生の主観によるかもしれない内申や成績のために自分の主張を曲げていられるか、という信念があったのでしょう。
私は小学生の頃から作文など書いたものを代表として選ばれたりしたのですが、高校でも、夏休みの宿題に書いた読書感想文をクラスから代表を選び卒業文集に載せるというときも代表者になりました。しかしそのような私の態度のことは職員室でも話題になっていたのでしょうね。その件は一度決まったことですが、突然取り消されました。理由は私の態度による、のだそうです。作品とは関係ないでしょう?と思いましたが、ああそうですかと別に反抗もせず、意外に呑み込まれてしまった私(笑)。
でもそのことは今でもよーく覚えてます。当時はそのからくりが見えなくとも見えたような気がします。ぞっとしました。これは明らかに圧力、以外の何ものでもないでしょう。
今から考えると、反抗的な態度(といっても口答えするだけ、職員室に友人と共に呼ばれても、彼女は泣く(演技?)、でも私は笑う、そんな程度でしたが)をとってきたことで確かに裏で何かをされたのは悔しいけれど、作文のためにたとえばそれまでのことを謝罪するとか、態度を改めるとか媚びるとかしてしまった方がきっと今でも後悔していたでしょう。
とまぁご質問のことからだいぶ昔のこと、でも今でも鮮明に覚えている以上のことを思い出しました。
だから教育者って絶対に主観に拠ってはならないのですよ。これは絶対ともいえる義務です。内申というのは進学、しいては将来に向けてのパスポートのようなものです。命を握られているといっても過言ではない。だからこそ厳しい客観性を求められるのです。
ご質問者様の作品に関して言えば、それが先生の「嫌う」という主観によっていないのならばよいのですが、またあなたのお仲間の評価もある。これは作品に関して両者の主観の違いですが、問題なのは教師という立場でいじめのようなこともやっている。こういう教師が子供の才能や可能性のフィルターになってしまう。私的には最悪の教師だと思います。
あなたの作品を決めるのはもっと広い世界の人たちです。そのお仲間も誉めているだけではない、あなたの作品に対し悪いものは悪いと言ってくれる客観性と平等性がある。教師がひとりだけくだらないことにこだわっているだけです。だから決してめげないでくださいね。
お礼
長文で、本当にありがとうございました。 先生と呼ばれる立場の人間って、自分より 生徒のうちの誰かが、自分のもっていないような 才能を持っていると、妬む人もいるのですね。 怖い事ですが。もっと教師自身が、誇りと自信を 持てばいいのにと思います。